備後歴史雑学 

[池田家 前編]

 池田氏の遠祖については諸説あるが、一般的には、清和源氏の頼光であるといわれ、頼光から
四代目の泰政は鳥羽院の滝口の武者で、美濃国池田郡本郷村(一説に可児郡池田村)に居住して
池田右馬允と名乗り、その子孫は池田を姓とした。
 泰政から九代目の教依(のりより)は、正平6年(1351)本郷村に竜徳寺を建立したといわれる
が、この寺はのちに池田氏の菩提寺になったことがあり、文政年間(1818〜29)に岡山藩が調査
した結果、寺内に輝政の祖父恒利(養源院)や父信輝(護国院)などの墓石が確認されたという。
 教依の子は教正といい、その母は内藤左衛門満之(みつゆき)の娘で、はじめ楠木正行に嫁いだ
が、その胤を宿したまま正行の戦死後に教依に再嫁したといわれるから、教正は正行の遺腹の男
ということになる。
 池田家の諸系譜をはじめ、この伝承に基づいて池田氏の楠胤説をとるものは多く、歴代の岡山藩
主もこの説を強調するところがあった。要するに池田氏は、平安末期頃から美濃国池田郡の住人と
して知られ、恐らくは地頭的な土豪であったと推測される。

 教正から五代目の恒利は、近江国一宇野城主滝川貞勝の子で、四代目政秀の女婿となり、将軍
足利義晴に仕えて従五位下紀伊守となった。享禄元年(1528)京都の乱を避けて尾張に移った。
 恒利の室は政秀の娘で法号を養徳院といい、天文5年(1536)に織田信長の乳母となって厚遇
された賢婦人であった。子の信輝が信長に仕官するようになったのも、信長と乳兄弟であったから
で、養徳院こそは池田氏が台頭する重要な素地をつくったものといえる。

 恒利の子の恒興は天文5年生まれで、幼名は勝三郎のち信輝、剃髪後は勝入と号した。天文14
年(1545)10歳のとき織田家に仕えて、信長の遊び相手に選ばれた。このとき母養徳院が下賜さ
れていた信長の裃を着て見参したが、この裃に蝶の紋がついていたのを、信長の父信秀からよく似
合うと褒められたので、これが池田家代々の家紋(揚羽蝶)となったという。
 恒興は信長に仕えてかずかずの戦功を立て、やがて織田氏の宿老の一人に出世していくのであ
る。

 弘治3年(1557)恒興は、信長と弟信行が不和であったので信行を刺殺し、信長の命によりその
内室(荒尾美作守善次の娘で法号善応院)を妻とし、永禄2年(1559)長男之助が誕生した。
 翌3年の桶狭間の戦いには抜群の器量を認められ、その功によって一方の侍大将となり、後に池
田家の家老になった香川長兵衛(のち伊木清兵衛)、土倉四郎兵衛、森寺清右衛門などを信長に
請うて家来にしている。ついで同5年に西美濃の軽海合戦に活躍し、翌々7年11月次男輝政(幼名
古新、のち三左衛門)が清洲城で誕生した。この頃恒興は、将軍義輝と主君信長の偏諱をもらって
信輝と改めた。

 永禄9年(1566)尾張木田城三千貫の主となった。この頃、一貫は1000坪の土地を指し、六貫
一匹と称して軍役に一騎を具した。つまり500騎の侍大将となった。
 元亀元年(1570)に犬山城主(一万貫)となり、同年三男長吉が犬山城で誕生した。天正年間に
入ると信輝父子の活躍が顕著にみられる。
 天正3年(1575)の三河国長篠城合戦、同4年の大坂天王寺戦、同6年の摂津国鴻池合戦、同7
年の伊丹城主荒木摂津守村重征伐にそれぞれ参戦した。
 さらに同8年荒木志摩守の籠っていた摂津国花熊城の攻略を、信長より信輝父子三人に命じら
れ、激戦の末ついに城兵を敗走させた。
 その功により、信長から摂津国数郡を賜わり、信輝は大坂城、之助は伊丹城、輝政は尼崎城をそ
れぞれ下された。
 池田信輝は、織田家四宿将の一人として柴田勝家、明智光秀、羽柴秀吉と肩を並べるに至った。

