備後歴史雑学 

[真田家試刀会]

 「山浦真雄」

 山浦真雄は清麿の兄であると同時に師であった。しかも鍛冶と剣、双方の師である。
 信州小諸赤岩村の郷士山浦信友の嫡男で、初め剣に志し江戸下谷練塀小路の一刀流中西道場
で学んだ。
 真雄はさらに心形刀流と真心流の剣術も学んでいる。やがて剣士にとって生命ともいうべき刀の
目利きに異常に執着した。だが本当に気に入った刀がどうしても見つからない。そこで遂に、
「おのれ古伝の鍛法をさぐり、自づから造りて佩刀をなさんとおもひ立て・・」
(山浦真雄著[老の寝覚]より)
 つまり刀鍛冶になってしまったのである。師は浜部系の河村寿隆である。

 小諸藩一万五千石牧野家の扶持を受けて鍛刀に励み、「信州正宗」の評判を得たが、小諸藩で
はお目見得以下という低い身分であることにあきたらず、上田藩五万三千石松平家に移った。
 その真雄に隣藩の十万石真田家から招聘の話が起こったのは嘉永6年(1853)2月のことだと
いう。
 松代に出かけて行った真雄に、真田家家老真田志摩から、試し切り・打切り試しが命じられた。し
かも錵出来が得意か匂出来が得意かとわざわざ尋ねた。
 真雄が、実践用には匂物がよいと思うし、これなら得手であると答えたのに対して、それならその
不得手な錵出来で試したい、と申し入れたものである。
 真雄はこの注文を押し返した。錵出来の刀は、焼入れが高温のために深くなり、匂出来より折れ
やすくて実用に向かぬのは古来の定説である。
 たっての注文とあらば、作らぬでもないが、自分が得手とする匂物と両方作らせて欲しい。
 松代藩は真雄の要求を容れた。真雄はこの二振りの刀を慣れぬ松代の鍛冶場で28日間で仕上
げている。


 これにはわけがあった。
 それより20年も前の天保4年、時の松代藩主真田幸貫は、外国侵略の危機を予見して藩内の武
器拡充策を計った。
 非常時における藩士貸出用の長巻と刀を大量に注文した。この時、その仕事を一手に引き受けた
刀工が、水心子正秀の高弟で名工と評判であった江戸の刀工大慶直胤である。
 大慶直胤は当時の真田家江戸家老千四百石矢沢監物が贔屓にしていたのである。
 その関係で真田藩の上士たちは、江戸に出れば直胤の刀を手に入れたものだと云う。
 この関係で長巻五十振り、刀百振り以上が直胤によって真田藩に納められた。信州鍛冶より四・
五倍の高値だったという。
 その直胤の刀が松代で脆くも折れた事件が起った。何人かの武士がこの噂を聞きつけ、自分の佩
刀(直胤作)で試した。
 やはり簡単に折れる。大騒動になった。
 相馬大作と並んで平山行蔵の高弟だった山寺常山は真田藩の寺社奉行をつとめていたが、噂を
聞いて早速試した。古刀正宗との比較も試み、このためあたら名刀正宗を一振り廃物にしている。
この結果、激怒して大慶直胤を「大偽物」と罵倒している。
 庇護者の矢沢監物が死ぬと、松代藩と大慶直胤との縁はぷっつりと切れた。
 こうした苦い歴史を背負った松代藩である。真雄の採用に苛酷な条件を強いた理由はそこにあっ
たのである。


 「大慶直胤」

 水心正秀の高弟というよりむしろ新々刀第一の名工です。
 直胤は安永7年(1778)奥州出羽国山形の生れ、本名を庄司箕兵衛といい、はじめ大慶直胤と
銘し、後に筑前大掾を受領しこれを冠した。
 さらに嘉永元年美濃介に転じている。江戸下谷の御徒町に住み安政4年(1857)5月7日、79歳
で没した。
 相州伝を最も得意とし、備前伝がこれに次ぎ、その技倆は師正秀を凌ぐ出来栄えで、総て水心子
より豪壮な作柄です。
 全国各地で鍛刀している。備中新見の千屋にての作刀もある。


