備後歴史雑学 

[真田兄弟・設楽原に果つ]

合戦の度ごとに必ず先駆けて敵陣を恐れさせた信綱・昌輝の兄弟武将の最期を描く。


 真田氏初代一徳斎幸隆は、武田信玄に臣従して奇智奇略を駆使して戦功を重ね、ついに武田二
十四将に数えられる重臣となっている。
 幸隆は永正10年(1513)に、信州菅平山麓角間峡谷の松尾古城で真田右馬允頼昌の二男とし
て生まれた。
 幼名を二郎三郎といい、長じて源太左衛門と称し、幸綱といった。真田家は男系の幼名に必ず
「源」の字をあてている。
 尚、幸隆の名は幸村と同じく後世に付けられたものといわれる。


 幸隆の長男が信綱、二男が昌輝で、この二人の兄弟の最期の話です。

 三男が二代目の昌幸、四男が信尹(のぶただ・信昌が正しいそうです。武田氏が滅亡したあと徳
川家康に仕え、四千石の旗本「御旗奉行」となる)、五男が高勝で金井氏を継いだ。

 長男の源太左衛門信綱は、若年のころから父幸隆に従って各地に転戦した。
 永禄4年(1561)の川中島合戦には、父に代って出陣し、妻女山の背後より上杉謙信の陣を襲っ
た、いわゆる「啄木鳥の戦法」の作戦に参加して武勲があり、騎馬武者二百騎を預かる部将であっ
た。
 勇猛をもって鳴る長槍騎馬隊は武田軍の主戦力である。
 実際、源太左衛門信綱は騎馬衆二百の先頭を駈けて、自ら青江貞次三尺三寸の陣太刀をふる
い、いつの合戦でも、その豪勇ぶりは評判であった。
 弟の兵部少輔昌輝、喜兵衛尉昌幸の二人は、そんな兄を畏敬していた。
 喜兵衛尉昌幸は若年から信玄に仕え、後に近習六人衆の一人となった。才気絶倫で世に「信玄
の小脇差」と評されたほどである。
 かって武田の家中に武藤という名家があったが、後継がなくて廃絶していたところ、信玄は昌幸を
してこの名家を再興させた。それで武藤喜兵衛尉と名乗っていた。


 天正3年(1575)4月中旬、甲府の城下は武田家領国の各地から集結した兵馬でごった返してい
た。
 4月下旬、総帥勝頼は越後の上杉への抑えとして、高坂昌宜を甲斐に留めて置き、その他全軍を
率いて駿河・遠江を経て三河へ押し入ると、5月1日長篠城を包囲した。
 城将奥平信昌、副将松平景忠、同じく松平親俊らは武田の大軍(一万五千)を引き受けて力戦奮
闘よく防いだ。
 武田軍は11日に城の渡合南門を攻め、13日には瓢郭を攻めて兵糧蔵を奪った。
 織田信長は13日に、一兵毎に柵木一本と荒縄を携行させて岐阜城を進発した。
 勝頼は織田軍の動向を察知するや、自ら陣頭に立って14日に総攻撃を開始したが、長篠城は陥
落しなかった。
 この武田軍の総攻撃が終わったあと、さすがの籠城勢も、
「此の日こそ城中も生たる心は仕らず者也」(寺埼覚書)という。
 結局武田軍は城を遠巻きにする状態となった。

 そのうち織田軍は15日に岡崎へ到着、16日に牛窪を経て、17日には野田に到着し、徳川軍と
合流した。
 翌18日には、織田・徳川連合軍は早くも設楽原に布陣したのである。


 19日、勝頼は諸将を集め軍議をした。馬場信房・内藤昌豊・山県昌景など宿将老臣はみな、織
田・徳川連合軍が優勢と情況を判断して、軍を甲斐へ引くが得策と主張したが、跡部大炊介・長坂
長閑らは、法性院(信玄)様以来、武田軍は敵に背を見せたことがない、進攻して雌雄を決すべきで
あると唱えて、互いにゆずらず。
 ついに血気にはやる勝頼の好戦的意向により進撃と決まった。
 真田源太左衛門信綱と兵部少輔昌輝もこの場に列座したが、終始発言することなく、軍議が終わ
ると兄弟そろって本陣から退出した。
「こわい戦をしてみせようぞ」兵部少輔昌輝が激しい語気を言うと、
「こわい戦になる」源太左衛門信綱は持前の無感情な言い方で応じた。

 翌20日の払暁時、武田軍は長篠の抑えとして小山田昌行・高坂昌澄らの二千の兵を残し、また
鳶ノ巣山など五砦に千余の兵を置いて、設楽原へ移動すると、兵を十三段にした鶴翼の陣を構え
た。
 真田信綱・昌輝の兄弟は、武田軍陣地の右翼に馬場美濃守信房・土屋右衛門尉昌次・一条右衛
門大夫信就らの諸隊と共に部署した。
 七丁ばかり前方、連子川ぞいに長々と柵を立て並べ、織田・徳川連合軍が旗幟を林立させてい
た。
 情報によれば総勢三万八千という大兵力で、正にわれに倍する敵である。
 しかし武田の将士は意気軒昂たるものであった。連子川は小川とも溝とも呼べそうな細流で、甲
斐駒の強脚をもってすれば難なく跳躍できそうに思えた。
 急造の柵など容易に蹴破れるはずに見え、武田の騎馬軍の槍先・太刀風の前には、敵の大兵力
などたちまち潰滅するであろうと思われた。
 じっとり汗ばむような猛暑の一日は、静寂のうちに20日が暮れた。
 夜半過ぎ、篠突く雨の中味方の後方長篠方面から銃声が轟き、武田軍の各陣地がざわめいた。

