備後歴史雑学 

一乗寺下り松の決闘


 闇の中に沈む下り松の周囲に十重・二十重と剣陣を張り廻らす京八流・吉岡の門弟たちをめ
がけて武蔵の必殺の剛剣がうなりをあげて一閃した!


 慶長八年(1603)10月11日夕刻、宮本武蔵は吉岡一門の使いの小者から果し合いの牒状を受
けとった。
 明後日卯刻(午前6時)
 洛北一乗寺村藪之郷下り松にて立ち会いのこと。
 吉岡道場名目人 壬生源次郎
       後見人 壬生源佐衛門
 一読した武蔵の剛強な貌に、不敵な凄みがただよった。


「吉岡流」

 武蔵が名を上げるための標的になった吉岡道場。室町将軍の指南役を務めたというがその
実態は詳らかでない。

 武蔵がその生涯で行なった仕合のうちでも数少ない有名人である吉岡一門。日本の中心京都の
中にあって「室町兵法所出仕」といわれ名門とされた吉岡流だが、実体については何も判っていな
いそうだ。一説に、鬼一法眼を祖とする京八流の流れをくむという。
 鬼一法眼とは、治承年間(1177〜81)に京の一条堀川に住んでいた陰陽師のことで、牛若丸
(源義経)にも兵法を伝授したらしい。
 その剣の秘術を鞍馬の僧八人に教えたことで、京八流が発したという。吉岡流の名を高らしめた
理由である室町将軍家の兵法指南役を務めていたのは確かなようだ。
 通説では、天文年間(1532〜54)に、足利十二代将軍義晴に仕えたのが吉岡憲法直元。直元
の弟直光も憲法の名を継ぎ、将軍家に仕えて兵法指南となり今出川に兵法所を開いた。
 さらに直光の子の直賢が十五代将軍義昭の指南となり、この直賢の子供が武蔵と戦ったという清
十郎と伝七郎になる。

 余談ではあるが、この直賢は武蔵の父新免無二斎と将軍義昭の御前で立ち会い、敗れたとされ
る人物である。このエピソードの真偽のほどははなはだ疑問が残るが、後日無名の武蔵が吉岡清
十郎と仕合えたのは、この時の縁からという。
 吉岡家は代々武家のようだが、町人の出だという説もある。初代憲法は京都下京四条で染め物
屋を営み、墨高茶染の考案者だとし、剣法好きが講じてやがて室町将軍家に仕えたという。
 のち吉岡流が衰えた後、吉岡家は紺屋の店を西洞院に開いたが、「吉岡染」「憲法小紋」などと呼
ばれる染め物が評判となり、京の名物のひとつになったという。


 慶長9年(1604)21歳の武蔵は、おのれの剣名を天下に鳴りとどろかせるため、京都に上り吉岡
道場の門をくぐり、総帥たる吉岡源左衛門直綱(初名を清十郎)に勝負を挑んだ。
 今出川に構えた吉岡道場はさながら巨殺のごとき規模を持ち、武道場だけでも十をかぞえた。野
心満々の武蔵が、この相手に白羽の矢を立てたのもうなずける。
 清十郎は武蔵の傲岸不遜な挑戦に激怒しながらも、名門の誇りからこれを受けた。清十郎と武蔵
は、紙屋川の西にひろがる蓮台野で対決した。
 暁闇の静寂のなかで、野生の体臭を充満させた武蔵と白鉢巻をきりりと額に巻きしめ、十文字に
襷をかけた吉岡清十郎が木刀を構えて睨み合った。
 じりじりと膠着した時が流れ、やがて「とう!!」どちらからか、裂帛の気合が喉もとからほとばしっ
た。
 二つの影が電撃のごとく効錯した。
 がっ!!と骨が砕ける気持ちの悪い音がして、清十郎ががくりと膝を折った。武蔵の木刀が清十
郎の右肩を打ち砕いたのである。
 武蔵は激痛のうめきを洩らしながら地にうずくまる清十郎を一瞥すると、踵をかえし、蓮台野から風
のように去った。


 当主清十郎が不覚をとった吉岡道場では、弟の又一直重(通称伝七郎)が威信を賭けて武蔵に挑
戦状をたたきつけた。
 伝七郎には、兄の清十郎より腕が上であるとの強烈な自負がある。伝七郎は武蔵を倒して名実と
もに吉岡道場の当主になろうとしたのである。
 伝七郎と武蔵の対決は、二人の野心の激突でもあった。