 天正9年には、三男の長吉は秀吉の養子となって羽柴三郎と改名し、翌10年の山崎合戦では、
信輝は秀吉の東上を兵庫に出迎えて、信輝の三女を秀吉の甥秀次に嫁がすことを約し、次男輝政
を秀吉の養子にすることを誓い、信輝は剃髪して勝入と改め、長男之助は紀伊守となった。
 かくして、信長亡きあと秀吉への密着は濃くなり、山崎表の合戦には一番手の高山右近、二番手
の中川瀬兵衛につづいて、信輝父子は三番手として奮戦した。
 明智光秀平定ののちの清洲会議においても、信輝は柴田・羽柴・丹羽らと共に、四宿老の一人と
して制法を定めることに加わり、摂津国のうち大坂・兵庫・尼崎で十二万石を領することになった。
 翌11年秀吉の計らいで信輝は摂津国より美濃国に移り、大垣城主十三万石を領するにいたり、
之助は岐阜城、輝政は池尻城を守ることになった。


[長久手の戦い]
 天正12年秀吉が北畠信雄を討とうとした時、信輝は秀吉に味方すべきか、織田方へ付くべきか
の二途に迷ったが、秀吉は尾張・美濃・三河三国を進物にするという神文を添えて執拗に勧誘した
ので、ついに織田方から離れていったのである。
 秀吉は甥の三好孫七郎秀次に二万の兵を与え、家康の本拠三河侵攻を命じた。堀秀政、池田信
輝、森長可の三人を補佐役として同行させた。

天正12年(1584)4月7日、秀次、信輝(恒興)率いる二万の別働隊が移動を開始した。家康は即
座に決断し榊原康政、大須賀康高らに4,500の兵をつけて先鋒と決め、、水野忠重は倅藤十郎勝
成と共に先鋒に先だって支隊の総大将。支隊の案内は丹羽氏次に命じ、4,500の兵を与え先発
させると、自らもひそかに小牧山を出て秀次軍を追撃し、長久手のあたりで追いついた。

 9日の早朝、別働隊の先頭・池田信輝隊前衛(2,000)、その後方に池田隊本隊(4,000)、森
長可隊(3,000)、堀秀政隊(3,000)、三好秀次の本隊(8,000)が続いていた。
 先頭の池田勢は、夜が明けかけ丹羽氏次の岩崎城が見えてきたが、「捨ておけ捨ておけ、そんな
小城などに眼をくれるな。血祭りは岡崎城じゃ」と勝入信輝は笑いとばして馬も停めなかった。しかし
城を預かっていた丹羽氏重(氏次の弟で城兵300人)は果敢にも、信輝めがけて鉄砲を放った。一
発が信輝の乗馬に命中し、馬はガクリと膝をついてしまった。飛びおりた信輝は不覚にも右足を踏
み砕いていた。
「こうなっては許せぬ。このままでは幸先わるしとして士気にもかかわろう。朝の血祭り、岩崎城を踏
みつぶして通ろうぞ」
 丹羽氏重は若さに任せて、討って出たものの池田勢に圧倒され、城に退いて門を閉ざす間もなか
った。池田勢はドッと一度に城内へなだれ込んだ。
 朝の薄陽が射しかけた頃には、城兵は全滅していた。

 家康軍先発隊の榊原・大須賀隊(4,500)は、白山林に駐屯していた三好秀次隊の背後に迫り、
夜明けを待って挟撃した。
 午前4時過ぎ、右翼の大須賀康高が攻撃開始、さらに左翼の榊原康政が喊声をあげて急襲した。
 続いて岡部長盛、水野忠重父子が突撃した。
秀次隊は大混乱になり、細ケ根に踏み留まるも散々に蹴散らされ、総崩れになって長久手へ退却し
た。
 その報を聞いた堀秀政隊が引き返し、秀次隊を蹴散らした大須賀・榊原隊に反撃を加え、これを
敗走させた。しかし富士ケ根に金扇の馬標を見た秀政は、自軍をまとめ北方へと退却していった。長
久手における秀吉方の唯一の勝ち戦であった。
 榊原康政は家臣を撤収し富士ケ根本陣の家康の馬前に出向いた。家康は康政の手を取り、白山
林の戦功をねぎらい涙を流して喜んだという。