 間もなく鳶ノ巣山砦が敵の夜襲を受けて落ちたという情報が、各陣地へ伝達された。
 夜襲と聞いて色めき立つ部下の騎馬衆の間を、兵部少輔昌輝は徒歩で廻って、
「大事ない。鎮まれ」と制して歩いた。
「夜明けには押し太鼓が鳴り響こう。遅れを取らぬように、馬の沓を締め直しておけ」一騎ずつ馬側
に近づいて注意していると、ふいに肩をたたかれた。振り向くと兄源太左衛門信綱の姿があった。
「差物をはずしておけ。雨に濡らしては、いざ合戦のとき不便だ。先駈けに、おぬしの差物が見えな
くては、味方の士気もあがるまい」
 源太左衛門は相変らず無感情な言い方をしたが、兵部少輔は兄の言葉に大きな励ましを感じた。
 今日もまた真田兵部が真っ先を駈けた!合戦の度毎に、このような評判が必ずあちこちで交され
た。真田兵部の差物は全軍の将兵に知れ亘っていたのである。


 天正3年5月21日の払暁時を迎えた。雨はやんでいた。
 奥三河の草原に武田の押し太鼓が鳴り響いた。
 武田軍の左翼から、山県昌景の部隊が馬首を揃えてどっと突撃するや、正面の敵徳川軍大久保
忠世の陣地へ一気に駆け迫った。
 しかし敵陣の柵が意外な障害となって襲撃を遮った。騎馬は本能的に疾走をためらい蹄を停め
た。
 そのとき柵内から銃火が炸裂して、とたんに騎馬武者が一斉に鞍から姿を消した。
 緒戦に打撃を受けてひるむ山県昌景ではない。長槍騎馬の集団は一隊また一隊と執拗に柵に迫
った。
 その都度銃火が天地に轟き、騎馬武者は吹き飛ばされるように、もんどり打って落馬した。
 阿鼻叫喚の修羅場において、合戦の神とまでいわれ、武田の至宝と称された山県昌景も敵弾に
倒れ戦死した。

 そのころ武田軍中央の内藤昌胤。武田信廉ら諸隊も突進したが、この方面の戦況も同じことで、
馬防柵に阻止された騎馬集団は、銃撃を浴びて悪戦苦闘、壊滅したのである。

 武田軍右翼の正面へ、織田軍佐久間信盛の部隊が押し出して来た。
 挑発行動であることは明白であったが、馬場信房の部隊が突進して、即座に敵を蹂躙すると、丸
山の敵陣を占領して、そこで騎馬を停止した。
 後続する真田兄弟の部隊が丸山の敵陣に侵入して、馬場信房の前へ駈け寄ると、
「おれは仔細あって、しばらくこの場に留まる。お主らは突き進んで手柄をせられよ」馬場信房が怒
鳴るように真田兄弟へ言った。
 元々この決戦に反対していた馬場信房が、武田の敗北と戦況を判断して、勝頼の退却に殿軍を
引き受ける決心をしているのだ。と、源太左衛門は直解したのである。
「兵部、参れ!」源太左衛門は叫んだ。

 真田の騎馬衆は突進を再開して敵陣へ迫った。銃火が炸裂した。
 源太左衛門は馬上に身を伏せ、青江貞次三尺三寸の太刀を左右に打ち振りながら、まっしぐらに
に柵へ駈け寄った。
 何騎かの部下が続いて柵に取り付き、縄を切って柵を崩した。
 一の柵の突破口から乱入した兵部少輔は、さらに二の柵へ迫った。勇烈神速の奮戦に、危いと見
て敵の明智光秀・不破河内守らが応援に駆けつけた。
「滋井の末葉海野小太郎幸氏が後裔、真田一徳斎が次男兵部少輔昌輝。討ち取って功名せよ」
 呼ばわりながら兵部少輔は馬上から長槍をくりだし、明智の武士七・八人をたちまち突き伏せ、刺
し倒した。
 源太左衛門も太刀をふるっていたが、兵部少輔の白四ツ半の差物が、敵の槍衾の中に掻き消さ
れるのを目撃した刹那、自分も胸に衝撃を受けて落馬した。
「徳川の臣、渡辺半十郎政綱!」絶叫するように名乗って、敵の武士が詰め寄って来たが、源太左
衛門はもはや太刀を取り直そうとしなかった。

 ときに真田源太左衛門信綱は39歳、弟兵部少輔昌輝は33歳であった。
 そして兄たちの戦死しにより、武藤喜兵衛尉は旧姓に復した。真田昌幸である。


 最近の説によると、三段撃ちで鉄砲を効果的に活用したとの通説が、あいまいになりつつありま
す。
 急造ながら陣城を構築し、その上での馬防柵が有効であったのであり、鉄砲の数はそれほど無か
ったというのが最近の説のようです。


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