 淡雪の散りふぶく宵、蓮華王院の三十三間堂で吉岡伝七郎は武蔵を待った。十数人の吉岡一門
の高弟たちが底冷えのする寒さに震えながら、篝火に手をかざしている。
 その中に壬生源佐衛門がいた。清十郎・伝七郎の叔父にあたり、一門につよい影響力を持ってい
た。
 約束の刻限を半刻過ぎても、武蔵は杳として現れなかった。伝七郎はいらだちを隠せない。虚空
に舞う雪を眺めながら、ぎりぎりと奥歯をきしませていた。
「臆したか、武蔵。卑怯者めが!」伝七郎は怒りにみちた罵声を発した。
 その時、三十三間堂の端から黒影がにじみだし、いきなり野獣のごとくはしった。
「武蔵だ!」吉岡一門は意表をつかれ、狼狽し、および腰になった。
 武蔵が猛然たる闘志で、伝七郎めがけ激走していく。
 伝七郎にせまったとき、武蔵が抜刀した。
「とう!!」野獣の咆哮のごとき雄叫びとともに、武蔵の白刃が一機閃電した。
 吉岡伝七郎は額から顎まで縦一文字に断ち切られ、鮮血の瀑布を噴いてのけぞり倒れた。
 武蔵はそのまま三十三間堂から宙に躍り、雪降る闇にまぎれ消えた。
 壬生源佐衛門たち吉岡一門は、唖然として声もない。


 別説では、伝七郎との決闘は洛外のどこかだったとわれ、伝七郎はひっさげて行った五尺余の木
太刀を武蔵に奪われて、それで打ちつけられて血の泡をふきながら息絶えている。

 武蔵の弟子たちが記した「二天記」(1755年成立)によれば、武蔵が吉岡一門と決闘して勝った
のは、慶長9年(1604)春である。
 その元ネタとおぼしき豊前小倉の武蔵頌徳碑の碑文では、清十郎を再起不能とし、伝七郎を叩き
殺し、清十郎の子のまだ幼い又七郎を擁して復讐戦に臨む吉岡一門の裏を掻き、又七郎を斬り、弓
槍鉄砲を揃えた門弟たちの布陣を突破する。
 これが事実ならば、吉岡一門は滅びて当然なのであるが、そうはなってはおらず、大坂の陣に先
立って徳川家康は、所司代を通じて吉岡兄弟の大坂入城を妨げようとしている。事実、吉岡一門は
城方の招きにより入城し、冬の陣を戦っている。
 講和成立後吉岡兄弟は城を出て、豊臣氏滅亡ののちは幕府に遠慮して、兵法家の看板を下ろし
て染物業に転じた。

 吉岡家側の記録「吉岡伝」(1684年成立)では、武蔵と仕合ったのは古今稀なる剣術達者な源左
衛門直綱・又一直重の吉岡兄弟。
 武蔵は越前少将・徳川忠直の家臣であり、二刀を使い無敵流を称していたという。
 仕合のきっかけは、忠直の「剣名高い武蔵と兵法の奥義を究めた吉岡兄弟との仕合を見たい」と
の言葉から。そこで京都所司代・板倉勝重を立会人にして、まずは兄の直綱と対戦した。
 仕合は双方譲らず緊迫したものだったが、ついに武蔵が額を割られ、そこで終了。居合わせた人
の多くは直綱の勝を認めたが、武蔵は引き分けを主張した。
 そのため直綱は再戦を申し込む。ところが武蔵はなぜか及び腰で、すでに直綱との勝負は決した
として、弟の直重との勝負を言い出した。
 ところが約束の後日の仕合(これが下り松の決闘に相当)には現れず、恐れをなして遁走したこと
になっている。
 こうなると完全なる吉岡流の勝利だが、引き分け説もある。
 戦国末期から江戸中期までの武家のエピソードを集めた「古老茶話」では、吉岡木刀・武蔵竹刀を
手に立ち会い、それぞれ相手の左肩の後ろ、左の小鬢を打ち相打ちとなっている。

