備後歴史雑学 

「西国の雄」毛利元就13「対陶戦:折敷畑の合戦」


 天文23年(1554)5月12日、毛利の決起によって陶氏の勢力を安芸領内から追放した元就は、
広島湾岸に対陶防御網を張った。
 先ず広島湾の要港草津に城番として川ノ内(えのち)警固衆の統率者児玉就方を置き、廿日市の
桜尾城へ宿老の桂元澄を派遣して、それぞれ海陸両方面から来襲するであろう陶軍への備えとし
た。
 また、広島湾の東部一帯を統率する重要な基地、仁保島の仁保城へ香川光景(武田の旧臣で水
軍大将として大田川の海運を支配していた)と、牛田の東林坊(一向宗の僧侶であるが安芸門徒を
支配下に置く川ノ内警固衆で、多くの警固船を擁していた)を城番として入れた。
 このほか元就は、周防口大野にあった門山城を破壊し、9月には能美島を襲撃してこれを占領し
ている。

 陶晴賢は元就が安芸の陶方陣営を次々と攻略して、兵備を固めているという通報に驚き、津和野
攻撃の軍勢を安芸へ向けることにした。
 ところがたまたま、この年の春以来包囲していた津和野の三本松城でも、城中に兵糧が尽きたの
で、城主の吉見正頼が講和を求めてきた。
 晴賢は喜んでこの正頼の申し入れを受諾し、正頼の子亀王丸を人質に取って城の囲みを解いた。
 晴賢は包囲陣を解くと、すぐさま周防山代代十三郷の監軍宮川甲斐守房長に兵三千を与えて、安
芸攻略に向かわせた。
 途中、周防山代の一揆が加わって総勢七千に増え、9月15日の巳の刻(午前十時頃)に、廿日
市西方折敷畑山へ着陣した。

 このとき元就は、安芸太田・吉和・山里の各村で起こった土一揆を鎮圧するために桜尾城まで本
陣を進めていたので、すぐさま宍戸隆家と福原貞俊に命じて敵状を偵察させた。
 偵察報告では、晴賢自ら軍勢を率いて折敷畑に対陣しているという。明らかに誤報であるが、元
就はこれを信じた。
 毛利軍の総力を動員して敵を殲滅し、後陣の到着しない前に晴賢を討ち取ろうと考えた。
 すると、その出撃間際になって、厳島神社から社家棚守房顕の使者がやって来て、厳島神社の御
供米と祈?の巻数を元就に献上した。
 使者の口上に、
「今晩、霊夢を見ました。毛利殿が陶入道と合戦して、勝利を得た夢でございます。まさしく神様の
お告げと存じます。奇特に存じましたので御供米を奉じて参上した次第です」
 元就は大いに喜び、恭しくこれを拝受して、
「出陣前のこの時期に、このようなことがあるのは、われらに神様の御加護が浅からぬ証拠である。
神慮により勝利は疑いない」
 と、出陣する将兵を激励した。


 これより先、陶の軍兵が早朝に不意を衝こうと、夜半川岸に身を潜めているとの情報を得た。
 元就は、宍戸・福原の両将を従えて川岸に押し寄せたが、早々に自軍の兵を引き返させている。
 このとき元就は、川下に飛びかっていた無数の蛍火が、にわかに群れを乱して飛散したのを見
て、こちらの不意を衝こうとする敵兵の動きを察知したという。
 かくして、このあと戦われた折敷畑の合戦では、毛利軍三千余人は四軍に分かれて宮川の陣に
殺到し、宮川甲斐守の大軍を潰滅させている。
 この合戦で毛利軍の獲得した首級は、七百五十余首にも及んだという。


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