備後歴史雑学 

吉備津神社と吉備津彦神社

 「吉備への回想」

 吉備とは何か。それは日本に古代国家が確立する前段階に、中・四国地方の中央部で覇をとなえ
た一大政治勢力を意味する。
 それは、およそ西暦紀元頃に成立した岡山県南部を基礎に結集し、四・五世紀の頃には有力な
部族共同体を中核にして部族同盟を形成し、近畿の政治勢力と互角に対抗するまでになった。
 これを根底から支えたのは民衆であった。彼らが地の利を生かして農業・製鉄・塩をはじめとする
諸生産に、力を注いだ成果の上に吉備政権は聳え立ったのである。
 民衆は次第に富と力を身に付けた吉備は、近畿政権にとっては脅威の的であると同時に羨望の
的でもあったのである。
 そこで近畿政権は、首長の従属化を押し進め吉備政権の基礎をゆさぶった。吉備の有力部族は
近畿に抵抗を試みたが、敗北を重ねた。
 七世紀になると、国造制を貫徹してきた近畿中央政権に吉備の首長層の結束はくずれ去ってしま
う。首長たちは中央政権と結びつくことに活路を求めたが、それは民衆を裏切り確立しつつある国家
権力の手先になることであった。
 寺院の創建はその象徴であるが、吉備政権の崩壊後は備前・備中・備後の三国に分割されて、
大宝令制定によって確立した古代国家の中に吉備は解消してしまう。時に701年であった。
 

 「吉備津神社」

 備中の一宮である吉備津神社は、四道将軍として下ってきた大吉備津彦命を主神とし、日本尊に
したがって活躍した吉備武彦命ら一族をあわせ祀っていると今日伝えられている。
「四道将軍の派遣」
 十代崇神天皇が各地を治めるために、崇神10年(三世紀後半)四道将軍を派遣した。
 西海道には、大吉備津
 北陸道には、大彦命
 東海道には、武渟(ぬな)川別
 丹波道には、丹波道主命     となっている。

 西海道の吉備津彦は七代孝霊天皇の皇子、本名を彦五十狭芥彦(ひこいさせりひこ)といい、異
母弟若建吉備津彦と共に吉備に来て翌11年には平定した旨を奉上している。
 吉備津彦も若建吉備津彦も、もともと吉備の豪族であり、兄は上道を弟は下道を支配していたも
のを皇統譜に組込まれ任命の形にしたものといわれる。
 吉備津彦は吉備の親神として、吉備の神域中山山麓へ「吉備津神社」として尊び祭られ、配神に
は若建吉備津彦・御友別中津彦・外五名がある。
 創立は加夜臣奈留美命といわれ、観応2年(1351)に焼失、現在の本殿は応永5年(1398)足
利義満の命により25年の歳月をかけて完成した。
 本殿と拝殿が一体となって、構造上の斬新さ内部の豪華さに匹敵する社殿は稀であり、長い松並
木の参道、起伏ある長い回廊、南北の随身門神座の左右の狛犬等、吉備の親神としてふさわしい
荘厳さである。
 中山の山頂には御陵があり、長さ150メートルある前方後円墳「中山茶臼山古墳」がある。
 中山をはさんで東側に吉備津彦神社があり、備前一宮と呼ばれていて、備後一宮の吉備津神社
も、ともに分社だといわれている。

 吉備津神社がはじめて文献に現れるのは847年で、吉備津彦神と記され、無位であったのが従
四位下の神階を受けた。
 855年からは吉備津彦名神と称せられ「延喜神名式」には吉備津彦神という名で名神大社に列
せられている。
 吉備津彦は、その名からして本来は津氏の祖神であったと考えられていて、それが吉備の有力首
長の共通の祖神として定着したのは、「記紀」編纂の時代よりも後のことであったと思われている。

 吉備津神社の社伝によれば、吉備津彦は吉備中山の麓に茅葺宮を建てて住み、281歳で没する
と、中山の山頂の茶臼山に葬られたという。
 これはもとより説話にすぎないが、茶臼山が大形前方後円墳であることから、逆に吉備津彦の実
在が証明せれると説く。
 吉備中山の名は、平安時代から宮廷貴族の間にも知られていた。「枕草子」にもその名がでてく
る。
 真金ふく吉備の中山 帯せる細谷川のおとのさやけさ
 「古今和歌集」のこの著名な歌とともに、吉備の中山は古来、吉備津神社の裏山であったと信じて
疑われないようである。
 「まがねふく・・・」とは真金すなわち鉄を精錬するという意味だが、吉備における鉄生産は、鉄穴流
しによる砂鉄の採取と、たたらによる鋼の精錬という形で明治時代まで続いた。
 室町時代までさかのぼるといわれる吉備津神社の縁起は、吉備津彦の鬼神退治の伝説にいろど
られている。


吉備津神社の本殿へ上る石段


吉備津神社の本殿(国宝)


「鳴釜神事」

 釜鳴という神事は王朝以来宮中をはじめ諸社にもあったことが文献にもみられています。釜
を焼き湯を沸かすにあたって時として音が鳴るという現象が起こる と、そこに神秘や怪異を覚
え、それを不吉な前兆とみなし祈祷や卜占を行ったらしい。そして陰陽道的解釈が加えられて
いったと考えられます。
 この神事の起源は御祭神の温羅退治に由来します。

 異国から飛来した鬼神が新山に城をかまえて悪事をはたらくので、吉備津彦がこれを退治し
たという筋であるが、この鬼神は首を落とされた上、さらしものにされても唸ってやまないの
で、吉備津神社の釜殿の竈の下に埋めたのであるが、なお唸りやまなかった。
 しかしある夜、温羅の霊が阿曽の祝の娘阿曽姫を釜殿の神饌の炊事に奉仕させるなら、吉
凶によって釜が鳴りわけるようになるであろう。と告げた。
 これが鳴釜の神事の起源とされるものである。鬼ノ城跡に近い総社市新山の、平安末期創
建と考えられる山上伽監跡の一角には、巨大な鬼の釜と称する鋳物が遺存しており、阿曽の
鋳物師の奉納したものとみられている。



 「吉備津彦神社」

 本殿は三間社流造りで、元禄9年(1696)岡山藩主・池田綱政が建立したもので、拝殿・幣殿は
昭和の建築で新しい。
 東西に真直ぐに伸びた参道は条里制の跡といわれ、両側は広大な林泉で古代庭園の様式を残し
ている。
 安仁神社(西大寺)が備前一宮であったのが、平安時代にこちらを一宮と称するようになった。


本殿前にある庭園


同庭園


庭園の中央に参道があり、門の向こうが本殿


門を潜った中にある案内板


本殿正面


本殿の正面右にある平安杉


本殿正面を左より見る


本殿の東面


本殿の東側


本殿の東側にある「さざれ石」


さざれ石のいわれ(知らなかった)


境内の西側にある桃太郎像


 「備後吉備津神社」

 福山市新市町にある備後一宮は、門守のいる随身門が二つあり全国でもここだけという。
 奥の随身門の両側に楽殿があり、窓ごしに舞殿がある。その奥が本殿。
 本殿は慶安元年(1648)福山城主水野勝成が造営、破風が弓形になり室町桃山風である。
 重文としては狛犬が三体あり、毛抜形太刀が四振、錫丈頭が一柄ある。太刀は備後三原の刀工
による優れた作品で。後者は応仁2年(1469)作で、祭事用の楽器として使用したものである。

 過去に紹介した記事参照 こちら です。


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