 岩崎城を落として首実検を終えた池田隊に、秀次敗報が届いた。池田信輝はただちに9,000の
兵をまとめて、長久手に旋回した。三河への奇襲を中止して、家康に正面から戦いを挑む腹を決め
たのである。
 池田軍(岐阜嶽)と徳川軍(仏ケ根)は谷をはさんで布陣した。信輝は家康の動きを見つつ、鶴翼の
陣をとった。
 左翼に婿の森武蔵守長可(蘭丸の兄)の3,000、右翼に長男紀伊守之助と次男三左衛門輝政
が指揮する4,000を配し、自らは2,000の予備隊を采配することにして、布陣を終えたのは午前
9時すぎであった。
 兵力は両軍ほぼ同じである。
 信輝は少なくとも小半日は動くまいと見ていた。しかし、家康は早かった。布陣を終えると同時に、
鉄砲隊を最前線に繰り出し、池田・森両軍に激しい一斉射撃を浴びせかけたのである。
 池田勢は夜明け前に、秀次軍が潰乱しているだけに狼狽し、最初の銃撃で半数以上の兵が背後
の林に逃亡した。
 そこに家康の本隊が左翼の森軍に突撃を開始した。森勢の混乱はとりわけ大きかったが、長可は
鬼武蔵といわれる勇猛な武将である。味方の混乱を見て、愛馬「百段」に飛び乗ると、「われにつづ
け!」槍をとって、家康の馬標めがけて突進した。五十騎の母依武者が一団となってあとを追った
が、二丁も走らぬうちに、森武蔵守長可はまっさかさまに馬からころげ落ちた。銃弾で額を撃ちぬか
れたのである。即死であった。鬼武蔵の異名で勇名を馳せた長可のあっけない討ち死であった。
享年26歳。

 鬼武蔵が銃弾に倒れた頃、信輝の予備隊も潰滅していた。池田勢は算を乱して松林に敗走した。
 采配を腰に差したままの信輝が、ただ一人床几に腰を下していた。信輝を護る母依武者一人いな
い。その信輝の胸に、安藤直次の繰り出した槍の穂が、春の陽を受けて奔った。直次はのち紀州五
十五万五千石徳川頼宣の付家老となった安藤帯刀である。
「手柄にせよ」信輝は笑おうとしたが、頭形の兜の下で苦痛にゆがんだ。直次にわき腹を突かれて
いた直後、永井伝八郎直勝に黒糸縅の具足の上から、肩のつけねを深々と斬りおろされた。
 永井もまた、池田信輝の首をはねて以来、数々の武功に恵まれ、のちに下総古河で七万二千石
の大名になる。
 長久手に出陣したおりの信輝は48歳であった。之助に代を譲り、入道して勝入と号していた。紀
伊守之助は23歳、輝政は20歳であった。

 之助・輝政兄弟の右翼も、信輝が討たれて間もなく壊滅状態に陥った。輝政は家臣に守られて落
ちたが、紀伊守之助は、信輝の身を案じて戦場をさまよっているうち、奇しくも父信輝に一番槍をつ
けた直次と遭遇した。
 槍を失った紀伊守は太刀をふるったが、むなしく空を斬っているうち、信輝の胸下を突いた槍に咽
を貫かれて非業の最期をとげた。

