備後歴史雑学 

幕末剣心伝36「神道無念流:芹沢鴨」

 少しも争心あるべからず

近藤一派に殺された芹沢こそ動乱の中で純粋に尊攘の大義を求めた剣豪であった


 新選組局長筆頭芹沢鴨、肖像も写真もないが「丈が高くでっぷりとして、色白で目は小さい。細か
い縞の着物に、白っぽい小倉の袴をつけ、ふところ手をして堂々と歩く」と、その容貌は今に語られ
ている。
 生年は明らかでないが、「ふところ手」をいつもしていたというのは、剣に余程の自信があったので
あろう。神道無念流・居合の達人であったと伝えられる。

 その芹沢がよく知られる通り、文久3年(1863)9月16日の夜、守護職の示唆を受けた近藤勇派
の手に掛って、深酒をして熟眠中、屯所の八木邸において情婦のお梅もろとも惨殺された。
 下帯も外して真っ裸で、首から肩へと大きく斬られ、さらに縦横に乱刺されて応戦の気配もほとん
ど見られない、士道不覚悟の死にざまであった。
 お梅の方も、みだらな姿態のままであったというから、取り合わせて芹沢の不名誉はいっそう輪を
掛けたことになる。
 こうして剣豪を謳われた芹沢は、情痴の構図の中でもっとも剣客らしからぬ最後を遂げた。

 しかし、芹沢をこうした状況下で暗殺した土方歳三や沖田総司、さらに下命した近藤勇も正々
堂々たる流儀にまったく背く以上、隊の革正という大義名分があったにしても、剣士としてのモラル
からは外れ過ぎている。
 と同時に、こうした卑劣な謀殺でしか芹沢を倒すことができなかったところに、彼の剣がいかに強く
恐れられていたかが、十分に推測される。


 芹沢鴨の本名については、木村継次という定説の他、下村継次・芹沢継次という説がある。
 芹沢の出生地は、常陸国行方(なめかた)郡芹沢村で、水戸までは30キロほどの行程である。当
時の芹沢村には、名家芹沢城主の末裔芹沢卓幹が郷士として住んでいたが、その血筋を受ける者
として鴨は生まれたとするのが妥当のようであるが、当初の名は不明である。
 いつのころか、芹沢某は天狗党に入る。この折、彼は「玉造勢」と称された水戸尊攘過激派の一
人、下村継次にあやかるべく「下」と形の似ている「木」を用いて、木村継次と変名したのであろう。

「江戸にては高慢者などは天狗と申すかに承り候ところ、水戸にては儀気これあり、志あるものを天
狗と申し候。たとえば勝手困窮にて今日の暮しにもさしつかえながら、食し候ものも食し申さず、書
物を買入れ、または刀剣甲冑などを買入れ、容易に人に出来申さずことをいたし候を、なかなか人
の出来候ことにこれなく、天狗にこれあるべし」
 烈公(水戸斉昭)のこの言葉どおり、天狗党こそ水戸藩内下士層中の、最もまじめで克己的な
人々の集団であった。
 彼らは、食を節しても文武に励み、ひたすら身心の実力を培っていった。それは門閥なるがゆえ
に、碌々としていたずらに高碌を食んでいるに過ぎない重臣層への対抗勢力として、激動する時勢
の中で水戸藩を方向づけ、もっとも忠実な水戸学の信奉者、つまりは尊皇攘夷の実践に加熱する志
士たちであった。しかし倒幕論者ではなく、敬幕の立場にあった。
 木村もこうして神道無念流戸ケ崎熊太郎門下となって剣技につとめ、ついに免許皆伝・師範役とな
った。

 この流儀は、野州の剣客福井右衛門嘉平の始めたものだが、信濃戸隠山の飯綱明神に祈ったと
ころ、その無念の境で神から 極意を授かったとして流祖となった。
 そして戸ケ崎の代になって、江戸に道場を設けたが振るわなかった。しかし、門弟の一人の仇討ち
の成功を機に、にわかに活況を呈し、斎藤弥九郎の出るにおよんで、もっとも開花し名流となった。
 なお、もとは越中の百姓の子であった弥九郎は、名を成してから水戸藩とつながった。小石川の
水戸藩邸で野試合を指揮し、斉昭から褒められ、以来水戸藩から定まった扶持を藩士でもないのに
貰うのである。したがって神道無念流は水戸藩士に大いにもてた。
 芹沢と同時に、あるいはその前後に近藤派によって一掃された新見錦・平間重助・平山五郎・野
口健司ら水府出身の新選組幹部らは、すべてこの流儀に属する。

