備後歴史雑学 

宇喜多秀家 中編
[文禄・慶長の役]

 天正16年(1588)閏正月、備前津高郡虎倉城において、奇怪な事件があった。
 宇喜多秀家の重臣たちは、皆父直家のときに活躍した宿老である。仕置家老に富川、長船、岡の
三人がいた。その筆頭が富川平右衛門秀安であるが、秀家の時代になって病身になり、天正10年
(1582)から児島の常山城に隠居して友林と号していた。慶長3年(1598)8月6日没、享年63
歳。秀安の嫡子が助七郎逵安(みちやす)である。姓を富川から戸川に改め、天正12年肥後守に
叙任。
 富川秀安隠居のあと仕置家老の筆頭となったのは、長船越中守貞親である。虎倉城主であるが、
宇喜多家の執政であるので平生は岡山城に居住し、虎倉城は妹婿の石原新太郎(組頭役)に預け
ていた。
 長船越中守が、虎倉城中でこの妹婿石原新太郎に殺されたのは閏正月5日である。新太郎は
「年始の賀儀として馳走いたしたく、御来駕ありたい」と誘い、越中守は喜んで、弟源五郎や家臣寺
田喜右衛門等を召し連れて、前日から饗応されていた。
 5日の四つ(午前十時)過ぎ、ひそかに櫓に上がった新太郎が、広間でくつろいでいた越中守を、
矢狭間より鉄砲で狙い撃ちにし、一発で越中守の眉間を撃ち抜いた。
 つぎに、新太郎の嫡子新介が広間に入って来て、いきなり源五郎を一刀の下に斬り殺した。新介
このとき18歳。すぐさま越中守の家来が新介を斬り殺す。
 すると、今度は新太郎の妻(越中守の妹)が、薙刀を持って駈けより、越中守に止めをさして、幼少
の子供(越中守の末子と源五郎の子)たちをことごとく刺し殺した。
 新太郎と妻は、そのあと櫓にこもり、櫓に火をかけて夫婦もろとも自害してしまった。

 すぐさま岡山城へ変事を注進すると、越中守の嫡子長船紀伊守綱直が駆けつけた。実はこの紀
伊守自分にも招待があったけど、新太郎とはかねて不仲であったので、仮病を使って行かなかった
とある。
 石原新太郎一家が、なぜ長船兄弟とその子供たちを殺害したのか、その理由はわからない。
 亡くなった長船越中守の家督は、嫡子紀伊守綱直が継いだ。やがてこの紀伊守、大坂備前屋敷
で秀家の側近に仕えるうち、伏見城で秀吉の目にとまり、宇喜多家仕置家老の筆頭として政務を独
裁。反対派から宇喜多家中騒動の元凶と目されるにいたった。

 長船越中守が虎倉城で変死したあと、仕置家老の筆頭となって政務を執ったのが岡豊前守利勝
である。豊前守は文禄の役に出陣中、朝鮮の陣屋で病死した。
 文禄元年8月没、享年65歳。
 彼は世を去る前秀家に、長船紀伊守綱直は奸臣であるので、家中の仕置きだけはお任せなされ
てはいけません。と言い残し亡くなった。
 岡利勝の家督(赤坂郡白石城23,300石)は、嫡男岡越前守家利が継いだ。

 秀家は利勝の遺言によって、家中の仕置きを、富川平右衛門の嫡子戸川肥後守逵安に命じた。
平右衛門は病身で致仕していた。

 宇喜多直家以来の家老の家は、秀家の時代になり三家とも代替わりした。のちの備前家中騒動
の序章がはじまったのである。


 イラストは二年の工期(第二期工事)を経て二の丸と外堀の完成した天正16年(1588)段階の大坂城であ
る。黒田官兵衛の縄張りによるものと伝えられている。天守の南(手前)が奥御殿で北が山里曲輪である。秀吉
の大坂城は四次にわたる建築工事を経て完成した。

 天正16年4月14日、後陽成天皇が、聚楽第に行幸された。聚楽第は、御所の北西十五町の距
離にあった。
 聚楽第行幸のあと、秀吉は全国諸大名に刀狩令と海賊停止令を発した。
 諸国の刀狩りは厳しく実施されていた。人口五千人の長崎で、住民の差し出した刀剣は四千振
り、槍五百本、弓五百張以上、鉄砲三百挺、鎧百領である。この量は当時の諸地方とくらべ標準的
なものであったといわれる。

 この頃宇喜多秀家は、前田利家の第四女豪姫と婚約した。
 豪姫は、秀吉と利家が織田政権のもとで、隣り合った長屋に住んでいた頃、利家の側室の子とし
て生まれた。天正2年の生まれというから、秀家より1歳年少である。生まれるとすぐ秀吉の養女と
なり、北政所が長浜城で手塩にかけて育てた。
 天正17年3月、豪姫は秀家正室として輿入れした。大坂城下中之島(備前島)の宇喜多屋敷に
は、大船十艘に山積みされた嫁入りの荷が運びこまれ、祝宴がひらかれた。
 前田家からは、豪姫付きとして中村次郎兵衛(刑部)が従い、家来、女中も多数従った。
 だが、お福はこの備前島屋敷には移らなかった。秀吉が許さなかったからである。お福は従前か
らの大坂城内の邸宅(山里曲輪)で、慎ましやかに暮らした。