 「二天記」「吉岡伝」とも当然のことながら、自らの評判を落とすようなことは書かないであろう。
 真偽の判定は現在では難しく、謎は謎のまま残されたようである。ただし、「二天記」には確実な
誤りがあるという。
 「二天記」によれば吉岡流は武蔵に敗れたため、断絶したことになっているが、この段階では吉岡
家はつぶれてなどいなかった。
 「駿府政事録」の慶長19年(1614)の記録に、吉岡憲法の名がある。6月21日に内裏で開かれ
た能の最中、吉岡憲法が騒ぎを起こし、板倉勝重の家臣太田忠兵衛と渡り合って討たれたという。
 さらに俗説では、大坂の陣に吉岡一門が御宿越前守政友に従い入城したので、敗戦後それを憚
って兵法所を畳んだという。
 以下、一般的に知られている下り松の決闘を記して見ます。


「一乗寺下り松の決闘」

 10月12日深夜。下り松の前に篝火があかあかと燃え、篝火のわきの床机には鱗紋の陣羽織を
まとった前髪立の愛くるしい少年が座っていた。名目人の壬生源次郎、齢は11歳であった。
 傍らに父親の源佐衛門と吉岡十剣の筆頭松沢帯刀がひかえている。下り松のまわりには、一門
の高弟三十余人が決死のおももちで槍を構えている。
 そのほか雑木林の中や、あたりの藪・泥田の陰に門弟たちが潜み、水も漏らさぬ埋伏の陣を構え
ている。
「意外と集まらなんだな。七十八人か」壬生源佐衛門が不服げに漏らした。
 五百人を超す門弟たちは、清十郎・伝七郎が相次いで宮本武蔵という無名の武芸者に苦杯を喫
すると、吉岡道場の凋落の兆しを敏感に嗅ぎとり、その大半が姿を消してしまったのである。
「弟子は家来ではござらぬゆえ、いたしかたありますまい」松沢帯刀が鷹揚に笑い、
「火縄銃が四梃、雑木林の赤松の梢で狙いを定めてござる。かならずや武蔵めを仕留めましょうぞ。
武蔵が鬼神のごとく強かろうとも、鉄砲の玉をかわすことはできませぬからな」
「飛道具を使わなければならぬのか」壬生源佐衛門が、にがにがしく口もとをゆがめた。
 この時代、武芸者の決闘に鉄砲を使用することは卑怯なふるまいとされていたのである。
「なにをいわれるか、ご老人」松沢帯刀が、かっと眼を剥いて声を荒げた。
「これは天下屈指の名門、京八流の命運を賭けた戦でござるぞ。この場において宮本武蔵なる餓狼
を倒さねば、吉岡道場は潰える。そのようなことがあれば、吉岡十剣の筆頭なるこの帯刀、冥土の
憲法大師に申しひらきができませぬ。ご老人もそうでござろう」
「うむ、まあな」壬生源佐衛門は曖昧に言葉を濁した。
 決闘に七十八名もの門弟を動員するのはよしとしても、飛道具を用いるのは剣客として気がひけ
る。壬生源佐衛門は、これでも武芸者の魂を担っているのである。
 下り松に十重二十重の剣陣をかまえ、まわりのあちこちに埋伏している吉岡一門の吐く息が白く、
いくら息を吐きかけても手がかじかんでしかたがない。
 やがて長い緊迫の夜が終わりを告げ、あたりが白んできた。

「武蔵は遅れる。あやつは刻限通りに来たことがない。じらし戦法と申す姑息な策を弄するのだ」松
沢帯刀は篝火に手をあぶりながら、緊張をほぐそうとした。
 そのとき、枯れすすきの藪から漆黒の塊が飛鳥のごとく躍りだし、つむじ風のように老松めがけて
疾走してきた。武蔵であった。
 鎖かたびらの上から木綿の単衣をつけ、泥まみれの革ばかまといういでたちである。革襷をかけ、
革緒の草鞋をはいて足元をしっかりと整えていた。
 このとき、比叡のかなたから明け六つの鐘が遠くひびいてきた。
「武蔵だ!」「武蔵だ!!」老松のまわりをかためている三十余人の剣陣が波のようにどよめき、血
相を変えて槍をかまえ、白刃を抜きはなった。
 武蔵は身を低く沈めて激走してくる。白刃をかざし、槍をかまえる門弟たちは狼狽し、ひるんだ。
 武蔵が烈火の形相で、剣陣の中に躍りこんだ。
 血風をはらんだ剛剣がうなり、一瞬のうちに数人が斬り倒され泥濘の中に転がった。
 武蔵は吉岡の門弟たちを淡雪のように蹴散らすと、名目人の壬生源次郎に猛然とせまった。

