備後歴史雑学 

武蔵の里

 剣聖宮本武蔵は天正12年(1584)宮本村(現美作市宮本)に生まれ、父を平田無二(無二
斎)、祖父を平田将監といい、両人とも十手術の達人であった。
 こうした武術家の家に生まれ育った武蔵は幼少の頃から武術に長けており、13歳の時播州
平福で新当流有馬喜兵衛に勝ち、それ以降諸国を巡って剣の道一筋に練磨し、29歳で豊前
小倉船島(巌流島)で佐々木小次郎との決闘など、六十余度の勝負をし一度も負けていないと
いう。
 武蔵は流儀を二天一流と称し、その兵法を五輪書・兵道鏡に残した。また、書・絵・彫刻・工
芸を好み禅の修行を重ね、今日重要美術品とされている数々の作品を残して、正保2年(164
5)5月、肥後の千葉城にて62歳で亡くなり弓削の里に葬られた。



「武蔵の里の画像」


讃甘神社:武蔵が神主の太鼓を鳴らすバチ捌きを見て二天一流を編み出したと伝わる。


讃甘神社の鳥居を入った本殿:孫がおみくじを引くと(大吉)が出た


宮本武蔵誕生碑:後ろが生家


吉川栄治記念碑と生家


武蔵生家入口:民家なので進入禁止です


生家前の案内板


武蔵の略歴説明板


武蔵生家の近所にある平尾家:慶長5年(1600)武蔵が武者修行に出立したとき、家の道
具・系図・十手(三つ)・素槍を姉おぎん夫婦に渡した。その後おぎんの二男九郎兵衛景貞が
ここに居住し武蔵家を相続した。旧大原町で最大の茅葺住宅。


武蔵神社:郷土の生んだ剣聖を祀る神社として昭和46年建立された。裏手には五輪塔が四
基と一石五輪が一基ある。墓地の奥に武蔵の祖父にあたる平田将監の墓があり、その右手
に無二斎夫婦の墓が立っており、その左手の石碑には「賢正院玄信二天居士 宮本政名武蔵
之碑」と刻まれ、熊本の弓削の里より分骨したものと伝えられる。


本位田外記の墓と伝えられる石が立っている。碑銘も何もないのは、27歳の外記が上意討ち
にあったことを憚ったものだという。


本位田外記之墓の案内板



讃甘神社前にある武蔵の里五輪坊大手門


五輪坊大手門前にある案内板


五輪坊大手門を入って右手にある武蔵道場


武蔵道場前の石碑


武蔵道場の玄関と看板:この日(12月5日)道場内から気合いが響いていた


道場の左手にある武蔵像:左手が武蔵資料館と武蔵の里五輪坊


武蔵像のアップ


武蔵像右手の案内板


武蔵像左手の案内板


資料館・五輪坊前にある日本庭園の池:鯉のエサ100円で鯉が群れ集まる


武蔵資料館内の展示品:これ1枚撮影した時点で館内撮影禁止だと解り以後撮影なし。
宮本武蔵の差料で有名な上総介兼重:この脇差の右側に兼重の大刀が展示してありました
が、この大小が武蔵の差料かは不明です。
 島田美術館には、刀(大磨上げ無銘金重)時代南北朝・伝宮本武蔵所用が残されていて、こ
の刀は、武蔵が使っていたと伝えられています。武蔵は、この刀で京都の吉岡一門と戦ったと
伝えられています。


武蔵道場とは別にある武蔵武道館


武蔵武道館前から見た竹山城跡(南東面)


「竹山城」

 竹山城は標高430メートルに築かれた中世後期の吉野郡第一の山城で、明応2年(149
3)新免伊賀守貞重は、東部作州に勢を張るために古町山王山城から移り、以後108年間新
免宗貫の時、宇喜多勢として出陣した関ヶ原敗戦まで在城した。
 昔の因幡街道は武蔵の生家跡まで南下し、ここから山に入り鎌坂を越えると播磨だった。街
道を見張るのにこの山上は格好な場所であった。
 武蔵の祖父平田将監と父武仁(無二斎)は新免家の重臣であり、武蔵も一時期最後の城主
宗貫に仕えたという説がある。
 北側の山裾から車で城山に登ると、馬場跡に休憩施設が整備されている。尾根は東西に延
びて、馬場の跡を間にして東西に一段高い所がある。東が本丸(主郭)西が二の丸(西郭)で
あった。
 本丸の構造は南北33メートル、東西11メートルの「く」の字型。一段低い前面に太鼓丸があ
った。その場所には現在鉄塔が建っている。二の丸にも鉄塔が建つ。
 これら本丸・馬場・二の丸などの郭を中心に大手を固めていた。大手に対し、300メートル程
離れた尾根の西に坊主ケ丸といわれる独立した郭があって、尾根続きの搦め手に備えてい
た。
 美作・播磨・因幡三カ国の接点に位置し、因幡街道を眼下に見下ろせる戦略的拠点。加えて
北と南が深い谷によって守られた要害。竹山城はこんな条件から、美作東部では三星城と並
ぶ重要な山城であった。このため南北朝内乱の時代から戦国末期まで、攻防の歴史が繰り返
されたのであろう。


