備後歴史雑学 

鬼ノ城

 鬼ノ城は吉備高原の南端に位置し、標高約400メートルの鬼城山に築かれた古代山城。

 7世紀の東アジアは戦乱の時代であった。
 朝鮮半島の古代国家である百済を、唐・新羅連合軍が滅ぼした事件(660年)を契機に、朝鮮半
島へ進出していた大和政権は(661〜663年)、白村江はくすきのえの戦い(663年)で唐・新羅連合
軍に大敗した。
 敵国の進攻に備えるため、西日本の要所に朝鮮式山城を築城したことが「日本書紀」に記されて
います。一方記録にはありませんが、朝鮮式山城と同種遺跡の古代山城(神籠石こうごいし系山城)が
16城あり、鬼ノ城もその一つと考えられています。

 鬼ノ城は吉備高原の南端に位置し、眼下には古代吉備の中心地であった総社平野や児島半島、
そして四国山脈も遠望できます。
 標高約400メートルの鬼城山に築かれた鬼ノ城の城壁は、山の8〜9合目にかけて延々と築かれ
長さ2,8Kmに及んでいます。
 城壁は土塁が主体をなし城門四ヵ所、水門六ヵ所、角楼一ヵ所と高石垣などにより構成されてい
ます。
 土塁は基礎に列石を配置し、木枠を組んで土を一層ごとに突き固めた版築工法で築かれ、規模は
高さ5〜7メートル壁面は80度近い勾配のため、簡単に敵兵を寄せつけません。
 さらに雨水などの浸食から城壁を保護するため、城壁の内外には敷石が敷かれています。
 この敷石は日本の古代山城では初めての発見になりました。

 鬼ノ城では四ヵ所の城門が発掘調査により確認され特筆されます。いずれの城門も残りが良く、
門構えが極めて堅固な造りです。
 城内の広さは約30ヘクタールもの広大な面積があり、倉庫とともに兵舎か管理棟と見られる礎石
建物跡や、溜井や鍛冶工房跡なども発見されています。
 総社市が平成13年から史跡整備に着手し、これまでに西門や角楼、版築土塁の一部、北門など
を整備していて、日本の古代山城としては大規模な史跡整備事業となる。


「鬼ノ城の画像」


「国指定史跡 鬼城山」総社市が発行している鬼ノ城の案内リーフレットの図


復元された西門の全景


登城すると最初に現れる角楼


西門内部


西門は三階建で、この二階は城壁の連絡路


西門内にある案内板


西門内にある石積ですが、何だろう


西門外より見た総社平野


西門前から見た整備された登城路



駐車場横の鬼城山ビジターセンター前の案内板


同アップ


同アップ


同アップ

 今回の登城は孫娘と一緒でしたので、西門跡で終了しました。桃太郎の鬼退治の話をして
いて、すぐ近くに鬼を退治した桃太郎の吉備津彦神社と吉備津神社があるので、行って見よう
という事になりました。



「温羅伝説」
 
 温羅伝説とは、吉備地方に残る、桃太郎話のモチーフとなったといわれる伝説である。
 古代吉備地方には百済の王子と称する温羅(うら又はおんら)という鬼が住んでおり、鬼ノ城
を拠点にこの地方を支配し悪行を行っていた。
 吉備の人々は都へ出向いて窮状を訴えたため、これを救うべく崇神天皇は孝霊天皇の子で
四道将軍(よつのみちのいくさのきみ)の一人・吉備津彦命(きびつひこのみこと)を派遣した。
 命は現在の吉備津神社の地に本陣を構えた。

 温羅に対して矢を1本ずつ射たが岩に呑み込まれた。そこで命は2本同時に射て温羅の左眼
を射抜いた。温羅が雉に化けて逃げたので命は鷹に化けて追った。
 更に温羅は鯉に身を変えて逃げたので吉備津彦は鵜に変化してついに温羅を捕らえた。こう
して温羅を討ったという。それぞれの伝説の地に矢喰神社、温羅の眼の血が流れた血吸川、
鯉喰神社が存在している。

  温羅は製鉄技術をもたらし吉備を治めた技術者であり豪族ではないかとされる。また、血吸
川の川の赤さは鉄分によるものであろう。吉備地方は古くから鉄の産地として知られ「真金吹く
吉備」と呼ばれていた。実際、鬼ノ城の東麓には日本最古級の製鉄遺跡が存在する。
 なお、この伝承はその後、鳴釜神事の成り立ちへと続く。



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