 天正17年11月24日、秀吉は豊臣政権に帰服しない北条氏直に対し、絶縁状を発した。書状は
氏直の舅の徳川家康が届けた。家康は、秀吉に反抗すれば破滅の一途を辿るほかはないと見て、
娘婿を見捨てたのである。

 天正18年春、16歳のお豪は備前島屋敷で、秀家の嫡男八郎秀隆を生んだ。
 秀吉が早速お祝いにおとずれ、豪姫にいたわりの言葉をかけた。秀吉は秀家としばらく語り合い、
杯を交わした。
「この屋敷は、備前宰相にふさわしき眺めだが、国元の城は造りなおさねばならぬだわ。島津攻め
で下向いたせしとき、石山の城に泊まり、あらためて思うたが、いささか西にかたより本丸を高き場
所に置いておる。こののちは、城は政庁といたすげな。されば東の平地に本丸を置き、南に大手門
をひらいて、そのほうが官位にふさわしき大城を普請いたせ。儂が縄張りを思案してやるほどにの
う」
 秀家は備前五十七万四千石の太守として、大坂屋敷で豪奢な生活を送っていた。大坂で消費す
る経費は、国元のそれをはるかに上回っていた。前田家から豪姫に従ってきた家老中村刑部は、諸
事派手好みである。
 宇喜多家の財政は、国家老の浮田左京亮詮家が管理していた。父の忠家は秀家とともに大坂に
いて、補佐役をつとめていた。
 詮家は大坂から新城普請の指示をうけると驚き、岡山城修築の絵図面を前に、腕を組み言葉もな
かった。詮家はそれまで秀家から命じられるままに、大坂屋敷での経費を支払っていたが、築城普
請を実施する段階になって、秀家の浪費を批判しはじめた。
 上方の家老たちは、詮家の批判が当を得ていないと言い、上方と国元の家老たちの意見が対立
したが、秀吉の命令にそむくわけにはゆかない。岡山城改修普請は間もなく開始された。


 小田原城攻めの豊臣勢は、天正18年2月上旬から出陣を始めた。月末には宇喜多秀家が京都
から出陣した。宇喜多勢九千人(うち水軍一千人)である。
 秀吉の催した軍勢の総数は二十六万余であった。
 3月29日豊臣勢は、箱根山中城へ攻めかけた。秀吉は宇喜多秀家ら本陣勢四万人を率い、秀
次、秀勝の後方につづく。
 山中城の守将松田康長、北条氏勝、間宮康俊は総勢四千余人の軍兵を率い、必死の防戦をし
た。
 宇喜多秀家は、秀吉に従い、激戦を目の当りにした。
 山中城は昼まえに落城した。城兵の戦死者が五百余人で、三千余人が逃走した。
 豊臣勢は次に、伊豆韮山城を攻略した。北陸からは前田利家、上杉景勝らが南下して、松井田・
箕輪・鉢形などの諸城を陥落させ、さらに小田原の海上は中国・四国の水軍が封鎖した。

 秀吉は湯本に着陣すると、石垣山に城を築いた。天守、本丸、二の丸、三の丸を備えた本格的な
城郭である。石垣山城は八十余日を経て完成した。
 秀吉は6月27日に本営を城内に移した。
 北条氏の命運を見た、関東・奥羽の諸大名が小田原にきて、秀吉に帰服の意志をあきらかにし
た。小田原を訪れたのは、南部信直、相馬義胤、結城晴朝、多賀谷重経、佐竹義宣、宇都宮国綱、
伊達政宗らであった。
 佐竹は百万石を領する常陸の太守であったが、北条攻めに軍勢を派遣し、秀吉への服従を誓っ
た。
 伊達家の当主政宗も、遅ればせながら石山城に伺候し、秀吉に謁見した。
 7月5日、北条氏直はついに降伏した。

 小田原征伐が終わったのち、豊臣政権に楯つく勢力はすべて平定された。秀吉は日本国ニ千二
百万石の大名を支配する専制君主となった。
 天正19年(1591)8月5日、淀君との間にもうけた嫡男鶴松が病死した。享年3歳であった。
 秀吉は四人の養子をとっていた。信長の四男の羽柴秀勝(天正13年12月に病死)、宇喜多秀
家、姉の長男羽柴秀次、北政所の甥羽柴金吾秀俊である。
 秀吉は北政所と相談し、迷ったあげく後嗣を秀次と定めた。
 
 秀吉は心の傷を癒すかのように、朝鮮出兵を決意した。同年10月10日、肥前名護屋に朝鮮出兵
のための築城を始めたのである。秀吉は九州の大名にその工事を命じ、加藤清正を築城の責任者
とした。突貫工事ですすめ、12月中旬にはいちおう竣工した。
 これに先立って秀吉は、諸大名に渡海に必要な大船の建造を命じ、軍役の規定も発令した。九
州・四国の諸国からは石高一万石について六百人、東に移るにしたがって負担は軽減され、越後
から出羽までは石高一万石あたり二百人だった。
 秀吉は羽柴秀次を朝廷に奏請して関白左大臣に任じ、自らは太閤となった。
 