竹山城馬場跡から本丸跡(東)を見る


同二の丸跡を見る


馬場跡にある竹山城の案内板


馬場跡から北東(大原宿)を見下ろす


馬場跡から南東(武蔵の里)を見下ろす


「武蔵の出生地」

 宮本武蔵の生国には種々異説があり、判然としない点が多いです。武蔵晩年の著書「五輪
書」の序の巻には(生国播磨の武士、新免武蔵守藤原の玄信)と明記されていて、「五輪書」
の後に書かれた「二天記」にも(播磨国佐用の城主の末葉)とあることから、兵庫県佐用郡佐
用町平福に生まれたのではないかと考えられている。
 この播州佐用説を補強するものに、武蔵の実母の生家となる「田住家系譜」がある。それに
よると武蔵の実母は、平福村の利神城主別所林治しげはるの娘であるという。彼女ははじめ美
作国吉野郡讃甘村宮本の平田武仁(無二斎)に嫁いで武蔵を生んで、のち武仁と離縁して平
福村に戻り、イトコの政久の後妻になったという。
 この「田住家系譜」から見ると、武蔵は作州宮本村で生まれたと考えられるが、播州平福村
とは中山峠越えして約10キロしか離れていないので、「田住家系譜」にある(武蔵は少年の
時、実母を慕い田住家の客となる)とあることから、気持としては宮本村より実母の平福村に
親近感を持ちつづけ「五輪書」に(生国播磨)と記したとも考えられる。

 播州出生説はもう二つある。
 「播磨鑑」という書物には、武蔵は播磨国揖東郡宮本村(現在の兵庫県揖保いぼ郡太子町
宮本という地名になる)産だと場所を特定しているようです。
 
 また武蔵は、田原甚右衛門の三男に生まれたとする説もあり、遠縁にあたる新免(平田)家
に赤子のときに養子に出されたというものである。
 さらに武蔵の養子の伊織家に伝わる「宮本家由緒書」によれば、伊織は田原甚右衛門の孫
にあたり、叔父の武蔵の養子になったことが記されていて、田原家は代々播磨国印南郡米田
村(兵庫県加古川市米田町)に住したとあることから、武蔵も伊織もそこで生まれたのではな
いかと推察されているようだ。

 作州宮本村に生まれたとする説は、武蔵の父武仁がそこに住んでいたことと、平田家に伝
わる「平田家系譜」や「東作誌」「新免家侍覚書」などから成り立っている。
 それによると武蔵の父武仁(無二斎)は、新免家の居城となる竹山城の家老職であったこと
から、当然武蔵もこの地で生まれたとされている。
 その宮本の地には代々平田氏が住み、その屋敷の一隅に「宮本武蔵生誕地」の碑が建って
いる。また武蔵の姉が嫁いだ平尾氏も近所にある。
 さらに養子の伊織が武蔵の没後九年目に建てた「小倉碑文」と呼ばれる武蔵頌徳碑(北九
州市小倉日向山)には、「播州ノ英赤松ガ末葉、新免ノ後裔武蔵玄信」「年十三ニシテ始メテ播
州ニ至リ」と作州の新免氏の末であり、十三歳ではじめて播州に行ったとあることから、武蔵は
作州生まれであったことが分かるのである。


 武蔵の生涯の決闘シーンでは、吉岡一門とのクライマックス場面「一乗寺下り松の決闘」と、
佐々木小次郎との「巌流島の決闘」が多く映画・ドラマ化される程有名になりました。
 簡単に両場面を回想して見たいと思います。


余談
 B級グルメで有名になりました津山ホルモン焼きうどんですが、以前名も無き道の駅で食しました
所、美味しく美味でした。
 今回は有名店に行く予定で、津山ICの近くにある「広島風お好み焼きのくいしん坊」さんに行きま
した。
 11時オープン直後に到着しましたら、店の前には行列でした。何とか満席に間に合い孫と二人で
着席出来ました。
 当然、普通のホルモンうどん二つを注文しました。
 店に入って嫌な予感が、当店のお好みソースは広島の「おたふくソース」を使用しています。という
堂々としたパンフレットが店内一面に掲示してあるではないですか。
 あのね?広島のお好み焼きには「カープソース」が定番なのですよ。
 案の定、出てきた「ホルモンうどん」は辛いの一言でした。飲んべえの私は全部食しましたが、小
二の孫娘は辛いの連発で半分でお手上げでした。
 今までグルメ情報にはいささか呆れていますこの頃です。近所のB級グルメで優秀な評価があっ
た蒜山焼きソバを一度食しましたが、これは不味いの一言でした。
 くれぐれもグルメ情報には注意が必要です。
 津山ホルモンうどんと蒜山焼きソバは、以前購入後帰宅して食しましたけど、両方不味かったです
よ。特に蒜山はなんで??という疑問符が付きます。
 一度食して、評価あれ。


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