 総大将の三好秀次は潰乱のうち、秀吉正室おねの父、木下助左衛門祐久とおねの弟、勘解由左
衛門利匡の討ち死のなか、徒歩立で遁げ帰った。
 なお、この戦いのとき本田忠勝が、わずか500の兵で八万の秀吉本隊にあたり、家康のために時
間かせぎをしたことは有名で、鹿角の兜をかぶり、名槍蜻蛉切りを振りまわされては敵も手出しがで
きなかったのであろう。
 また、信輝が家康の旗本永井伝八郎直勝に首級を授けたのは茗荷畑であったので、池田家では
以後、茗荷(みょうが)は食膳に供しないという。
以上が池田信輝・之助父子の討ち死した長久手の戦いを、池田軍を中心に記してみました。
短時間の決戦ではあったが、池田勝入信輝の最後を鮮明に記録しているものはないとあります。


 池田信輝には之助・輝政・長吉のほかに、一男四女があった。
 四男長政:9歳のとき輝政の家臣・片桐半左衛門の養子となり、慶長11年(1606)備前児島下 
        津井城の城代となり、翌12年卒。子孫は池田家家老(二万二千石)。
 一女   :森武蔵守長可に嫁し、のち中村式部少輔一氏に再婚す。慶長4年卒。
 二女   :豊臣秀次室。慶長6年卒。
 三女   :山崎左馬允家盛に嫁し、のち離別して実家に帰る。寛永13年卒。
 四女   :浅野紀伊守幸長室。元和2年卒。

 次男の輝政は通称三左衛門で、天正12年末に父の遺領を承け大垣城主となり、ついで翌天正1
3年岐阜城主十万石を領し、同15年には秀吉に従って島津征討に加わり、羽柴姓を称することにな
り、翌16年侍従に任じられた。
 天正18年には小田原征伐・奥州征伐に参戦し、その行賞によって岐阜城から三河国吉田(豊橋)
城に移り、東三河四郡で十五万二千石を領し吉田侍従と称した。

 輝政の室、中川瀬兵衛清秀の娘糸子は、天正12年に長男利隆を産んだあと、産後に発病したた
め実家に帰された。
 それから10年後の文禄3年(1594)には、家康の二女督姫富子を継室に迎えている。富子は初
め北条氏直に嫁したが、小田原没落後は「小田原後家」として輝政に再嫁した。これにより輝政は
家康の婿となり、池田家は徳川家の親族となった。
 輝政には中川氏との間に長男利隆があったが、継室富子(良正院)との間には忠継・忠雄・輝澄・
政綱・輝興の五男、および二女(伊達忠宗室、京極高広室)を儲けた。
 良正院富子は、元和元年(1615)2月伏見で卒去し、京都知恩院に葬られた。享年50歳。

 慶長5年(1600)の会津上杉征伐では、輝政は子利隆および弟長吉らと出陣し、同年7月石田三
成の大坂挙兵の報により、家康は輝政を福島正則と共に征伐の先鋒に命じた。
 関ヶ原合戦後、輝政は有功の賞として播磨国五十二万石の大大名として姫路城主となった。
 輝政の弟長吉は、因幡国四郡六万石を賜わって鳥取に入城した。

 関ヶ原合戦前の姫路城主は、秀吉正室おねの兄木下家定であった。家定は杉原氏だが、早くか
ら秀吉に仕え木下及び豊臣姓を授けられた。秀吉の異父弟の羽柴秀長が姫路城から、天正13年8
月に大和郡山城に移ったあと、同15年9月24日姫路城に入り、知行一万一千余石を与えられ姫
路城主となった。のち文禄4年(1595)8月18日、姫路城主木下家定は二万五千石に加増され
る。
 関ヶ原の合戦では、家定は大そう苦慮し妹である北政所に相談したところ、しばらく何れにも属せ
ず静観するのがよかろうということになり、京都の三本木に駐留して北政所を守護した。
 家定の子達は長男勝俊以下五男の小早川秀秋にいたるまで、東西の去就に迷ってうろたえ続け
た。
 関ヶ原の論功行賞に当って、家定は一時その所領は「預り置く」とされたが、北政所の由縁をもっ
てようやく本領安堵となり、慶長6年3月27日、二万五千石で備中足守へ移された。