[文禄の役]
 翌、文禄元年(1592)正月月5日、秀吉は全国諸大名に朝鮮出兵を布令した。
 秀吉は明国遠征の人数およそ二十万人、肥前名護屋に予備軍十万人、京都に留守居の兵三万
人を置くこととした。
 秀吉は名護屋に向かう総勢二十二万四千三百余人の大軍を、十四番隊に分け、2月10日から3
月1日のうちに九州へ向かうよう指示した。
 宇喜多秀家は、渡海の船舶を昼夜兼行で建造させる。一万人の軍勢を率いる備前宰相宇喜多秀
家は、21歳で唐入りの全軍を統率する総司令官(元帥)に任ぜられた。


イラストは肥前名護屋城を東から望んで描いた図です

 2月25日、海路をとって肥前名護屋へ向かう宇喜多勢の先手の指揮をとるのは、57歳の叔父浮
田忠家であった。
 秀家は高齢の忠家の出陣をひきとめたが、忠家の本心は、自分のかわりに息子の詮家を出陣さ
せれば、戦場で秀家と喧嘩をしかねないとおそれていた。主君にさからえば詮家は破滅する。
 そこで、忠家は出陣の前に、所領の備前富山城二万四千石の家督相続を詮家にさせておきたい
と、秀家に願い出た。秀家は承知した。
 忠家はおおいに喜び、剃髪して法体となり、自ら安心入道と号した。
 秀家は2月末に備前片上を出航し、名護屋へ向かった。

 秀吉本陣勢は、4月25日に名護屋に到着した。七層の天守閣は完成していた。
 宇喜多秀家は総司令官(元帥)だが、実際の作戦指導は、三奉行である石田治部少輔三成、大
谷刑部少輔吉継、増田右衛門尉長盛の三人がとっている。ほかに長谷川秀一、木村重茲、加藤光
泰、前野長泰の四将。これは軍目附である。
 秀家は九州を出帆したのち対馬に寄港し、5月2日に釜山浦に上陸した。先発の小西行長らの第
一軍が4月13日に釜山鎮城を陥れ、諸軍が三方から北上して5月2日には朝鮮の首都漢城(現ソ
ウル)に一番隊、二番隊が到着していた。
 秀家が九番隊一万人を率い、漢城に到着したのが6月5日である。秀家の任務は、漢城に駐屯し
兵站線を確保することである。


イラストは安宅船で船主に大筒を置き正面から砲撃した。右下は左から安宅船、関船、小早。

 海上では李舜臣率いる朝鮮水軍が、猛威を発揮していた。日本軍船の群れを発見すると襲撃し、
潰滅させていた。
 秀吉は朝鮮水軍の脅威によって、朝鮮渡海を思いとどまった。
 朝鮮在陣諸軍の兵站補給線は、しだいに脅かされるようになった。朝鮮の兵士たちは各地で日本
軍を待ち伏せ、襲撃しては輸送する食糧を略奪した。
 6月15日、小西行長、宗義智、黒田長政、大友義統の諸隊が平壌を占領した。


イラストは朝鮮水軍が使用した亀甲船の推定復元です

 朝鮮水軍は日本水軍に対し連戦連勝していた。
 朝鮮の船は堅固で船体が大きく、大砲類は明・朝鮮側のほうがはるかに優れていた。また新型船
の亀甲船は、全体が亀のように頑丈な装甲で覆われた箱型の砲艦であり、甲板は鉄板で覆い、敵
が飛び乗れないように針ねずみのごとく、鉄錐を林立させていた。
 日本水軍と朝鮮(李舜臣)水軍との最大の海戦は、7月の閑山沖海戦である。
 日本水軍は七艘の大型層楼船を加え、七十余艘の大船団を出動させた。
 連戦戦勝の李舜臣は、新たに完成させた十一艘の亀甲船を加えた六十余艘の船団を、島影に大
部分の兵船を隠し、おとりの隊を出して脇坂安治の水軍を前面の洋上に誘い込み、これを取り囲ん
だ。
 朝鮮水軍は、天字砲(口径16センチ)・玄字砲(口径12センチの青銅製大砲)・地字砲を放ち、さ
らに堅牢な亀甲船が体当たりして、日本船をつき破った。
 日本船の船殻は脆弱で、特に粗製乱造された新造船はもろかった。また、小銃は日本が優越して
いたが、大砲類の重火器は朝鮮側のほうが優れていた。
 日本水軍は五十九艘の兵船を失い、かろうじて逃げおおせたのは十余艘にすぎなかった。朝鮮側
の損害はわずか四艘。朝鮮水軍の完勝である。
 閑山沖海戦と呼ばれるこの戦いで、朝鮮南岸の制海権は完全に朝鮮水軍が掌握することにな
る。
 以後、日本水軍の西行を閉ざしたので、日本軍は兵糧が欠乏し深刻に苦しむことになる。

 日本軍総大将宇喜多秀家は、海陸の戦況が険悪となってきたので、諸陣の大名を漢城に集め軍
議をひらいた。
 黒田官兵衛、小早川隆景らは、石田三成の釜山撤退策には同意せず、漢城防衛策を取り、明軍
を待ち受けることに決した。
 漢城防衛の諸隊は、平山・牛峰・開城・長湍・監津鎮・高陽に防衛拠点を置き、明軍来襲に備え
た。
 冬がくると、日本軍の士卒は厳しい寒気に悩まされ、凍傷になった。食料にも窮してきた。

