備後歴史雑学 

[萩城の画像1]



萩城復元(CGI)


同右(東側)のアップ


同左(西側)のアップ


萩城本丸復元CGI
内堀の南東隅から見た本丸南面、左に天守、その手前が本丸大手である本丸内門、右の二
重櫓は月見櫓で、山上は詰丸の櫓群。


上と同角度より見た天守古写真


萩城天守復元CGI:屋根瓦には赤瓦が用いられ異彩を放っていた


慶安5年(1652)に作成された萩城下町を描いた大絵図


[以下先月3月中旬に訪城した時の画像]


駐車場から入城すると毛利輝元公の像がある


輝元公像の右側の石垣(二の丸南門)


正面が本丸内門:古写真には橋(極楽橋)が架けられている


上の右側にある案内板


指月山と天守台:内堀の幅は二十間


本丸内門で入場料を支払い門内に有る説明板


本丸内門を入っ枡形を右に曲がった正面に神社の鳥居が見える


本丸御殿の跡


上と同所から天守台に続く石垣(雁木になっている)


天守台北側の上り階段


天守閣の案内板


指月山への登り口


詰丸跡の案内板


花江(はなのえ)茶亭の入口


同案内板


同庭と内部


同北側


二の丸西側より見た内堀と天守台西面


同別角度


同天守台南面と指月山


二の丸西側の八間櫓の石垣


二の丸の最西から見た西側:かつては海だった


上同所よりみた指月山


三の丸より二の丸東門跡を見る


同所より中堀南側を見る


同所より中堀北側を見る


二の丸東門の石垣


二の丸東門内より見た内堀と指月山


同所より天守台方面を見る



毛利輝元画像
毛利元就の嫡孫(1553〜1625)関ヶ原の戦いで西軍についたため、周防・長門の二国に
減封された。


毛利敬親(左)と嗣子の毛利元徳(右)敬親は最後の藩主(1819〜1871)で、藩政改革を行
い財政難を克服し、倒幕派として活躍した。


「藩主初入国の儀式」

 萩藩では参勤交代で初めて藩主が国入りすると、天守と要害に登陟する儀式が執り行なわ
れた。
 普段天守は道具も収納されず、権威の象徴でしかなかった。初国入りした藩主は、前もって
清掃された天守三階の「鐘之段」に着座する。
 重臣たちも着座し、藩主より熨斗(細く切ったアワビを干したもの)を賜る。一方藩主には城代
から熨斗・昆布・勝栗が供され、天守での儀式は終了する。
 その後藩主は、徒歩で指月山頂上の要害に登り、御茶屋で天守と同じ儀式を行う。そして大
勝櫓と瀬戸崎櫓に上って遠望する。
 これは、要害の軍事的機能、陸海監視を藩主自ら確認するという形を示したという。


「歴代藩主」
毛利輝元・秀就・綱広・吉就・吉広・吉元・宗広・重就・治親・斉煕・斉元・斉広・敬親。


トップへ戻る     戻る     次へ




inserted by FC2 system