 「源清麿」

 信友の二男内蔵助環たまき(のち清麿)も兄と一緒に17歳のとき弟子入りした。
 はじめ正行・秀寿などと銘した。天保5年(1834)武家を志し江戸へ出、幕臣窪田清音すがねの
支持を受け、古作美濃志津を目標にして大いに技をみがいた。
 天保10年(1839)窪田清音の計らいで武器講をはじめ、一振り三両掛けでだんだん加入者に渡
すことにしたのだが、これを果たせず「武器講一百之一」を作っただけで長州へ逃避した。
 そして再び江戸に戻り、清音に前罪をわびて鍛刀を続けたのは弘化2年(1845)である。
 その後四ッ谷伊賀町に住し、翌3年正行から清麿に改銘した。
 四ッ谷正宗といわれた。が、安政元年(1854)11月10日42歳で自刃した。
 弟子に栗原信秀・鈴木正雄・斎藤清人がいて、それぞれに上手である。
 清麿が自刃したので、注文主には弟子たちが鍛刀した刀を納めたという。尚、清麿一派の作風
は、どれも錵の強い錵出来が多いです。



嘉永6年(1853)3月24日。試刀会の当日は、杏の花と桜の花が同時に咲き乱れる美しい
日だったという。

 この試刀会については、当時の松代藩武具奉行・金児忠兵衛の筆録による[刀剣切味並折口試
之次第]という精密な記録が残されている。
 以下その記録の大筋を記してみます。

 試刀会の会場は表柴町の金児忠兵衛邸。集まった松代藩士は百二十人を下らなかったという。
 十人が選ばれて目付役となり、試し役は七人。いずれも真田家中で手練れの名の高い武士ばか
りであった。研師が二人、外科医者が一人臨席した。刀が折れた際、怪我人が出ることも考えられ
たからだ。
 山浦真雄本人は、麻裃で縁側に座っていた。裃の下に秘かに白無垢を着込んでいたと云う。己の
刀がみっともない結果を見せた時は、即座に腹を切る覚悟だったという。

 試刀が開始された。

 第一は問題の大慶直胤作二尺三寸八分荒錵出来の刀。
 先ず俵菰二枚束ねの干藁を切ると八分切れ。切れ味は「中位」。次いで厚さ八厘・幅三寸の鍛鉄
を切ると、刀は鍔元七・八寸のところから二つに折れた。

 第二は同じ直胤作二尺三寸匂出来の刀。
 干藁を一太刀切ったら刀身が反り伸びた。そのまま五太刀、八分は切れた。鉄砂入陣笠に二太
刀、一太刀ごとに刀身がさらに反り伸びた。
 鉄胴に二太刀、刃切れ入り・刃毀れ生じる。鹿角に三太刀。鍛鉄に三太刀。鍛鉄を少し切割りひ
びを入れたが刀も刃切れが多く出た。
 次いで兜の一太刀、大いに伸びる。鉄敷棟打ち七太刀、平打ち四太刀で折れた。
 匂出来だけあって、よく耐えたというべきであろう。

 第三が同じ直胤作の長巻。
 干藁を二太刀切っただけで、刀身は曲ってしまった。しかも五分しか切れていない。
 第四が直胤作の別の長巻。
 これは干藁への一太刀で曲がり強しとある。切れ味も四・五分。
 第五も直胤作の長巻。
 これは干藁に二太刀、五・六分切れ。鹿角に二太刀、一太刀で刃毀れの上大いに伸びる。二太刀
目にてさらに伸びて刃切れ入り曲がり、強く切る事不能。鉄敷棟打ち三つ、平打ち二つ、刃切れ口
大いに相成り曲がりぐだぐだにて其の儘に差置く。

 この五振りの大慶直胤は、いずれも城方常備として納められた品である。そのうち、かろうじて合
格といえるものは、たったの一振り第二の匂出来の刀だけで、あとはすべて腰が弱すぎて実用には
ならない。
 積年の大慶直胤への不信感が、一気に実証されたようなものだった。


 次いで真田家御用鍛冶の二人の作品が試され、いずれも鍛鉄又は兜の段階で折れている。
 さらに古刀が二振り。一振りは干藁だけですませ、一振りは同じ竹入り干藁に一太刀あびせただ
けで大曲りとなった。

 十振り目は無銘中代の刀で、四分一の大透かし鍔(厚さ一分三厘)を切った時、物打ちから折れ
て飛んだ。
 十一振り目は長さ二尺の胤長作の山刀で、革包鉄胴三太刀で刃切れが入った。

 十二振り目に登場したのが、山浦真雄の二尺一寸五分荒錵出来の刀である。荒錵出来は真雄が
得意ではないと断ったものであるが、真田藩抱工採用試験だからこそ、敢て注文通り鍛ってみせた
刀である。