 文禄2年正月5日、李如松の率いる明軍五万一千人が平壌城へ襲いかかった。日本守備軍は小
西行長ほか総数一万五千人である。
 明軍はすべて巨大で強健な馬に乗った騎兵である。彼らは鋼鉄の鎧をつけ、鋼鉄の膝当てで足を
保護しているので、日本軍の鋭利な刀槍によっても、まったく損傷をうけることがなかった。
 日本軍はよく戦ったが、7日の夜には城を捨てへ漢城へ退却していった。
 小西軍は、飢えと寒気により凍傷、落伍して死ぬものもあり、命からがら漢城に逃げ帰った者も、
別人のごとくやつれ果てていた。負傷者、落伍者は捨てていかれた。
 漢城の宇喜多秀家は諸将と軍議をかわし、明軍を漢城城外で迎撃することに決した。
 明軍は数百門の強力な大砲をそなえていて、その砲撃を受ければ塁壁は破壊され、一発で数十
人が殺傷される。籠城していてはとても勝ち目がないと見て、野戦を行い白兵攻撃を挑むよりほか
に道はなかった。

「碧蹄館の戦い」
 李如松率いる明国騎馬兵団は、漢城に向かい南下してきた。
 漢城の日本軍先手は、第一隊 立花統虎、高橋統増 三千人。第二隊 小早川隆景 八千人。第
三隊 小早川秀包、毛利元康、筑紫広門 五千人。第四隊 吉川広家 四千人。
 本隊は、第五隊 黒田長政 五千人。第六隊 石田三成、増田長盛、大谷吉継 五千人。
第七隊 加藤光泰、前野長康 三千人。第八隊 宇喜多秀家 八千人。
 漢城の留守将は、小西行長、大友義統である。

 先手の二万人は、正月26日の子の刻(午前零時)に漢城を出て、開城へ向かった。夜明けに立
花隊の斥候が明軍と接触し戦闘がはじまった。
 日本軍は碧蹄館(へきていかん)という谷間の左右の高地に布陣していた。
 明軍は百門の大砲を放ち、騎馬兵を突撃させた。
 日本軍先手の四隊は、小早川隆景の指揮のもと明軍に猛烈な射撃を加えたのち、刀槍をふるい
白兵戦を挑んだ。
 明軍は浙江・河南の兵を開城に残し、二万余の兵力であったので、日本軍先手にじりじりと押され
ていた。
 宇喜多本隊も総攻撃に移った。
 明軍将兵の武装は堅固で、体躯は強大である。宇喜多秀家の家来国富源右衛門は、家中で聞こ
えた大力者であった。彼は敵兵に三度斬りつけたが、刃が立たないので組みついた。相手は格段
の膂力で、たちまち組み敷かれ押えつけられ動けない。
 源右衛門は脇差を抜き、下腹を二度刺したが切っ先が通らない。あやうく死ぬところを明輩に助け
られ、ようやく討ち取った。
 数において勝る日本軍は、明軍を碧蹄館の谷間に追いつめた。ここで明国の名将李如松の軍勢
は壊滅的打撃を受けてついに敗走する。
 日本軍は敵の首級六千余を得たが、味方の戦死者も二千余に及ぶ激戦であった。


 漢城在陣の日本軍は碧蹄館の合戦で勝利を得たが、傷病者の数が多く、兵糧も4月上旬までに
尽きる。
 文禄2年3月20日、三奉行は漢城在陣の将兵総数が五万三千人であると確かめた。小西隊がも
っとも損耗多く、日本を出陣したとき一万八千七百人であったが、健在でいる者はわずかに6,626
人である。
 宇喜多勢八千人も、5,352人が減耗していた。
 碧蹄館の戦いを契機に明鮮軍、日本軍の和議への機運が高まって、明側の沈惟敬が和議を持ち
込んできた。
 沈惟敬の講和条件は、先に加藤清正に捕らえられた二王子の返還と釜山までの撤退であり、日
本側は明国からの講和使の派遣と明国軍の遼東への撤収を求めた。
 4月1日いちおうこの条件で和議がまとまり、日本軍は渡りに船とばかりに4月18日から撤退をは
じめた。

 日本軍の撤退を受けて、4月20日明国軍が漢城に入城した。だが主要な建物は焼きつくされてい
た。平壌が明国軍によって回復されたとき怒った日本軍は、また民衆が内応することを疑い、正月
の24日に漢城の民衆を虐殺し、建物・住居に火を放った。
 戦争が始まって二年目の春は、悲惨な飢餓の春だった。百姓は種をまくことも耕すこともできず、
餓死していった。
 朝鮮政府の首脳部は徹底的に戦うことを主張したが、明国首脳はすでに講和に傾いていた。明国
軍の駐留が長びくほど、兵糧を供給する朝鮮の官民は疲弊することになる。

 和議の間、秀家は2月に三万の兵を率いて、幸州山城を攻めた。城が難攻不落の要害であったの
と、朝鮮水軍の応援で日本軍は落城させることができなかった。
 秀吉は自分の国書が順調に明側に受け入れられると信じていた。同時に朝鮮の南半分の割譲と
いう要求を確実なものとするために、晋州城の攻撃を厳命した。
 前年の10月、晋州城攻めが失敗したのち、一万五千の義兵の根拠地の城として、釜山から漢城
にいたる道筋に「一揆」が横行して、日本軍を苦しめていた。