 慶長5年10月15日、池田三左衛門輝政は、赤松貞範以来十八代目の姫路城主となった。
 姫路城の築城者は、赤松則村(円心)の次男貞範が正平元年(1346)に築城した。その後、黒田
重隆が享禄3年(1530)小寺則職に仕え、則職が嫡子政職に家を譲ったとき、黒田重隆が姫路城
に入った。
 重隆の嫡子職隆が姫路城を新築したとあり、職隆の嫡子が黒田孝高(如水)である。孝高は姫路
城を秀吉に献上した。
 天正8年4月26日、秀吉は姫路城に入りすぐに築城にかかり、翌9年3月に完成した。三層の天
守だったという。

 37歳で姫路に入城した輝政は、翌年早くも居城の大改築に着手し、慶長14年(1609)全容が竣
工し、雄大な五層の大天守は雲表に聳え、揚羽蝶の紋所が輝かしく仰がれ、天下有数の名城がこ
こに生まれた。
 ついで八十八か町の大城下町が建設され、土木工事を起し塩田を開発させ、もろもろの制法を公
布した。
 さらに領内の総検地を施行して十一万余石を打ち出した。


池田輝政が築いた姫路城大天守・左は西小天守南面、左下は御対面所と渡櫓。
ポインターを当てると左側から少しアップします。

 輝政は播磨に封ぜられて以来、将軍家からしきりに恩寵を加えられた。
 慶長8年2月、二男の忠継に備前一国二十八万六千二百石が与えられた。忠継はわずか5歳で
あったので、兄の利隆が岡山城に入城して代政した。
 利隆は「石山」の西端に西の丸を造営し、本丸でも下の段を中心に相当の改修工事が行われたと
いわれる。
 同9年長男利隆には、松平の姓を賜わり、武蔵守に任ぜられた。さらに翌10年5月将軍秀忠か
ら、上野国館林城主榊原康政の二女鶴姫を、利隆の嫁にするよう申し入れがあった。輝政も利隆も
喜んでそれを受けた。鶴姫はすぐ秀忠の養女となり、その年利隆の許へ嫁いだ。
 池田氏はこれで父子もろとも将軍家の娘婿となったわけである。
 
 同15年2月、三男忠雄に淡路六万三千六百余石が与えられている。
 従って、輝政が実質的に領地した朱印高は、播・備・淡三国を合わせて八十七万石となり、検地出
目高を加算すれば、まさに百万石の大大名に躍進し、西国の重鎮としての地位を確立した。その
上、参議に任ぜられ正三位に叙せられている。
 輝政の同僚である福島正則が、
「三左衛門は、今、大国を領しておるが、あれはの、大御所の婿であるが故だ。われらは槍の先で
取った国だが、三左衛門は陰茎の先で取ったものよ。まるで、わけがちがう」
 と、輝政に聞こえよがしに言った。そのことを注進した者から聞いた輝政は、
「いかにもその通りだ」と笑い、「もし、槍先でもってすれば、天下を取ることになるから、槍を用いな
かったまでだ」
 とその者に言ったという。このあたり単純で少々粗雑な福島正則と、世の中の万事に亘って要心
深い輝政との違いがよく解る逸話である。


 慶長18年正月月25日、姫路藩主池田輝政は波瀾の生涯を終えて50歳で逝去した。
 家康の命によって輝政の遺領の配分が行われた。長男利隆には宍栗・佐用・赤穂の三郡を除く播
磨十三郡で約四十二万石を相続させた。
 二男の忠継には、従前の備前一国に加え播磨の宍栗・佐用・赤穂の三郡を合わせて約三十八万
石を与えた。
 三男忠雄には今まで通り淡路六万三千六百余石を領有させることになった。
 同年6月16日、利隆が家督を継いで岡山城から姫路城へ移り、忠継はようやく岡山城へ入った
が、この異母兄弟の仲はよくなく、常にもめていたようだ。一説によると輝政の継室良正院富子は先
妻の子の利隆を憎んで、輝政の遺領を悉く実子に相続させようとの陰謀を企て、世にいわゆる毒饅
頭事件をおこしたという伝説がのこっている。

