備後歴史雑学 

幕末剣心伝35「天然理心流・土方歳三17」

[落日の賦]


明治2年(1869)5月11日、政府軍の箱館総攻撃のなか、歳三は弁天台場に籠城した新選
組を救援するため、箱館市街に向けて出陣する。歳三の最期を描く。


 榎本は五稜郭へ帰還した歳三を見るなり「土方さん、ご苦労をかけた」と頭を下げた。
「いや、こんなことは苦労でも何でもない。思う存分戦うだけ戦った。聞くところによると、伊庭八郎君
も木古内で戦死したそうですな」と歳三は聞いた。
 伊庭は心形刀流の剣客であった。小田原の戦いで片腕を失ったが、傷が治ると再び戦列に戻って
戦いぬいた。箱館にきてからは大鳥の下にあったが、4月19日に大鳥軍が木古内から撤退すると
き殿を引き受け、政府軍の追撃を食い止めているうちに、銃撃を浴びて倒れた。

「土方歳三の最期」
 歳三の最期について、弁天台場に籠城していた新選組隊士の島田魁と中島登の記録には。
(土方歳三、馬に跨り彰義隊・額兵隊・見国隊・杜陵隊・伝習士官隊・合して五百余人を率いて炮台
を援けんと欲し、一本木街柵に至り戦う。すでに破り、異国橋近くほとんど数歩にして官軍、海岸と
沙山とより狙撃す。数人斃る、しかるに撓む色なし。すでに敵丸腰間を貫きついに戦没、また我軍進
みて攻むるあたわず、退きて千代ケ岡に至る。「島田魁日記」)
(土方公、台場を助けんがため額兵一小隊、伝習一小隊を引き箱館に向かい、一本木関門より打ち
込み進んで異国橋辺に至り馬上に指揮し、ついに銃丸に当り落命致さる。「中島登覚え書」)
 以上によると、歳三は一本木より異国橋付近にまで進撃し、そこでの指揮中に戦死したように読
め、これが歳三の異国橋戦死説の根拠とされていた。

 陸軍奉行添役として従っていた大野右仲が記した「函館戦記」では。
 それによると、箱館総攻撃が始められた11日未明、大野が市中から一本木を経て千代ケ岡陣屋
に行くと、歳三が額兵隊二小隊を率いて出陣しようとしていたところで、大野も馬首を返して一本木
関門へ至った。
 そこへ市中での戦いで負傷した伝習士官隊の滝川充太郎が敗走してきて、兵を歳三に委ねる。
 ちょうどその時、箱館港で海戦を繰り広げていた蟠竜が敵艦の朝陽に砲弾を命中させた。朝陽は
轟音をあげ炎を吹き上げて沈没した。
 歳三は「この機、失すべからず」と大喝し、額兵隊と士官隊を散じて市中突入を命じた。
 これが「島田魁日記」の異国橋近くほとんど数歩にして。「「中島登覚え書」の一本木関門より打ち
込み進んで異国橋辺に至り。という表現になったのであろう。
 つまり、歳三が突き進んだのではなく、歳三の指揮する部隊が異国橋付近にまで達したことを意
味しているのである。
 大野右仲が千代ケ岡陣屋で「歳三が跨馬して棚側にありしに、狙撃せらるるところとなりて、死せる
を知れり」と、関門での指揮中に戦死したことを安富才助と大島寅雄より知らされる。
 歳三は一本木関門で戦死したのである。

