備後歴史雑学 

[明智光秀]1

 「謎の出自」
 明智光秀の出自ははっきりしないが、その代表的なものは[細川家記]と[明智軍記]であろう。
 [細川家記]によると、光秀は清和源氏で土岐下野守頼兼の後裔であり、代々美濃国に住んでい
た。父が同国明智城で戦死したときそこを逃れ、朝倉義景に仕えて五百貫の地を与えられた。鉄砲
の名手であった。のち、讒言にあい、義景のもとを去って岐阜に赴き、信長に仕えて五百貫の地を
与えられた。
 [明智軍記]によると、土岐の支流明智下野守頼兼七代の後胤・十兵衛光継は明智城主だった。
長男の光綱が早く死んだので、次男の兵庫助光安入道宗宿が家を継いで明智に在城した。
 長男光綱の子が十兵衛光秀である。弘治2年(1556)9月、斎藤竜興が明智城の光安を攻め落
したとき、明智一族は離散。光秀は城を逃れて越前穴馬(福井県大野郡)に避難して暮らした。
 光秀は諸国を遍歴して越前に帰り、朝倉義景のもとに身を寄せて、一族の秀満・光忠らとともに加
賀の本願寺一揆と戦って功を立てた。さらに光秀は義景の前で鉄砲の腕前を披露し、寄子百人を預
けられた。

 生年は享禄元年(1528)と大永6年(1526)説がある。光秀は武者修行の旅に出て、諸国を漂白し
て歩いているが、明智軍記によれば、数年間に及んだ光秀の足跡は、北は奥州から南は土佐や薩
摩まで及び、訪れた先々で政治や軍事を視察し研鑽につとめたという。
 結局光秀が仕えたのは、一乗谷に本拠を構える越前の戦国大名朝倉義景であった。与えられた
知行は五百貫だったと伝わる。義景は光秀の当代一の知嚢を得て、大いに喜んだという。
 ついで、足利義昭(秋)とその臣長岡藤孝(細川幽斎)が朝倉氏の庇護を求め一乗谷にやってくる
と、光秀は朝倉の家臣の身分のまま、ひそかに義昭とも主従の契りを結んだ。つまり、光秀は二人
の主君を同時にもったわけである。
 さらに、新興の戦国大名としてめきめき売り出し中の織田信長を頼って、足利義昭主従と光秀は
越前を去った。
 光秀がその決意を固めたのは、織田信長から招きの内意が来ていた。
 光秀の祖父光継の三女は小見の方といい、斎藤道三の後妻で一女を生んでいる。名を帰蝶(濃
姫)といい信長に嫁いでいる。光秀と帰蝶は従兄妹同士になるのである。信長の内意というのは表
むき帰蝶の存念ということになっていた。斎藤竜興のことで、朝倉と織田とは敵になっていた。


 「信長の家臣として」
 光秀は信長への仕官が決まると、足利義昭が室町将軍になりたい意向をもっていることを信長に
告げ、両者の提携が実現するよう種々斡旋につとめた。
 天下を狙う信長にとっても悪い話ではない。信長は美濃の立政寺において義昭と会見し、盟約を
結ぶと、その二ヶ月後には出兵上洛して京都を制圧し、義昭を第十五代将軍の座につけた。
 光秀にとってはこれが出世街道の端緒となったが、と同時に光秀と朝廷との関係が深まってくる
のもこれ以降のことである。
 京都には朝廷があり多くの公家がいる。信長は武人としては教養の深い光秀をして、主にその方
面の折衝にあたらせた。
 またこの時期、光秀は信長の被官である一方、将軍義昭の近習ないし申次の役割も演じていた。
 こうして信長・義昭の双方にまたがって京都の政治に関わった光秀の立場を象徴するように、元亀
元年(1570)以前、光秀は京都に屋敷を構えた。当初、信長が上洛するごとに宿舎としたのは光
秀の屋敷だったというから、おそらく小城郭ぐらいの規模は備えていたらしい。
 しかし、光秀が京都の施政に中心的な役割をはたした時期は、天正3年(1575)の前半をもって
終わった。
 光秀は織田軍団の師団長格でもあった。信長がいつまでも光秀を行政官僚のままにとどめておく
はずはなく、同年後半光秀は京都奉行からの転出を命じられた。
 武官に戻った光秀が新たに与えられた活躍の場は、京都の西隣に位置する丹波国の平定戦であ
った。

