備後歴史雑学
内堀の南東隅から見た本丸南面、左に天守、その手前が本丸大手である本丸内門、右の二
重櫓は月見櫓で、山上は詰丸の櫓群。
毛利元就の嫡孫(1553〜1625)関ヶ原の戦いで西軍についたため、周防・長門の二国に
減封された。
毛利敬親(左)と嗣子の毛利元徳(右)敬親は最後の藩主(1819〜1871)で、藩政改革を行
い財政難を克服し、倒幕派として活躍した。
萩藩では参勤交代で初めて藩主が国入りすると、天守と要害に登陟する儀式が執り行なわ
れた。
普段天守は道具も収納されず、権威の象徴でしかなかった。初国入りした藩主は、前もって
清掃された天守三階の「鐘之段」に着座する。
重臣たちも着座し、藩主より熨斗(細く切ったアワビを干したもの)を賜る。一方藩主には城代
から熨斗・昆布・勝栗が供され、天守での儀式は終了する。
その後藩主は、徒歩で指月山頂上の要害に登り、御茶屋で天守と同じ儀式を行う。そして大
勝櫓と瀬戸崎櫓に上って遠望する。
これは、要害の軍事的機能、陸海監視を藩主自ら確認するという形を示したという。
毛利輝元・秀就・綱広・吉就・吉広・吉元・宗広・重就・治親・斉煕・斉元・斉広・敬親。
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