「美作の住人宮本武蔵、約定により見参。名目人壬生源次郎殿、勝負!!」叫ぶや、武蔵の剛剣
が白光を引いて奔った。
 ザッ!!異様な衝撃を発して、壬生源次郎の生首が胴をはなれ、鮮血をほとばしらせながら宙へ
飛んだ。
 刹那の空白があった。采配をふるう松沢帯刀はじめ吉岡一門は、息をのんで保然としている。
「おのれ、武蔵!よくもわが息子を!!」壬生源佐衛門が悲鳴にちかい叫びをあげ、全身を震わせ
ながら手槍を突きだした。
「とう!!」武蔵は腰を低くためて手槍のけら首を切り飛ばし、返す刀で壬生源佐衛門を唐竹割りに
斬り下げた。源佐衛門の面貌に血の霧が罹り、そのまま仰向けざまに倒れ落ちていった。
 恐るべき武蔵の強さに、松沢帯刀は慄然とすくみ、白刃を握る手がわなないた。
 武蔵は凄愴な眼光を帯刀に射込むと、剛刀をむぞうさにその顔面にたたき込んだ。
「ぎゃあ!!」松沢帯刀が悲鳴をあげて横倒しにのけぞった。血汐がほとばしり武蔵の顔を赤く染め
た。
 武蔵は鮮血したたる太刀を星眼にかまえつつ、泥田の中へ走りこんだ。

「逃げるか、武蔵!!」「待てい!!」吉岡一門の面々が叫びながら武蔵の後を追う。
 なだれるような足音数十人の影が交錯し、怒号・絶叫・悲鳴・戛然たる剣戟の響き、跳け散る鮮
血。一乗寺下り松の周囲は凄惨な修羅場と化した。
 下り松の樹冠から火縄銃で狙いをつけている門弟は、あまりにもめまぐるしい武蔵の動きに翻弄さ
れ、銃を撃つ時機が定まらない。武蔵はそれほどまでに俊敏なのだ。
 吉岡一門の顔面から胸板から腹から血汐が乱れ散り、首がとび腕がとび脚が飛んだ。吉岡一門
は名状しがたい混乱に落ちいった。
 ズドーン!!烈音とともに銃弾が飛んだ。が、あまりにも迅速果敢な武蔵の動きに、あせって狙撃
した玉が当るはずもなかった。
 武蔵は銃声と同時に泥田から躍りあがり、三叉路の辻の高野川に通じる細い農道をすさまじい勢
いで走りだした。
 吉岡一門はここでも意表を衝かれた。武蔵が田畑の中をのびるぬかるんだ農道を逃げ道に選ぶ
はずがないと、頭から決めてかかっていたのである。
 あわてて武蔵を追いかけたが、農道は前日の雨でひどくぬかるんでいて、泥濘に足をとられ思うよ
うに走れない。
 武蔵は脱兎のごとく去っていく。吉岡一門が歯を噛み鳴らし、血涙をしたたらせて喚きあげるが到
底、追いつけるものではなかった。

 近くの小丘の頂きから、その光景を凝視している人物があった。
 緋色の陣羽織をはおった六尺豊かな偉丈夫である。総髪を肩に散し、背中に四尺に余る長剣を背
負った貴公子のごとく秀麗である。巌流佐々木小次郎であった。
 京にあつまる武芸者でその名を知らぬ者はない。
「宮本武蔵、野獣のごとき田舎者と思うておったが、どうして、兵法にも明るいわ」佐々木小次郎の
眼もとに酷薄な冷笑がにじんだ。一乗寺下り松の決闘の一部始終を観ていたのである。
 武蔵はにぎり飯持参で下り松から目と鼻の先の藪にもぐり込み、吉岡一門のやって来る二刻も前
からじっと待っていたのである。
 すなわち埋伏の策である。これに気づかなかった吉岡一門は、戦う前から武蔵に負けていたのだ
った。
「石火の機だ。みごとなものよ。これでは、どれだけ頭数をそろえようと、吉岡一門は歯が立たぬわ」
 佐々木小次郎が、嘲るようにつぶやいた。と同時に、小次郎の顔に険しい色が生じた。この剣の
天才は、宮本武蔵との宿命の対決を予知しているのだろう。


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