宇喜多直家から四代目の岡山城主になるが、備前池田家初代岡山城主忠継の画像

[岡山藩政の確立]
 ところが忠継は、元和元年(1615)2月4日に岡山城で病死してしまう。17歳であった。忠継は森
忠政の娘を妻にしていたが、嗣子がなかったので弟忠雄が備前一国二十八万石を継ぎ、母良正院
富子の遺した化粧料であった備中国の浅口・窪屋・下道・都宇四郡の内をも合せて領有することに
なり、ここに岡山藩領知高三十一万五千石が確定した。
 忠雄の旧領淡路はこのとき公収されて、播磨三郡は輝澄・政綱・輝興の三弟に分与された。
 さて、姫路藩主となった利隆は翌2年6月13日、江戸より病気のため帰国の途中、妹婿である京
都の京極高広の四条の屋敷にて死亡した。当時8歳であった長男光政は一旦遺領を継いだが、翌
3年6月に、播磨は中国の要地であるから領主が幼少では不都合であるとして、因幡・伯耆二国三
十二万石に減封のうえ移されることになり、姫路城主には譜代の本田忠政が入封した。

 元和元年岡山城主となった池田忠雄は、岡山城の増築工事をした。本丸では割石積み石垣を築
いて中の段を北側に拡幅し、月見櫓(現存)や廊下門を建て、二の丸では大手の南門を造り替え、
また城下の西端を限る用水路の西川を整備した。これにより岡山城の縄張りは、この忠雄によって
はじめて完成したのである。
 岡山藩主池田忠雄は、寛永9年(1632)4月痘瘡を病んで卒去した。室は蜂須賀至鎮の娘三保
姫である。享年31歳であったが、死際に「旗本の面々と確執を結び、不覚の名をけがし、今に落着
相極らず死せん事こそ口惜しけれ、依て残す一言あり、我れ果ても仏事追善の営み無用たるべし、
河合又五郎が首を手向けよ、左なきに於ては冥途黄泉の下に於ても鬱憤止む事無く」と遺言をし
た。

 [敵討ち事件]
 ことの発端は、寛永7年7月21日の岡山城下。この日は、忠雄の世子が江戸屋敷で生まれたと
いうので、在国中の藩主を祝う人々の盆おどりが、夜の町をにぎわしていた。そんな中で、忠雄の寵
童で小姓の渡辺源太夫が、同藩の同じく小姓を勤める河合又五郎に殺された。源太夫17歳、又五
郎19歳である。若侍の間で、刃傷沙汰がおこるどんな事情があったのか真相はわからない。又五
郎は一千石の家禄を継ぐ上級藩士の総領。源太夫は五百石の兄数馬の家に寄食している小姓。
又五郎を怒らせた何かかある。そのため前後の見境なく源太夫を斬ったのであろう。
 又五郎は事の重大さに気がついて、血刀をひっさげたまま我家へ走った。刀の鞘は源太夫の部
屋に忘れたままだった。
 ことの次第を聞いた又五郎の父半左衛門は、「因果はめぐるか」と迷ったが、この上は他国に逃が
す以外にないと決意し、近所に住む山野辺義忠に、又五郎庇護の逃亡先を頼んだ。義忠は出羽山
形の最上家五十七万石の当主義光の四男で、義光没後のお家騒動に絡んで岡山藩にお預けの身
であった。
 義忠は半左衛門の頼みを聞くと、親友の旗本直参安藤治右衛門正珍(まさよし)宛ての手紙を書
いた。家に帰ってその宛名を見た半左衛門は、「何という因縁・・・・・」と驚きの目を瞠った。かつて
自分が仕えていた安藤対馬守の分家筋であった。