イラストは文禄2年の普州城の戦い

 6月、秀家を総大将として、加藤清正、小西行長らが晋州城を攻めた。日本軍五万余人でこの城
を包囲した。朝鮮側は兵七千と五万余の民衆でたて籠っていた。6月22日、日本軍の攻撃が始ま
り、7日間かかって陥落した。明軍はこの戦闘に傍観の立場をとった。
 日本軍は、秀吉の命令で城中の兵、民衆すべて虐殺した。生き残った者はごく一部だった。
 晋州城を落としても、和平推進、撤兵のほうは変わらない。朝鮮に留まる諸将に対して7月27日
付の軍令が出され、本格的な城普請とそこでの在番を命じられる。
 朝鮮にひきつづき在陣する軍勢は、加藤清正、鍋島直茂、小西行長ら四万余人となった。
 帰国の諸将は、船の数がたりないのでクジ引きで乗船の順番を決めるありさまだった。

 この戦いを総称して[文禄の役]という。
 フロイスは、この戦争で朝鮮に渡った将兵と輸送員合わせて十五万人のうち、三分の一にあたる
五万人が死亡した、と推定している。
 敵によって殺されたものはわずかであり、大部分の者は飢餓、寒気、疾病によって死亡したので
ある。
 敵も味方も、戦闘と飢えと病気の恐怖にさいなまれた悲劇の二年間だった。

 同年8月9日、大坂城で秀吉嫡子誕生の知らせが名護屋城へ届きいた。秀吉は狂喜して大坂城
へ戻った。
 同年12月、備前宰相宇喜多秀家は、ひさびさに岡山に戻り、新城普請の状況を視察した。
 翌文禄3年5月20日、朝鮮の軍功により、権中納言に任ぜられる。



[慶長の役]
 慶長元年(1596)7月13日の丑の刻(午前2時)、畿内に大地震がおこった。当時の記録によれ
ば、伏見城は天守閣・大手門・櫓などのすべてが倒壊し、京都・伏見では多数の圧死者がでた。
 大坂城にいて安泰であった秀吉は、すぐさま伏見城再建普請をはじめた。地盤のよい木幡山に縄
張りをして、昼夜兼行の突貫工事がすすめられた。

 朝鮮在陣の諸将はしばし平和な時を迎えた。
 巨済島に駐屯していた島津忠常は、巨済島に着いてすぐ蹴鞠の庭をつくり、父の義弘とともに遊
山をし、そのあと蹴鞠と酒宴を行っている。さらに忠常は数奇屋造りの茶室と書院を陣屋の中につく
り、茶を楽しみ、連歌の興行を行っている。
 こんな趣味のない大名たちは、虎狩りを行った。吉川広家は虎を秀吉に送って、感状をもらってい
る。
 このような遊猟も、茶の湯も、連歌も、すべてが秀吉の怒りの前にけし飛んだ。

 同年8月18日、明国の日本国冊封使、朝鮮の日本通信使が堺湊に到着した。9月2日明使は、
大坂城で秀吉に謁見した。
 秀吉は冊書に記されている文言の意味を知ると、激怒した。「特ニ爾ヲ封ジテ日本国王トナス」のく
だりを聞くと、冊書をわしづかみにして投げつけた。和睦の期待もやぶれ、講和談判は決裂した。
 秀吉は日を置かず、九州・中国・四国の諸大名に、再度出兵の陣触れを発した。出兵の時期は、
慶長2年2月である。動員された総勢は約十四万一千五百人であった。
 宇喜多秀家、毛利秀元は交代して全軍の本隊となることを命ぜられた。

 明軍は慶長2年5月以降、続々と朝鮮に入り南下しはじめた。
 同年7月頃、朝鮮における日本軍はつぎの諸城に入った。
 釜山城  小早川秀秋、宇喜多秀家、毛利秀元
 西生浦城 加藤清正、浅野幸長
 加徳城  島津義弘、高橋統増、筑紫広門
 安骨浦城 毛利吉成、伊東祐兵、島津忠豊ほか
 竹島城  鍋島直茂、鍋島勝茂
 熊川城  小西行長、宗義智、加藤嘉明ほか

 日本軍の攻撃を前にして、先に完勝ともいえる戦果をあげた李舜臣は、司令官の職を奪われてい
た。和平を望んでいる小西行長は、戦争遂行者である加藤清正の渡海の日時を、朝鮮側にひそか
に告げ、「朝鮮水軍の力で清正を討ち取ってもらいたい」と申しこんだ。
 朝廷はこの情報を信じ、李舜臣に攻撃するよう命じたが、李舜臣はこれを敵のいつわりではない
かと疑い、攻撃しなかった。
 清正が無事上陸してから、小西行長は「朝鮮ではどうして迎え撃たなかったのですか残念なこと
だ」と朝鮮側に伝えた。
 李舜臣が命令に従わず、清正をとり逃がしたというので、朝鮮の朝議は沸き立った。李舜臣に反
対する者たちは、ここぞとばかりに攻撃を強めた。ついに李舜臣は逮捕され、獄に下った。
 李舜臣が解任され、水軍の司令官には元均が任命された。
 元均は李舜臣の定めた制度を皆廃止し、舜臣の信任した副将、士卒を皆追放してしまった。

