備後歴史雑学 

[萩城]


 周防・長門二国に作封された毛利輝元が、三方を海に囲まれた天然の要塞「指月山」を中心
に築いた大城郭萩城。以後、山口移鎮までの百六十年間、城は萩藩の政庁としての役割を果
たした。

 全国最大級を誇った広島城を失った毛利輝元が起死回生で築城した萩城は、広島城よりも
規模は小さいながらも形式は最新のものであった。


 豊臣政権下で全国最大級を誇った広島城が完全に竣工したのは、慶長4年(1599)正月で、当
時としては最大級を誇った広島城天守は八カ国に及ぶ毛利百十二万石の居城として威風堂々と聳
えていた。
 その新装なったばかりの広島城を毛利輝元が失ったのは、その翌年の関ヶ原の戦いで西軍の総
帥とみなさらたためで、長門・周防の二カ国三十六万九千石に減封されてしまった。

 居城を失った毛利氏は、早急に居城を築かねばならなかった。
 輝元の元に家康から築城の許可が届いたのは慶長8年9月である。輝元は早速居城の建設候補
地の選定にとりかかった。
 候補地は防府の桑山・山口の鴻峯・萩の指月山の三つがあり、毛利氏としては防府か山口を望ん
だが、幕府が許可したのが萩の指月山であった。
 慶長9年(1604)6月、指月山の麓で縄張りが行なわれ本格的に築城が始まった。湿地帯での築
城は難工事であった。
 この工事で生かされたのは、かって同じデルタ地帯に広島城を築いたときの「島工事」と呼ばれる
築城技術であった。
 城の完成を待ちかねた輝元は11月11日、着工工事半年もたっていない萩城に入った。
 慶長13年に完成したと伝えられるが、天守の正確な完成年代は不明である。

 完成した萩城は、指月山を背にして本丸御殿、西南部に五層の天守、東南角と東北角に櫓が配
置されていた。
 本丸の前面に幅二十間の内堀を巡らし、南正面に本丸門が設けられていた。二の丸には十二棟
の櫓が建ち並び、南面に幅十六間の中堀を巡らし、南門と東門を設けた。
 三の丸は主として重臣たちの居住地で、東側と南側には外堀を巡らし、城下と区分されていた。
 さらに標高143mの指月山の頂上に詰丸を置き、海陸監視の役割を果たしていた。
 萩城の特長として、戦国時代の山城「防御」と「居住空間」という構造になっていて、築城はまず山
上詰丸から始まり、吉田郡山城に近い戦国的な城郭であり、関ヶ原合戦に敗れた毛利氏にとって
は、臨戦体制の城であった。
 城下町づくりは慶長10年から始められ、外堀から東南へ向けて開発されていった。城を中心に侍
屋敷、その外側に町屋が広がっていた。
 それからおよそ二百六十年間萩城は毛利氏の居城となっていた。しかし、幕末の文久3年(186
3)十三代藩主敬親(たかちか)は藩庁の山口移転を決定、萩城の本丸御殿は解体され山口へ移さ
れた。
 さらに明治6年、萩に残っていた諸櫓・練塀・門などいっさいが解体されて姿を消した。


 広島城天守は慶長3年頃の完成と思われるので、その年代差はほぼ十年となる。
 ともに輝元が築いた天守であるが、この十年の年代差は小さくはない。関ヶ原以後に到来した全
国的な築城の大盛況のうちに、まさに築城技術が日進月歩していた時期であるからだ。したがっ
て、萩城天守は広島城天守より技術的に相当進んだものとなったようである。
 関ヶ原以後、慶長二十年の大坂夏の陣までの十五年間は、全国各地で天守の創建が相次ぎ、天
守規模の拡大期でもあった。
 天下の政に関与する立場の五大老から、単なる一大名に転落した毛利氏の苦渋の歴史が現れて
いると思われる。

 萩城と広島城の天守の規模を比較してみると。
      萩城天守     広島城天守
 (一階)十一間×九間  十二間×九間
 (二階) 十間×八間   十二間×九間
 (三階) 六間×五間   八間×七間半
 (四階) 六間×五間   六間×五間半
 (五階) 三間半×三間  三間半×三間半
 この両天守を延床面積で比べると、萩城は広島城の八割にも満たない。
 萩城天守は高さも低くなっていて、さらに広島城天守が二基の三重三階の小天守を付けていたの
に対し、萩城は一重の付櫓を従えるだけであった。
 両天守ともに二重二階の入母屋造の基部もち、その上に三重の望楼を上げた五重五階の望楼式
天守である。

 外観からすると、三階が特に小さい萩城天守のほうが古風に見える。しかし、建築技術上では年
代に新しい萩城のほうが圧倒的に進歩していた。
 天守内部の間取りは、広島城では雑然としており柱配置も整備されておらず、梁などの架構も均
等でない箇所があり、構造城で不安定なものであった。
 萩城天守の間取りは、完全に左右対称となり、三階と四階では内部の柱の本数を減少させて
広々とした空間としており、江戸中期以降に主流となる新しい構造形式を先取りするものであった。
 萩城天守の一階は、天守台より半間づづ外へ張り出していた。類例には、萩城より先行する熊本
城天守があり、後世のものでは高松城天守にも用いられた。張り出しの床下は石落としとなってい
た。
 広島城天守には石落としが一つだけしかなく、防衛力は格段に向上した。

 外壁について見ても、広島城は古風な下見板張りであったが、萩城では白漆喰の総塗籠になって
いた。明治維新まで残存していた天守のなかでは、最古の塗籠の例であって先進的な例である。
 萩城天守の窓は、見かけは古式な突上戸であったが、木板がむき出しの広島城天守の突上戸よ
り進歩しており耐火性能が高かった。
 屋根瓦は、当初は通常の瓦が使われていたが、明和5年(1768)の修理の際に赤瓦に改められ
た。赤瓦は水分を吸わないので、冬の寒さによる凍害で割れることがない。
 天守に赤瓦を使った初例は信長の安土城であるが、それ以降の用例が無く珍しかったそうであ
る。
 萩城天守は、広島城天守よりも規模が下回ったが、その形式は当時最新のものであり、最上階に
は廻縁を巡らせ、安土・大坂城以来の格式と伝統を守っており、明治6年の取り壊しは大変に惜しま
れる。


「萩絵図」正保年間(1644〜48)幕府の命令により作成された絵図


明治初期に撮られた萩城天守(南面)


萩城古写真(南東面)



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