 新選組隊士であった立川主税は、歳三は指揮中に関門を離れたと記している。
(土方、兵を引率して一本木より進撃す。土方、額兵隊を曳きて後殿す。故に異国橋まで敵退く。大
森浜は敵の一艦、津軽陣屋を見掛けて打つ。彰義隊は砂山にて戦う。七重浜へ敵、後ろより攻め来
る。故に土方これを差図す。故に敵退く。また一本木を襲うに、敵丸腰間を貫きついに戦死したもう。
「立川主税戦争日記」)
 これによると、一本木で戦死したことは違わないのだが、七重浜方面に敵が出現し、歳三が指図
して退けたというのだ。これを伝えるのは「「立川主税戦争日記」以外には無いようである。
 立川主税のことを、安富才助は歳三の戦死を石田村の実家へ報告する手紙に「立川主税儀、終
始付き添いおり候間、城内(五稜郭)を密かに出して、その御宅へ右の条々委細お物語りいたし候
よういたしたき存念に御座候」と記している。
 つまり立川は、歳三の最期についても詳しく知っていたことになる。
 関門での指揮中に、何があったのだろうか。




「歳三は死の直前に何をしたのか?」
 まず「七重浜へ敵、後ろより攻め来る」という表現だが、一本木とは距離がありすぎるので、七重浜
方面から敵が進出して来たという意味に考えられる。
 そこで当日の戦闘状況を見ると、午前三時ごろより海戦が始められ、蟠竜が朝陽を撃沈したのが
午前七時半ごろと考えられる。
 したがって、歳三が一本木から突撃を命じたのが八時前だったと思われる。
 蟠竜は砲弾を撃ち尽くして自ら海岸に乗り上げ、艦将の松岡磐吉以下は弁天台場に逃げ込んだ。
 回天は被弾して陸に乗り上げて、浮砲台と化していた。砲をすべて海に向けて応戦していたが箱
館市中に政府軍が進出してくると、砲の一部を陸に向けて迎撃した。
 しかし敵兵が弁天台場に迫ると、海軍奉行の荒井郁之助は撤退を決意して、乗員とともにボート
で回天より脱出する。
 この時、「蝦夷錦」の記述には、回天からボートで脱出した兵士たちは、築島から五稜郭へと退避
したのだという。
 ところが、同じ状況を「北洲新話」では、上陸の場所が違っている。一本木より上陸したのだという
のである。
 一本木であれば自軍の防衛地点であり、築島への上陸よりもはるかに安全が保障され、一本木を
上陸地点に選んだとする「北洲新話」に妥当性がある。
 つまり、一本木の歳三は荒井郁之助ら回天乗員の上陸を助け、また掩護のために関門を離れた
ものと考えられる。
 立川主税の記す「土方これを差図す」とはこの行動を意味していたのではないだろうか。彼らは歳
三に守られ上陸し、千代ケ岡陣屋から五稜郭へと退避したのだろう。
 再び関門に戻った歳三は、それから間もなく銃弾を受けて戦死する。
 島田魁も中島登も記しておらず、不可解に思えた立川主税の記述は「立川主税、終始付き添いお
り候」との言葉どおり、関門を守備する歳三の細部までも伝えていたのである。
 そして歳三の遺体は五稜郭に運ばれて埋葬された。


「島田魁のその後」
 5月11日には、ついに土方歳三は戦死をとげた。そのとき島田ら新選組は弁天台場に籠城して
戦っていたが、やがて力尽き15日には涙をのんで降伏せざるをえなかった。
 18日には全軍が降伏し、旧幕府軍の戦いは終わった。島田らは、数人の者とともに名古屋藩に
身柄を預けられることになった。
 明治5年6月に、はれて自由の身となった島田は、新しい時代に生きる決心をした。ときに45歳。
 京都時代に結婚した妻さととの間に、すでに二人の男子があり、その後も子宝にめぐまれた。
 明治9年ごろ、京都で剣術道場を開き心形刀流の腕前を生かすことにしたが、同年廃刀令が出さ
れ、道場に通おうという者もやがて激減していった。
 あるとき、榎本武揚が京都を訪れ、島田のもとに使いをよこした。その頃榎本は新政府に仕え、海
軍卿をつとめるなどして出世をとげていた。
「会いしたいので、ご足労だが宿までお越し願いたい」榎本の使いはこう告げたが、島田は誘いを断
った。
 それを聞いていた息子の柳太郎が不思議に思い、理由をたずねると、島田はこう答えたという。
「会いたくば、先方より出向くのが礼儀。行く必要はない」
 島田から見れば、昔のことを忘れたかのように新政府で出世をとげている榎本のことが許せなか
ったようである。
 明治19年ごろからは、道場をやるかたわら、西本願寺の夜警に雇われるようになった。往時を振
り返って感慨深いものがあったのではないだろうか。
 明治33年3月20日、島田は73歳で没した。不器用なまでに武士としての生き方を貫いた生涯だ
った。