 元均率いる朝鮮水軍は、7月7日藤堂高虎、脇坂安治の日本水軍に遭遇した。朝鮮水軍の兵士
たちは、一日中漕いできたために疲れきっていた。日本水軍もかかると見せては引き、朝鮮水軍を
翻弄した。
 元均は夜半、風で四散した船団をまとめて加徳島まで戻ったが、のどが渇いた兵卒は先を争って
船を下り、水を得ようとした。そこに加徳島に駐屯していた日本兵が斬り込み、四百人の水兵が殺さ
れた。
 固城にいた都元帥の権慄はこの失態を怒り、元均を呼び寄せ杖刑に処し、さらに前進するよう督
令した。元均は漆川島に憤りをいだいて帰り、毎日酒を飲んでばかりで、諸将と軍議もろくにしなか
った。
 7月15日夜半、日本水軍の大船団が急襲した。不意を衝かれた朝鮮水軍は大敗北を喫し、元均
は陸に逃げて島津義弘の軍兵に殺された。
 休戦期間中の三年間に李舜臣がつくり上げていた朝鮮水軍は、この一戦で壊滅してしまった。
 8月に入って、朝廷は再び李舜臣を司令官に起用するが、大部分の艦船を失った朝鮮水軍はしば
らく半身不随の状態に陥る。
 全羅道南部の制海権は完全に日本水軍のものとなり、日本軍の水陸合わせた急進撃がはじまっ
た。

 これより先、明の副総兵楊元は漢城を経て全羅道に下り、6月半ばに南原城に入った。
 日本軍は、明軍の根拠地となった南原城に猛攻を加え、8月15日激戦の末に南原城は陥落し
た。
 秀吉の命令通り(秀吉は老人も子供も女も、僧侶も身分の低い者も、皆殺しにせよと命じていた)
の虐殺が実行され、城中の人間が老若男女を問わず殺された。
 南原城陥落に際しては、島津義弘、藤堂高虎のもとから、打ちとった敵兵の鼻が切られて軍目付
のもとに差し出されている。それに対して「鼻請取状」が発行され、数が確認されたうえで、軍目付
から秀吉のもとに送られた。
 赤子までも殺して鼻を塩漬けにした。殺さずに鼻だけ切った場合もあり、戦後鼻のない男女がこの
地方に多くいたという。
 鼻の数で戦功が決められた。
 島津勢の場合を見ると、休戦期間中に薩摩の国元では、石田三成の配下の検地衆によって、厳し
い「太閤検地」が行われていた。
 検地の結果、島津の家臣の所領は大幅に削られ、その分は島津氏のもとに集められて、後日の
論功行賞にあてられることになった。
 島津の家中はこの恩給地をめざして猛烈に戦った。慶長の役で島津勢が奮戦し、「鬼島津」の異
名をとった源泉は、太閤検地による知行の配分だった。
 朝鮮にあった諸将が数を競うようにして鼻を集め、送ったのにはこうした理由があった。

 なんの目的も感じられぬ戦闘に、海を越えて駆り出された兵士たちの自暴自棄の心境がそこには
反映しているようだ。
 かすめる財宝にかぎりがあれば、それとならんで金になるのは人間である。倭寇の頃から、人さら
いは日本人の習いだった。文禄の役の時でも、連行された捕虜はおどろくほどの数に達していたと
いう。
 今度の慶長の役では、この人さらいはさらに大々的に行われた。
 連行されたのは主に農民であり、耕す男を失った日本の田畑を耕作させ、さらに代わりに日本の
農民を兵として朝鮮を侵略するのだ、という。
 文禄の役の時に連行された者は半ば日本人と化していて、帰国もあきらめていたという。日本国
内に抑留された者はまだ帰還のチャンスがあった。慶長12年(1607)、徳川政権と朝鮮との国交
が回復されたとき、捕虜の送還が条件となり、約五千人が送還された。
 しかし日本に連行された捕虜は二万から三万と見積もられている。また、捕虜の中には長崎から
マカオに売られた者も相当いたそうである。


 慶長の役における朝鮮側の反撃の主役をなしたのは、今度も李舜臣だった。
 9月に李舜臣は、再び司令官の職に戻った。元均の敗戦によって手元に残された兵船は、わずか
十三艘だったが、その中に亀甲船があったのが救いであった。
 9月14日、鳴梁で日本水軍との決戦が行われた。鳴梁は海峡が狭く大船の運用が困難であるの
で、日本水軍は百艘を越える中型船で押し寄せた。
 舜臣は潮の流れが変わるのを見計らって攻撃をかけ、激戦の末、大勝を得た。
 日本側は三十一艘を失い、大将の一人来島通総は戦死し、藤堂高虎も負傷した。この戦いによっ
て、西海岸の制海権は朝鮮側に保持されるのである。

 これより前、9月はじめに大邱から全州と全羅道に攻め込んでいた毛利秀元と黒田長政の軍約三
万は、忠清道天安を占領し、漢城から出撃してきた明の将軍、副総兵解生の軍と稷山において激
突した。戦闘は一進一退であったが、これで日本軍の北上の勢いは止まった。
 9月14日、日本軍は南方に撤退を開始した。日本軍は慶長の役では、ついに漢城に達すること
はできなかった。
 南下した日本軍は海岸の城に拠って防衛することとなる。この防衛戦の最大の激戦となったの
が、加藤清正の籠った蔚山城である。