 さて木村継次は短慮一徹に過ぎ、そのための失敗が多かったが、ついにこれが命取りとなる。
 潮来の宿で、些細なことで怒りだし部下三名の首を刎ね、さらに鹿島神宮に詣っては、拝殿の太
鼓が大き過ぎて目ざわりだといい、これを鉄扇で叩き壊してしまったのである。
 木村は江戸に護送され、龍の口の評定所で厳しい取り調べを受けた。
 死罪を覚悟した木村は、牢内で絶食の上、小指を切り滴る鮮血で辞世の歌をしるし、その紙片を
牢格子に貼りつけた。
「雪霜に色よく花の咲きかけて散りても後に匂う梅が香」
 しかし、天狗党の首領と目されていた武田耕雲斎は木村の助命に奔走し、それが功を奏した。
 いったん故郷に戻った木村は、両親・妻子に別れを告げ、なお尊攘の大義を貫くため、東奔西走
の行に草鞋を穿く。
 木村は離村に際して芹沢姓にもどったが、名前を鴨とした。芹沢家の氏神の日の岡の鴨宮から
「鴨」と命名したという。
 こうして故郷への愛惜を「芹沢鴨」という名に託して、まず江戸へ向かう。文久2年(1862)の師走
の風の吹く頃であった。
 新見・野口・平山・平間などの粒選りの天狗の剣士が、彼を慕って行をともにした。

 翌3年2月4日、芹沢たちは清川八郎の首唱する浪士隊に加わった。清川は三百名近くの浪士た
ちの中で、芹沢一人には敬意を払っていたという。
 とにかく芹沢は単なる郷士ではなく、かって「三百人の天狗を指揮した」というのも、あながち出鱈
目とはいえまい。
 浪士隊は木曽路を経て京都に向った。彼らには、当代一流の剣豪山岡鉄舟・佐々木只三郎など
が付添った。この一隊が紛れもなく剣士集団であることを意味していた。
 しかし上洛後、清川派の東帰と浪士隊の分裂となり、芹沢一派と近藤一派により新選組を結成し
たが、わずかに13名でしかなかった。ただ神道無念流の遣い手が6名とほぼ半数を占めていたの
が、せめてもの慰みであったと思われる。
 芹沢が何時も持っていたという三百匁の鉄扇には「尽忠報国の士芹沢鴨」と彫りこんだのも、離郷
時の志ではなかったかと考えられる。
 新選組筆頭局長となった芹沢の傲慢な態度は、組織を何より大切にする近藤にとって、苦々しい
極みであった。
 近藤ら天然理心流一派にとっては、新選組こそ栄光への出発点であり檜舞台であった。しかし芹
沢には天狗党の経歴があり、同じ局長でも実力はあっても田舎剣法の名もない近藤一派だけで
は、新選組を創設するにはあまりにも無名であった。
 新選組には、芹沢は欠かせなかったのである。

 8月18日の政変によって、公武合体派の勝利という形で七卿落ち、長州藩の信任解除などによっ
て一応新選組も面目を保った。
 この時、芹沢の武勇ぶりを伝える会津藩士の記録が、次のように残っている。
「小具足烏帽子を冠り、鉄扇を取った芹沢の顔の先五寸ほどに、藩兵の抜身の穂先がいきなり突出した
のだが、芹沢は悠々として、扇を腰から取ると、それで穂先を煽ぎたて、悪態雑言を尽くしたのであ
る。藩兵たちは舌を巻き(にくさもにくし、大胆)と評した」まさに芹沢でなければできない芸当であ
り、剣への自信がうかがわれる。
 この日から、新選組は市中見廻りの任務を正式に与えられた。

 新選組の基盤ができあがり、「智勇兼備」の評判をとった近藤に、公武筋から「梟暴」といわれるよ
うになった芹沢を粛清せよとの命が与えられた。
 新選組の真の歴史が、芹沢を斃して近藤・土方が支配者となった時点で始まることはいうまでもな
い。したがって芹沢は、新選組の栄光にも悲惨にも、全くのかかわりを持つことなく終った。
 とにかく新選組が攘夷を貫く集団になり得なかったところに、芹沢の最も大きな悲劇があったので
はないか。そして芹沢はそこに挫折したが、近藤は局面の転換を心中にはかり、そして実行しヒー
ローになったようである。
 しかしまた、終局から眺めれば、彼ら剣豪ひとしく悲惨というべきものがある。
 変革動乱期なるがために、剣豪の期待された幕末であったが、それは一種の狂い咲き現象で終
った。押し寄せる鉄砲の新時代を前にして、剣士は敵も味方もともに滅んだ。彼らの剛剣も時代や
政治屋を斬ることはできず、はかなく後世に見せるべき興行を演じて終ったのかも知れない。
 時代の殺伐とした舞台の片隅に、ほんの一瞬、芹沢という男は図太く姿を現して、哀れに消えた。
にもかかわらず、その名を保つことまことに長い。
 それが汚名にしても稀有のことであり、泉下の芹沢は、今なお剣豪として評されている。


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