 光秀は信長のもとにきて越前時代と同額の五百貫の知行をもらっていた。石高になおせば約二千
五・六百石であった。
 信長が比叡山延暦寺を焼き討ちにしたのが元亀2年(1571)9月12日であるが、この前後光秀
が信長から近江滋賀郡十万石を与えられ、この年の暮れから坂本に築城にかかり、翌年の夏に竣
工した。信長も諸将も来遊してこれを祝し、光秀の築城の才をほめちぎったそうである。
 信長も終始上機嫌で、
「いずれ近江にはわしの城を築こうと思うが、その時はそちにまかせるぞ」といったという。
 のち光秀をして安土・亀山両城の修築を命じ、さらに京の二条第を信忠のために設計修築させた
のも坂本城の成功によるものだという。
 光秀にとっては目のくらむような幸福感であった。
 思えば、美濃の明智城落ちてより15年、明智一族はようやく城住まいができるようになったのであ
る。ここ数年合戦にあけくれた兵馬倥偬の歳月であった。
 天守の窓に妻のお容と並んで二人はじっとたたずんでいた。


 「丹波・丹後平定戦」
 丹波国守護は一色氏であったが、そのころ一色氏はすでに衰退し、国衆(国人領主)の八上城を
本拠とする波多野氏と、黒井城の荻野(赤井)氏であった。
 この波多野・荻野両氏をはじめとする丹波・丹後の国衆のほとんどは、永禄11年(1568)に信長
が足利義昭を奉じて上洛すると、いったんは信長に服属した。
 ところが、荻野・赤井一族や内藤・宇津氏らの国衆は、信長と将軍義昭との関係が悪化すると、こ
ぞって義昭方についた。
 信長としては義昭の挙兵以後、丹波と丹後両国の敵対勢力一掃を策し、丹波の豪族の川勝大善
亮継氏や小畠助大夫らをして内藤如安(忠俊)や宇津頼重に対抗させ、国侍片岡藤五郎をして荻野
直正の討伐に協力するよう働きかけた。
 その一方で、両国経略の大将に惟任(明智)光秀を任じ、天正3年(1575)10月をもって丹波へ
出陣させたのであった。

(丹波黒井城攻撃)
 丹波黒井城主荻野直正が但馬の竹田城を占拠したとの報を受けた信長は、明智光秀を丹波に進
撃させた。織田軍の来襲に直正は、居城の黒井城(兵庫県春日町)に立て籠った。
 光秀は丹波の過半の国衆を味方につけると、要害堅固な黒井城の兵糧攻めを画策し、付け砦を
数か所築き、糧道を封鎖しして包囲持久の態勢をとった。
 ところが、落城を目前にした翌天正4年正月15日、この城攻めに参陣していた八上城の波多野秀
治が、突如として荻野方に寝返り光秀の陣営に奇襲ををかけてきた。
 このため光秀は、女婿の織田信澄の来援を待たずに撤退し、近江坂本へ引きあげた。

(丹波八上城攻め)
 天正4年正月の波多野秀治の反逆以来、信長の丹波・丹後経略はとどこおっていたが、翌5年10
月、羽柴秀吉の軍勢を山陽地方に差し向ける一方で、明智光秀を重ねて丹波へ出陣させた。
 光秀は10月16日から三日三晩、亀山城を力攻めし、内藤一族を降伏させて城地を接収すると、
ここを丹波・丹後経略の拠点とすべく新たに亀山城を築城した。完成したのは天正8年である。
 築城にあたって光秀は、付近の社寺をこわして、その資材・石垣などを利用したという。
 のちに、徳川家康によって天下普請が行なわれ近代城郭となり、明治維新を迎えている。

