備後歴史雑学 

幕末剣心伝23「天然理心流・土方歳三D」

「池田屋事件の前後」


 9月18日に芹沢一派が粛清された。芹沢の死後、会津藩は近藤を呼んで新選組に対する幕府の
沙汰を伝えた。
 近藤を大番組頭取の扱いとして月に五十両、副長二人は大番組頭の扱いで月四十両、助勤は大
番組の扱いで月三十両、平隊士は十両の扶持を与えるというのである。
 大番組というのは、徳川幕府の職制においては、老中に属して十二組に分かれ、平時は交代で
江戸城・二条城・大坂城の警備にあたり、戦時は軍の先鋒をつとめる役でもある。

 新選組の幹部たちは、直参同様の待遇を受けることになったのだ。ただし、あくまで「扱い」であっ
て、直参にしたわけではなかった。扶持が石高ではなくて現金であることも、会津藩や幕府の苦心
のほどがうかがえる。
 かつて近藤は、講武所の剣術教授方になることを熱烈に望んでいた。それを思えば大番組頭取扱
いは非常な出世であった。

 新選組も隊の運営は近藤派が一手に仕切ることになり、隊の第二次編成が行われた。
局長=近藤勇。総長=山南敬助。副長=土方歳三。
副長助勤=沖田総司・永倉新八・原田左之助・斎藤一・井上源三郎・藤堂平助・尾形俊太郎・
       松原忠司・安藤早太郎・武田観柳斎・谷三十郎。
諸士調役兼監察=山崎蒸・島田魁・川島勝司・林信太郎・浅野薫。
勘定方=河合耆三郎・尾関弥四郎・酒井兵庫。
 この体制で翌元治元年(1864)6月5日の池田屋事件を迎えるが、直前になって脱走者が相次
ぎ、当日の総員は42人にまで減少していた。


 池田屋事件の従来の定説によると、新選組は古高を捕えて、勤王方の志士たちが集まるのを知
り、山崎に探索させたことになっている。そして会津藩に応援を依頼したが、いつまで待っても来な
いので、土方は二十余名で四国屋へ向かい、近藤は、沖田・永倉・藤堂・養子周平の五人で池田屋
へ斬り込んだ、とされている。
 池田屋に集まっていた志士は三十名近くの数であった。ここへ、たった五名で斬り込むのだから暴
勇に近い。

 近藤の手紙によると、古高が逮捕されたのは5日の早朝である。古高は近江の郷士の子で、少年
時代に山科毘沙門堂門跡の侍僕となり、梅田雲浜(うんぴん)らと交わりを結んだ。そのころの同志
に湯浅五郎兵衛という者がいて、この湯浅にいわれて、筑前藩用達の桝屋高右衛門の養子になっ
た。三年ほどはおとなしく商売をしていたが、文久3年の政変以後、再び志士活動に戻った。
 湯浅は熊本出身でそのルートを通じて、宮部鼎蔵らと連絡をとり、武器調達の地下組織をつとめた
のである。

 6月1日、宮部の従僕の忠蔵が新選組に捕えられ、南禅寺山門の楼上に縛されている忠蔵を解放
してもらうために、出入りの小川亭になんとかしてくれと頼んだ。小川亭は金を使い、忠蔵の縄をと
いてもらった。
 実は、これが新選組の罠だった。新選組は桝屋に踏み込み、古高を捕えて家宅捜査した。
 すると、具足十領・槍二十五筋 ・短筒三挺・矢五百本・弓十一張、その他長刀や着込みなどが発
見された。

 土方は古高を拷問し、「これらの武器を何に使うつもりか」と訊問した。古高は拷問に耐えきれずつ
いに、
「長州系の浪士が中心になって、京都に火を放ち、その混乱に乗じて、帝を奪い去る計画がある」と
自白した。
 長州が何かやるらしいという噂は、かねてから流布されていた。

 そこで新選組は、この日の夕刻から京都の町をシラミつぶしに調べはじめた。
 池田屋へ調べに入ったのも、その探索の一環だった。まさか三十人も集まっていたとは予想して
いなかった。知っていれば、土方に二十余名も与えなかったはずである。
 池田屋事件は、出会頭の乱闘だったのである。近藤がのちに九死に一生を得たような思いだっ
た、としているのも、多数の敵との出会いを予想していなかったからである。


 新選組は池田屋事件後も、市中の長州勢掃討に懸命だった。松平容保もその為に十人の藩士を
応援させた。
 6月9日の夜には、東山の料亭明保野に長州人らしい数名が潜んでいるという情報が入り、新選
組では副長助勤の原田左之助や井上源三郎など十数名の隊士が出動し、会津側は柴司など七名
ほどが参加した。

 そして明保野を急襲したところ、長州人らしき者は一人も見当たらず、不審に思っていると、一人
の武士が物陰からおどりだした。さてこそとばかり、柴司が追いかけて槍で脇腹を刺すと、相手は声
を発した。
「土佐藩士麻田時太郎だ」と名乗りあげた。
 それであわてて傷の手当てをし、河原町の土佐藩邸へ送りとどけ、その仔細を守護職に報告し
た。
 こうなると守護職としても黙っているわけにはいかない。家臣の手代木直右衛門らを土佐藩邸に
赴かせたが、土佐藩士が明保野に集合して、新選組へ抗議に押しかけると騒いでいるという情報
が入る。

 これ以上事態が紛糾しては、かえって厄介だと案じて守護職側は、再度手代木を明保野に派遣し
て事情を説明し、麻田時太郎の見舞に改めて広沢富次郎をつかわした。
 ところが留守居役の中島小膳という者が見舞を謝絶し、
「武士たる者が理由もなく傷つけられて、おめおめと生き長らえているなどとは、もっての外の話であ
る。当人もかねて覚悟の上であろうから、御見舞の儀はかたく辞退したい」とうけつけない。

 この話を聞いた柴司は、
「自分の不注意から両藩の間に緊張を生んだのは、なんとしても申訳ない」といって、京都に滞在中
の二人の兄に事情を訴え、割腹して果てた。
 ところが被害を受けた麻田時太郎も、士道を立て得なかったということで自裁したのである。おそら
く詰腹を切らされたのであろう。
 新選組のいわゆる「浪人狩り」が生んだ不幸な波紋である。
 柴司の通夜には土方や井上など多くの新選組隊士が、弔問に訪れたという。


 京都から追放された長州藩は、失地回復のチャンスを窺っていたが、そこに池田屋事件が起こり、
藩内での意見は沸きかえった。
 そして出兵の上入洛し、武力をバックにして請願することが決議された。

 その間にも何度か、藩主毛利敬親(たかちか)父子と、三条実美ら七卿(沢宣嘉は生野の挙兵に
参加し、錦小路頼徳は病死して実際には五卿だった)の赦免を訴えるため使者を送っていたが、取
り上げられず、ついに武力請願行動となるのである。


「蛤御門の変」へ続く


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