 試しは俵菰二枚束ねの干藁から始った。

一、干藁 一太刀 但九分切  「切味宜」と記帳された。
一、同  十太刀 何れも八・九分切 十回切っても切れ味は変らなかった。
一、竹入藁 六太刀 但七・八分切
さらに十七太刀に及んで尚、僅かに切れ味が鈍っただけである。ここで研師が刃を付け直した。
一、古鉄厚一分幅七部 一太刀 但左右へ切れて飛ぶ。刃切れ入る。

鉄は古いほど鉄性が精良で新鉄にまさる。それを完全に両断したのである。さすがに刃切れが入っ
たが、驚くべき切れ味であり強靭さだった。
一、鹿角 六太刀
一、竹入藁 二太刀 但刃毀れの儘にて六分切
一、鉄砂入張笠 二太刀
一、古鉄胴 二太刀
一、四分一鍔 一太刀
これは既に切れ味試しではなく打折り試しの限界への挑戦に入っている。

一、再び四分一鍔 一太刀
一、鍛鉄 一太刀
一、兜  一太刀 但鉄鎚にて曲りを打直し切る
鍛鉄切りつけでようやく曲りを生じたのを鉄鎚で打ち直して使用したのである。それでもまだ折れな
い、驚くべき粘着性である。
 以上の三十四太刀で、切りつけ試しを終る。


 これ以後は、完全な打折り試しである。長さ五尺五寸、重さ八百三十匁の鉄杖で、刀の弱点とさ
れる棟や平面(鎬部)を強打して折るのである。

一、鉄杖 棟より七つ充分に棟打を切入る
一、同  平より六つ充分に打つ
これは人が手に持った刀を打ったものである。
一、鉄敷 棟打六つ
一、同  棟打さらに七つ ここで刃切れが大きくなったという。
一、平打三回して裏返し打つ事二回にして折る。 棟切三つ刃切れ十二入有之。

 最後の試しの模様は、この短い記述から察するに、試し手はほとんど躍起になっている。息を切ら
せ、殴り続けた。それでも頑固に折れてくれない真雄の刀だった。
 その伝承が[古老証話]にある。
「その折の模様は洵に峻烈を極め、見物の諸士も進行につれて真剣そのもの。手に汗を握るが如
く、肌に粟を生ぜしが如し」

 これが刀剣史上に後々まで語り継がれた[松代藩荒試し]の模様である。


 尚、真雄の鍛えたもう一振りの匂出来の刀については、試すに及ばず、ということになったと云う。
 不得手だという錵出来の刀でさえこの結果を生み、真田藩士の心胆を寒からしめたのである。得
意の匂出来については試す必要は認めなかったのである。
 真雄は試刀会の翌日、家老真田志摩から長巻百振りの鍛造の申し渡しを受けている。しかも真雄
が上田に帰る時には、真田藩の武具奉行高野車之助と小野喜平太の二人が同道した。
 真雄が再び松代に戻らぬことを恐れた真田志摩の処置だという。事実、真雄をめぐって、上田藩と
松代藩の争奪戦があったようだが、真雄は息子の兼虎を上田に留め、自らは松代に移った。


 これ以後、現在に至るまで清麿系の刀剣は非常に高値です。

 つい先日のこと、鑑定の勉強をしている友人とある刀屋さんへぶらりと立ち寄った時、客と店の責
任者が話をしているのがきこえました。
 客は清麿の一番弟子の栗原信秀の菖蒲造りの寸延べを手にして、27ですか、と聞こえてきまし
た。
 友人と二人で27万では安過ぎ、偽銘かと立ち聞きしました。その客とは先日ある博物館で、目の
前に展示してあった栗原信秀の長巻を解説し合った人でした。お互い好きじゃのうと言いながら、そ
の寸延べが27万ですか?と聞くと、270万との返事。
 友人と二人で、270万は高過ぎと早々に店を出ました。


 刀の造り込みには、まくり・甲伏せ・本三枚・四方詰めとあります。柔らかい心鉄に硬い皮鉄が基
本ですが、本三枚は刃鉄を着け、四方詰めはさらに棟鉄を着けます。

 清麿系は本三枚だといわれています。このため地刃の境あたりに金筋が出やすいようです。



 余談
 太平洋戦争末期山下兵団が、どうせ軍刀を接収されるのなら、切ってみようということになり、日本
刀を横に並べて肥後の同田貫で切った。
 そうしたら、水心子正秀の刀が真っ先に一遍に折れたそうです。
 結果として、水心子系の刀が一番弱かったそうです。


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