家老から源太夫暗殺の知らせを受けた藩主忠雄は烈火のごとく激怒し、「草の根を分けても又五郎
を捜し出せ」と厳命した。そして父半左衛門の身柄を家中の菅権之助方へ預けた。
 その後、江戸へ出た藩主忠雄は、又五郎が安藤屋敷に庇護されていることを知ると、十余年前、
彼の父半左衛門を助けた出来事がよみがえり、又五郎憎しの昂ぶりとともに旗本安藤家の憤りが
炎のように燃えさかった。「期限までに又五郎が現れねば半左衛門を切腹させよ」と家老たちに命じ
た。

 河合家は、大名安藤対馬守の小見川藩時代からの旧臣である。又五郎の父河合半左衛門は、同
輩を斬り安藤家を逃亡した。追手からのがれていた河合半左衛門は、岡山藩主池田忠雄の行列に
泣きついて保護された。
 当然、安藤家から河合半左衛門の引き渡し要求があったが、忠雄はこれを拒絶して自分の家臣と
して高禄(千石)で召抱えていた。
 長久手の戦いで、祖父勝入信輝(恒興)と伯父之助が討たれた時から、安藤家とは遺恨確執があ
ったのである。

 そこで忠雄は、江戸における相談役の旗本直参阿部四郎五郎と久世三四郎に、又五郎の身柄引
き渡しを依頼した。
 しかし安藤側では、十余年前に煮え湯を呑まされた苦い思いがあるので、意地でも又五郎を渡さ
ぬ決意を固めてしまう。
 その頃、国元での父の軟禁と切迫した事情を耳にした又五郎は、池田家家老の荒尾志摩守に手
紙を届けた。手紙には父に累を及ぼしたことを聞いて、いつでも御検使次第切腹仕りたい、との旨
が書かれていた。その手紙には阿部と久世の連書が添えてあった。
 又五郎は、自分の切腹で事が済むなら潔く腹を切る覚悟だったが、その後事態が急変した。近藤
登之助や兼松、加賀爪らの旗本歴々が煽動して、又五郎切腹におよばず、のみならず備前に軟禁
されている父半左衛門も、播州佐用での父子交換の甘言で池田家を謀り、旗本側の安全地帯に、
父子の身柄を確保してしまった。

 欺かれた池田側では、手強く幕府へ懸合った。訴えかけられた幕府も中へ入って双方をなだめる
解決策を示すのだが、どちらも引き下がらず、だんだん強硬になるだけである。
 池田家は外様大名とはいえ藩主忠雄は徳川家康の娘を母に持つ権現さまの外孫だ。それに忠雄
の何人もの弟たちが池田家を名乗る大名として、どれも確固とした地位を築いている。忠雄の室・三
保姫は、阿波二十五万七千石蜂須賀至鎮の娘であり、姻戚には奥州の伊達六十二万石などが、
腕まくりをして、旗本どもになめられてたまるかと忠雄をけしかけている。
 そんなやさき、池田忠雄が痘瘡にかかってあっという間に急死してしまった。
 主の仇、親の仇は討つべきだが、兄が弟の仇を討ってはならない、のが当時の武家に課せられた
式目であったけれども、これほどの怨念を残して逝った主の仇を討つ所謂「上意討」も含まれてき
た。

 藩主忠雄急死のあと、子の光仲は3歳であったので、「三歳の幼児に備前三十一万五千石はま
かせられぬ」と、新太郎光政の鳥取三十二万五千石と国替え。
 そして旗本側には、張本人安藤とその仲間たちに謹慎をおおせつけ、又五郎は手放せ、というそ
れが幕府の喧嘩両成敗の判決だった。
 だが、池田家の方がはるかに傷が大きい。3歳の幼児を守って、裏浪の騒ぐ因州鳥取へ移って行
くとき、渡辺源太夫の兄数馬は、脱藩した。数馬は、大和郡山へ走った。
 郡山藩剣術指南、荒木又右衛門の妻みね。それが数馬と殺された源太夫の姉だったのである。