「蔚山城の戦い」
 慶長2年12月22日から、翌慶長3年正月4日までの14日間にわたる蔚山城の籠城戦を、「浅野
家文書」を中心に、日を追って記してみます。
 普請も完成に近づいた12月22日未明(午前6時頃)、総構えの外にあった中国衆先手(宍戸元
続)の陣所が明軍の奇襲を受けて炎上し、多くの死傷者が出た。
 急報を受けた浅野幸長、太田一吉らが出動したが、小競り合いの後、明軍が大軍をもって反撃に
転じたため、日本軍は総崩れとなり総構えまで押し戻された。
 浅野幸長は、総構えの門口の守備を清正の家来加藤与左衛門に任せてから、自らの陣所(主郭
部から約五百メートル離れた出丸)に向かい、明軍を撃退してどうにか面目を保った。
 一方、西生浦城で蔚山からの急報に接した清正は、釜山城に救援の使者を派遣し、自らはわず
かな人数を率いて西生浦城から海路蔚山に急行した。これが戦闘終了までに城に入ることができた
唯一の援軍であった。
 清正は入城後、ただちに幸長の出丸に赴き、敵情を見ながら幸長から情況を聞き、明軍の多さと
城内の兵糧が二・三日分しかないという、容易ならぬ事態を知り、西生浦城の主力を呼び寄せるよう
に命じた。


蔚山城の推定平面図(東方より)これは籠城後清正が大改修した後の図と思われる

 翌23日未明、明軍は総構えの三方から攻撃を開始した。日本軍の守備は、東側の曲輪を浅野幸
長が、北側を加藤与左衛門、宍戸元続らが、西側を太田一吉がそれぞれ受け持ち、加藤清正が主
郭部で全軍の指揮をとった。
 昼近くに総構えの北西の隅が破られた。明軍は大挙して城内になだれ込み、本丸・二の丸・三の
丸の真下まで迫るという、危機的状態に達した。
 明・朝鮮軍は、明将楊鎬が主郭部北方の古鶴城山に拠り全軍を指揮し、一万二千余の歩兵・騎
兵が一斉に鬨の声を上げ殺到し、打鉤・木梯子などを用い城壁に取り付いてきた。
 これに対し、日本軍は清正自ら鉄砲を撃つなどして果敢に防戦した。
 明軍は石垣に登ることができず、死傷者が続出したので撤収した。この日の戦闘は、蔚山城の総
構えである三重の柵が突破され、日本軍は主郭部のみに立て籠り、辛うじて死守するといった苦戦
であった。
 一方、西生浦からの援軍は、船二・三十隻に分乗して太和江を遡って城の付近に達したが、明軍
に遮られて城内に入ることはできなかった。

 翌24日午前8時頃、明軍は攻撃を開始した。東西北の三方面のうち、東側からの攻撃に兵力を
集中し、城壁をよじ登ること七回の激戦に及んだが、日本軍の抵抗も激しく、城壁を突破することが
できなかった。また、ほかの二方面においても目的を達せず、午後4時頃に兵を収めた。
 夜半になると明軍は、ふたたび本丸・二の丸・三の丸に総攻撃を掛けてきた。この時も日本軍は
殺到する明軍に集中銃火を浴びせて撃退した。
 この戦闘を機に明軍は強襲を避け、城から四〜五町の間隔を置いて四周を包囲し、城から水を汲
ませないなど、持久策を採るようになる。

 25日は大規模な攻撃はなかったが、太和江の援軍の船が一隻砲火により破壊された。
 26日には、三の丸の加藤与左衛門の持ち場に竹束を持って押し寄せ、28日にも、三の丸の櫓を
焼くべく柴を用意して攻撃を掛けてきたが、いずれも撃退している。
 一週間にわたる明・朝鮮軍の日夜を分かたぬ圧倒的な攻撃に対して、城方も果敢に戦った。籠城
軍の人数について、明確に伝える日本側の史料はないが、韓国側の史料「宣祖実録」に二千余名
と記録されている。明・朝鮮軍の兵力約三万と較べて絶対的少数であったことは間違いない。
 城中での実態は、戦闘による死傷者だけでなく、常軌を逸した飢餓と厳寒などにより、餓死者、凍
死者が続出していたので、包囲を破って脱出することも検討された。
 太田一吉に従軍した僧慶念の日記「朝鮮日々記」の26日条には「穀・水にかつえて死せん事は
必定なり」と慶念も死を覚悟し、「此城の難儀は三つにきわまれり寒さひだるさ水ののみたさ」と記さ
れている。
 一方、明・朝鮮軍側においても、真冬の寒天下の野陣で兵力の消耗も甚大であった。
 そこで、日明間の交渉も行われるのであるが、慶長3年正月2日に、西生浦城で戦備を整えた日
本の援軍の先鋒がようやく太和江の南岸に達するに及んで、交渉は自然に打ち切られた。

 正月2日、毛利秀元は蔚山援軍の部署を定め、水陸から西生浦城を出発した。清正軍の主力は
同日に太和江の河口に到着し、翌3日には陸行した先鋒が蔚山城南方の高地に達し、陣を張っ
た。援軍の兵力は、諸城から駆けつけた諸将の兵一万三千人と、加藤清正の主力を合わせた総数
二万人に近い軍勢である。
 この日本軍の援軍に対して、明軍は兵を出すとともに、3日の夜半に援軍の本隊が到着する前に
城を落すべく、三方面から総攻撃を開始した。
 明将自ら戦場に臨み、最後の攻撃を敢行したが、城方も必死に防戦し4日の明け方まで続いた戦
闘で、これを撃退することに成功した。