 その後天正6年2月、信長に反旗を翻した播磨三木城の別所長治と呼応して、波多野秀治や氷
上城の波多野宗長とその与党が蜂起すると、光秀を八上城攻めに出撃させ、細川藤孝・忠興父子
や滝川一益・丹羽長秀らに光秀を支援させた。
 このとき信長は、みずから出陣を予定していたが、結局信長の出陣は中止された。
 光秀らは3月15日ごろに秀治の八上城へ攻め込み、仕寄の竹束を備えつけ塀を二重に巡らし、
通路を遮断して包囲態勢を固めると、部将の明智治右衛門光忠にこれを守らせた。
 また、同年荒木氏綱の守る丹波園部城(京都府園部町)を光秀・一益・長秀らが包囲し、4月10日
に水の手を切って攻撃を加え、これを陥落させている。

八上城:兵庫県の東部丹波篠山盆地に、その秀麗な山容から丹波富士と呼ばれている低い山が
ある。標高459メートルの高城山(朝路山)で、戦国時代にはこの山頂に波多野秀治の居城、八上
城があった。堅固な山城で容易に落ちなかった。

(丹波八上城攻略)
 前年の3月、八上城の四周を包囲して兵糧攻めの態勢をしき、機の熟するのを待つ構えを取って
いたが、やがて12月末、光秀は転戦先の摂津から丹波八上城に着陣した。
 光秀は兵糧攻めを強化するため、改めて城の周囲三里四方に堀をめぐらせ塀と柵を幾重にも付け
させ、塀ぎわに将兵の監視小屋を設けて、獣の通る隙間もないほど徹底した包囲網を構築した。
 翌天正7年、光秀は猛攻四ケ月におよんだが、なお八上城は陥落しなかった。それまでには懐柔
もした。本領安堵を条件に帰服を申し入れたが、波多野一族はこれをはねつけ、ますます城門を固
めた。
 5月に入り、光秀は信長の怒りを慮って一度安土にもどり戦況を報告している。
「ほう、おことが手を焼くとは波多野兄弟とは摩利支天の生まれ変わりでもあるかの。筑前も惟住
(丹羽長秀)もよく戦うて武功をあらわしているのに何とした。切り平らげえぬなら安堵状をくれてやる
ほどに帰順させい。それでもおぼつかなしでは従五位が泣こうぞ」と信長はいった。

 光秀の思惑通り長期におよぶ包囲持久策が効を奏し、八上城内は飢餓状態に追い込まれた。籠
城者の中には餓死するものが後を断たなくなった。はじめは草や木の葉を食用とし、後には牛や馬
を食べたが、ついに口にするものが無くなって、危険をかえりみず城外に出て包囲軍に斬り捨てられ
る者が続出するようになった[信長公記]。
 この機を逃さず、光秀は調略をもって和平を申し入れ開城を迫った。

 ここの過程が種々解釈されています。[信長公記]巻十二の記載より抜粋します。
「去程に、丹波国波多野の館、去年より惟任日向守押詰取巻き、三里四方に堀をほられ候。籠城の
者既に餓死に及び、初めは草木の葉を食とし、後には牛馬を食し、了簡尽果無体に罷出候を悉く切
捨、波多野兄弟三人の者調略を以て召捕り、六月四日、安土へ進上。則、慈恩寺町末に三人の者
張付に懸けさせられ、さすがに思切りて、前後神妙の由候。」と記されている。
 籠城戦の最終段階において、光秀が「調略」を用いて城主の波多野兄弟を捕らえたようである。
 もうひとつ、小瀬甫庵の[信長記]には重大なことが記されている。
「波多野誅せらる事」のところで、食糧に窮した城中の兵が、波多野兄弟を捕まえて光秀側に引き
渡した。ということが記されているのである。
 八上城開城のいきさつを整合的に解釈すると、「調略」とは、光秀が城中の波多野氏の有力家臣
に働きかけ、ひそかに寝返りを策したということになる。
 波多野秀治兄弟は6月2日、家臣に捕らえられて降服した。光秀はただちに秀治と弟の秀尚・秀
香を安土城に護送したのだが、信長からそれまでの裏切り行為を攻められ、6月4日、安土城下の
慈恩寺で磔の刑に処せられた。と解釈できるのである。

