備後歴史雑学 

[福知山城]
種別:平山城  別名:竜ケ城



 天下統一を急ぐ織田信長の丹波・丹後方面軍大将明智光秀は、天正7年(1579)に丹波を平定
した。
 翌天正8年から、横山城を近世的城郭に大改造して「横山」を「福智山」と改めた。「智」が「知」に
変わるのは、亨保13年(1728)である。
 以来、戦乱の時代城主が交代する中、順次整備が進められ、慶長5年(1600)ごろに完成したよう
である。
 関ヶ原の戦いには、時の城主小野木重勝は西軍に与し丹後の細川幽斎を攻めたが、幽斎の子の
忠興に福智山城を攻め落とされた。
 関ヶ原の戦いの功により、遠江の横須賀城から有馬豊氏が六万石で封ぜられ、ほぼ現在の福智
山城の遺構が完成され城下町を整備した。
 以後城主は、岡部長盛五万石、稲葉紀通四万五千石、松平忠房四万五千九百石の諸氏が継
ぎ、寛文9年(1669)常陸の土浦城から朽木稙昌が三万二千石で入封。以来二百有余年、十三代
為綱のとき明治維新を迎えた。

 福知山城は、由良川に突き出た台地に築いた平山城で、本丸・二の丸・伯耆丸を連郭式と梯郭式
で構成した縄張りであり、川と堀・土塁を廻らせた備えであった。
 明治維新後城は取り壊され、本丸一帯が朝暉(あさひ)公園となり、朽木氏の祖稙昌を祀る朝暉
神社、改造移築した二の丸銅(あかがね)門脇番所、深さ50メートルの「豊磐井とよいわのい」、朽
木氏八代城主で蘭学者の「朽木昌綱公遺徳碑」があり、昭和61年11月市民の募金運動により、大
天守・小天守・続櫓が再建された。

 何といっても、福知山城の特徴は石垣に石仏(転用石)を用いているという点です。城郭の石垣に
石仏を使用した例は、永禄12年(1569)、信長が足利義昭のために造営した二条館と、天正7年
に完成した安土城がありますが、神仏を否定した信長のやりそうな行為かと思います。
 福知山城後では、天正13年(1585)秀吉の弟秀長が大和・和泉・紀伊三ヵ国百万石余の領主とし
て郡山城に入り、城郭を大改築している。このとき大和は石材に乏しい国であったために、天守台
の石垣に墓石や地蔵までもが用いられている。以上福知山城の他、三城郭のみです。
 光秀は信長より丹波攻略を命じられると、まず亀山盆地に天正5年(1577年)に丹波亀山城を築い
て丹波攻略の拠点としましたが、石仏等の転用石があったとは聞いていません。
 のちに明智光秀と「丹波平定戦」及び「本能寺の変」を記載して、本能寺の変を考察してみます。

 [福知山城の画像]
 残念ながら現在の城跡は本丸部分しか残っていません。


駐車場横から見た本丸


川(堀)端より望む


川(堀)端の右側


橋を渡った右側にある佐藤太清記念美術館


美術館の入口:ここの左側が登城口(ここ一箇所だけです)


本丸の門を見上げる


本丸内大天守下から見た門


本丸にある案内板


大天守を中央から見る


別角度より見る:左が続櫓


左奥が小天守


大天守下にある案内板


同案内板


門の正面(画像左)が天守入口


大天守内の様子


大天守最上階から小天守を見る


同本丸下を見る


大天守台の石垣


同石垣


同石垣


同石垣


同石垣


本丸にある石垣転用石の案内板


本丸に移築している銅門番所


銅門番所の案内板


小天守側にある階段より本丸一段下に降ります


小天守


小天守側の石垣


本丸一段下より大・小天守を見る


一段したより小天守を見る


本丸一段下にある案内板


本丸一段下にある転用石の展示


同転用石の続き


本丸一段下の石垣:この先で登城道に合流します


本丸門下の石垣と門への階段


ここで登城道に合流です


[明智光秀]へ続く


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