 ついに明軍は、慶長3年正月4日、十四日間にわたる攻城戦において、蔚山城を攻め落せないこ
とを知り、また、日本軍の援軍によって背後を断たれることを恐れ、囲みを解き退却を開始した。同
日4時には、古鶴城山に拠った本陣も撤退を完了した。
 その間、援軍約一万人は明・朝鮮軍を追撃し、諸将はその夜のうちに蔚山城に入城した。

 この籠城戦を通じて動員された兵力は、籠城軍二千余人(おもに水軍)、これに対して直接の攻囲
軍は、明軍水陸合わせて二万七千人、これに朝鮮軍二千五百人を加えて、じつに日本軍の十数倍
に当たる約三万人であった。
 また、双方の人的損失は、明軍の死者一万三百人余。「明史」には死者二万以上と記している。
 日本軍の損失は、初戦の22日、四百六十人の戦死者が記録され、籠城期間による戦死、餓死、
凍死者を加えると相当数の死傷者を出したと思われる。
 以上が蔚山城攻防の顛末である。


 慶長3年(1598)3月15日、秀吉は醍醐三宝院で花見の会を催した。これが秀吉最後の豪奢だ
った。7月には病の床についた。
 秀吉は7月13日、大坂城に諸大名を集め、遺言を申し述べ、五大老、五奉行を定めた。
 大老は宇喜多秀家のほかは徳川、前田利家、毛利、上杉のいずれも外様大名であった。
 五奉行は浅野、前田玄以、増田、石田、長束である。浅野のほかは、戦歴に乏しい事務官僚ばか
りであった。
 
 夏を迎える頃の朝鮮在陣の日本軍の配備はつぎの通りであった。
 蔚山城      加藤清正      一万人
 西生浦城     黒田長政      五千人
 釜山本城     毛利吉成ほか   五千人
 同 丸山城    寺沢正成      一千人
 竹島城 昌原城 鍋島直茂、勝茂  一万二千人
 巨済島見之梁城 柳川調信     兵数不明
 固城城       立花統虎     七千人
 泗川城       島津義弘     一万人
 南海城       宗義智      一千人
 順天城       小西行長ほか  一万三千人
 総勢六万四・五千人が、明軍の来襲にそなえている。
 小早川秀秋、宇喜多秀家、毛利秀元、浅野長慶らの諸軍約七万人は5月に帰国していた。
 明軍は朝鮮における陸海の兵力を増強し、十万におよんでいる。
 このような緊迫した状況のなか、太政大臣従一位豊臣秀吉は、8月18日丑の刻(午前2時)に世を
去った。喪は秘されたが、朝鮮の諸将には撤退の指令が出された。
 しかし10月初旬、将軍董一元に率いられた明軍は泗川城の島津義弘を攻めて、鉄砲隊による反
撃を受けて大敗を喫してしまった。島津勢が討ち取った首は三万八千七百十七と、島津家文書には
記されている。例によって非戦闘員が多数含まれているとしても、明軍が大損害を受けたことは間
違いない。
 将軍劉廷(左に糸)に率いられた明軍も、10月初旬順天を攻めたが、成功しなかった。意気阻喪
した明軍は日本側と和議を進め、日本軍に人質を出して撤兵の安全を約束した。

 ところで水軍統制使李舜臣のもとには、明の水軍の大船団が提督陳隣に率いられて夏の間に到
着していた。
 陸軍の和議にもかかわらず陳隣は11月7日に秀吉の死を知り、李舜臣と協議して小西行長の退
路を遮ることとした。順天の入口を押さえる松島に進出した水軍を引こうとしなかった。
 島津義弘の水軍が、約五百艘の大船団で小西軍を救出しようと西航してきた。
 これを迎撃する朝鮮・明の連合艦隊も松島を発して約五百艘が東に向かった。決戦の場所は順天
の東方の露梁であった。
 11月17日午前2時頃、島津の艦隊と明・朝鮮の艦隊は遭遇した。明将ケ子龍の船が先鋒となっ
て突進してくるが、島津方の砲が命中し撃沈、子龍以下二百人を倒した。李舜臣の艦がひとり飛び
出して奮戦していた。
 その乱戦の中、日本軍の放った小銃の弾丸が舜臣の胸に命中した。李舜臣は自分の死を秘する
よう言い残して息絶えるが、戦闘は継続された。
 激戦の結果は明・朝鮮水軍の大勝利であり、島津水軍は二百余艘が焼き払われたという。しかし
小西行長は、この戦闘の間に順天をぬけ出して、11月20日、無事巨済島に帰着した。

 この最後の海戦で劇的な戦死をとげた李舜臣は、疑いもなくこの戦役の生んだ最大の英雄であろ
う。
 こうして文禄・慶長の役はついにその幕を閉じた。莫大な人命の損失、関わったすべての国の財
政に深刻な負担となった戦役は、日本と朝鮮の国境は対馬と釜山の間である。という千年来の単
純な認識を再確認するだけの結果に終わった。
 「空虚の御陣」という日本の一武将の評言の通り、無用の干戈であった。
 唐入りの作戦に従軍した中国、四国、九州の諸大名は、兵力が半減する大損害をこうむってい
る。
 国内に待機していた大名は、まったく損害を受けていない。
 宇喜多秀家は、大老として日本軍引き揚げの指図に忙殺される日を送った。秀吉の没後、家康が
遺命にそむく行動をとりはじめた。
[関ヶ原合戦]につづく



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