 一説では、[総見記]という軍記物にある話では、光秀は八上城主の波多野秀治に和議を申し出、
城を出ることを促したが、波多野兄弟は警戒して城を出ようとしないので、光秀は自分の老母を呼び
出し、いわばそれを人質にして誘い出しに成功したという。
 以下、早乙女貢氏の明智光秀(物語と史蹟をたずねて)より。
 光秀は5月の末頃、安土にもどり信長に戦況報告した。そのあと坂本へたちもどり、翌日、出立間
ぎわになって母の部屋に挨拶にゆくと、
「・・・光秀殿、このたびの戦は、えらい難儀とやら聞き及びましたが、われらの身でかなうことあらば
お役に立たせてくだされや」と、申し出た。
 実の母ではない。叔父光安の正室で、両親を早くに失った光秀は母として孝養を尽くしていたので
ある。人質になろう、といっているのだ。
 光秀は三度までことわったが、老母の決意は固かった。
 光秀の頬を濡らして慚愧の涙は滂沱としたたりおちた。
 同じころ、中国攻略の戦線にあった羽柴秀吉とせりあう形になって焦った光秀は、自分の母を人
質として八上城に送る決心をした。
「開城和睦すれば、秀治ら兄弟の命は信長公にはかって必ず助ける。また、ほかの将兵、婦女子の
命も保証する。母を人質に送るのは、二言のないことを誓うためである」という意味の書状を送って、
開城和睦を申し入れた。
 左衛門太夫秀治、遠江守秀尚、秀香の勇猛三兄弟は従者十一人を率いて城を出てきた。
 光秀は厚くもてなし、左馬助秀満らをつけて安土へ赴かしめた。ととろが信長は手こずらされた怨
みからか、ただちに縛りあげ、慈恩寺の辻で磔刑に誅してしまった。
「なんという非道を!」光秀の老母のことはむろん知ってのことだ。
 義に背き、信をふみにじる信長の猛断威決にいまさらのように慄然とした光秀は、すぐさま老母奪
取をはかったが、すでにことは八上城に知れていた。
「おのれ日向守め、よくもよくも!」遺臣たちの憤怒はすさまじかった。
 光秀の老母をひきずり出し、松の木につるし、錆槍で串刺しにして虐殺してしまった。それも寄せ
手の面前で。
 光秀がわが身を引き裂かれるような苦しみを覚えたであろうことは、推察に難くない。
 それから八上城は三日目に落ちた。以後の光秀の働きは、羅刹と化したごとく目ざましかった。

 現在、八上城には何も残っていないそうですが、光秀の母をつるしたという(ハリツケの松)や、ハ
リツケに使った槍を洗ったという(血洗池)の跡などがあるという。
 ちなみに、この三年後に光秀は本能寺にて信長を討つことになるが、その原因の一つは、この八
上城攻略で母を犠牲にしたことにある、ともいわれていますが、[総見記]の史料としての信憑性か
らいって、その事実はなかったと現代では解釈されています。
 私見になりますが、光秀は天正7年に丹波を平定し翌年に福知山城を築城しますが、この時の怨
みから福知山城の石垣には、波多野一族の墓石を多数使用し、末代までも怨みを残したと記載し
た史料を見たことがあり、それ以後は頭にこびりついていて、私には真実性を感じますが現在では
否定されています。


以後、その後の丹波・丹後平定と[本能寺の変][山崎の合戦]へ続く


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