 荒木又右衛門保知(やすとも)。伊賀国服部郷荒木村生まれ。幼名服部丑之助。大和郡山十二万
石、松平下総守忠明に、二百五十石で召し抱えられている剣術師範役である。
 この又右衛門も、池田忠雄の小姓を一年ほど勤めていた。忠雄が淡路島洲本藩六万石の城主時
代のときである。忠雄が12歳で岡山城主になるので、又右衛門が少年の頃である。
 以後は割愛しますが、ひとつだけ又五郎の父半左衛門について。
 幕府は河合半左衛門を備中松山の池田家へ預けていたが、2年後半左衛門は、幕府の命で阿波
徳島蜂須賀家に引き渡されるが、徳島に護送される途中刺殺される。

 寛永11年(1634)11月7日、伊賀上野の「鍵屋の辻の決闘」で首尾よく本懐を遂げた渡辺数馬
と荒木又右衛門は、津藩の藤堂家にとどめ置かれた。
 池田忠雄の遺児勝五郎(光仲)を藩主とする鳥取藩は、渡辺数馬と荒木又右衛門のもらい受けを
要求した。これに対して又右衛門が仕官した大和郡山藩も又右衛門の帰参を願い出て対立した。こ
の両藩による四年間の又右衛門争奪戦は、結局、家老荒尾嵩就の働きによって鳥取藩の勝利とな
った。
 寛永15年8月、山城国伏見で行われた数馬と又右衛門の引き渡しにより、鳥取藩池田家は、勝
利の御旗を手にしたのである。
 だが、こうして引き取った荒木又右衛門は、鳥取到着18日後の8月25日、忽然とこの世を去って
しまった。(墓の案内板には28日急死とある)40歳の急死であったが、死因も明確でなく謎の死で
ある。
 敵討ちの主役渡辺数馬も、それから4年後の寛永19年(1642)12月2日に鳥取で亡くなった。3
5歳の若さで亡くなった数馬の死もまた謎である。


鳥取市の玄忠寺にある荒木又右衛門之墓、ポインターを当てるとアップします。(墓には金網
が被せられていますが、太平洋戦争中の鳥取大地震で墓が倒れ割れたためと、勝負師が縁
起をかつぎ墓石を削いでいくのを防ぐためだそうです)明智光秀の墓も勝負師(博打)にやられ
ています。

墓の右側にある案内板です


境内の荒木又右衛門遺品館に展示している鍵屋の辻の決闘で使用して折れた又右衛門の大
刀です。法橋来金道銘(初代伊賀守金道の弟が来を名乗る)で、刃長二尺七寸七分五厘(8
4,1cm)の身幅の広い剛刀です。これは河合甚左衛門(又右衛門と同じく大和郡山藩三百
石の剣術師範役)を斬り倒し、次いで桜井半兵衛(摂津尼ケ崎領主・戸田氏鉄の家臣で槍の名
手)を斬った直後、小者が打ってきた木刀を刀の棟で受け折れた。物打ちには刃毀れがある。
エピソード:伊賀上野城下で新陰流の道場を開いていた戸波又兵衛が、「決闘に新身(出来た
ばかり)の刀を用い棟で受けて折るとは、武芸者にあるまじきこと」と評したので、又右衛門は
「ご尤も至極」と言って戸波の道場に入門するのである。


遺品館にある荒木又右衛門の柳生新陰流への入門書

 渡辺数馬の死から6年後の慶安元年(1646)、江戸藩邸で養育されていた光仲が、19歳の青年
藩主として初めて鳥取に入った。鳥取藩は国替えによって新しい藩主となった池田光仲を藩祖とし
て、以後幕末維新まで230余年間、池田家による藩政が続いてゆくのである。


 幕藩体制下の岡山藩の本格的な成立は、慶長8年に始まる池田忠継の就封(実際は兄利隆によ
る「備前監国」)によるが、忠継・忠雄二代はいわゆる前池田氏時代と称され、岡山藩の実質的な発
足は、寛永9年の岡山移封による岡山藩主池田光政の系統と考えられ、実質的な藩祖は光政とみ
られるから、以下、明治維新まで及んだ光政流を後期池田氏と称されている。
 「池田光政へ続く」



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