「中島登のその後」
 静岡藩に身柄を移されて、自由の身となってからは、武術の才を活かし知人の警護、また質店を
営んだ。
 明治6年以降は浜松を拠点に生活し、さらに趣味の葉蘭栽培は本格的なもので、高価な品種も育
成させている。
 明治15年に妻よねを得、同17年には銃砲火薬売買人の免許を得て開業した。しかし同19年に
妻を失い、その翌年没した墓所も浜松市にある。
 中島登は葉蘭の栽培で名を馳せた。中島は品種改良の過程で傑作を生成し「金玉簾」なる名をつ
けた。
 この作品は明治14年ごろ、品評会の席で一万円という高額がついたという。この「金玉簾」の名
声を聞き、愛好家が中島の元を訪れ、こぞって購入し、中島は大いに潤ったという。
 しかし、その名品「金玉簾」は、大切に保存していた親株を、ある日誤って馬に食べられ、失われ
てしまったという。
 明治の中島登の経緯に関しては、子孫の中島節也氏が「続新選組隊士列伝」所収の「中島登」に
詳述されています。


天然理心流・土方歳三 (了)





日野の土方家に遺る歳三の愛刀・会津十一代和泉守兼定(刃長二尺三寸五分)

 「土方歳三の兼定と康継」

 池田屋事件当時の歳三の差料が判明する書簡がある。近藤勇が元治元年(1864)10月2
0日、佐藤彦五郎に宛てた書簡の中に、
「土方氏も無事罷在候。殊に刀は和泉守兼定二尺八寸、脇差一尺九寸五分堀川国広」

 和泉守兼定
 本名、古川友弥。のち清右衛門と改める。天保8年(1837)12月13日、会津若松浄光寺町に生
まれた会津藩士である。歳三より二歳年下である。
 12歳の時、藩校日新館書学寮に入る。14歳で父十代兼定について鍛刀修業を始める。
 文久元年(1861)25歳の時、弟子の一人を斬り廃嫡されるが、同年12月に帰嫡を許される。
 翌文久2年12月、藩主松平容保は京都守護職として京へ着任する。兼定は半年ほど遅れて、文
久3年7月27歳の時に京都へ上っている。
 兼定が京都で師とした刀鍛冶は近江守久道であった。同年12月朝廷より和泉守を受領する。
 元治元年6月5日、池田屋事件。同年7月19日、禁門の変の際に兼定は御所警衛のために、数
日間滞陣している。翌元治2年2月、会津若松へ戻る。
 十一代兼定の在京期間は約二十ケ月である。
 歳三と十一代兼定は同一期間に京都におり、会津藩という共通の集団の中にいるので、両者は
当然顔見知りであったはずだ。
 二尺八寸という長さの歳三の刀は、注文打ちと思われる。

 歳三が日野の佐藤彦五郎に贈った刀に康継銘がある。
表 葵紋 以南蛮鐵於武州江戸越前康継
裏 安政六年六月十一日、於傅馬町雁金土壇拂山田在吉試之
  同年十一月廿三日、於千住太々土壇拂山田吉豊試之
 この歳三が贈った康継は江戸中期頃の江戸康継であるという。幕末期に刀の斬れ味を試す(試
斬)が流行した。
 日日が異なるが二人の山田氏が試斬している。雁金土壇とは両脇下を結ぶ直線を裁断すること
であり、下の土壇まで斬り込んでいる。太々とはその上を裁断しているので、良く斬れた証明であ
る。
 この康継の存在によって、歳三がいかに斬れ味を重視していたかが判るのである。


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