備後歴史雑学 

幕末剣心伝34「天然理心流・土方歳三16」


 榎本軍は兵力約三千名だった。本営の五稜郭には総裁の直属軍として約五百名。箱館・松
前・江差に各三百名。室蘭に二百五十名、湯ノ川に百名、五稜郭から松前の海岸線に七百
名、鷲ノ木に四百名。その他、一小隊程度を乙部・弁天砲台・箱館山などに配備していた。


 歳三は宮古から帰還して、荒井とともに榎本に報告した。翌日軍議が開かれた。
 敵の来攻にどう備えるかの評定である。その備えを固めておくためには、敵がどこへ攻撃の主力を
向けてくるか、それを予測しなければならない。
 大鳥圭介は、
「上陸作戦のできる場所というものは限られたところしかない。われらがやったように、鷲ノ木から敵
兵は上陸するに違いない。そこを叩くために、鷲ノ木にはもっと兵力を集中すべきであろう」
 座長役の松平が、
「ほかにご意見は?」と見回した。明らかに歳三を意識している。このとき、
「僭越を承知で申し上げたいが、よろしいか」と、千代岱砲台の守将、中島三郎助が進み出た。
 この中島は、幕末の歴史とともに生きてきたといってよい経歴の持ち主だった。古武士の風格とい
う言葉は、中島のためにあるようなものだ。というのが旧幕臣はもとより、榎本軍の士官たちの一致
した評価だった。
 松平もこの老将には一目置いている。「中島さん、どうぞ」
「拙者は敵が鷲ノ木にくるとは、とうてい思いませぬ。九分九厘、反対の江差かさらにはもっと北でご
ざろう」「なぜです?」
「風でござるよ」「風?」
「われらが上陸した秋とは、逆風でござる。いまの季節、風は東からの日が多い。黒田・山田という
のは、薩長においても兵学に通じている者たちでござる。西海岸の方が浪静かであることは承知の
はず」
「そう決めこむのは危険でしょう」と大鳥が反論した。
「しからば大鳥殿におたずね申す。鷲ノ木と決めこむのは、危険ではござらぬのか」「うむ・・・」
「土方さん、いかがです?」と松平が問いかけた。
「中島先生の仰せもごもっともですが、わたしは違う考えをもっている」「承りたいものですな」
「どこへ上陸してくるにせよ、海岸で防ぐことは難しい。わたしは、中島先生のいうように西の、おそ
らく乙部だろうと思うが、いまから兵を送っても、間に合わんでしょう。それより、ここは海軍に出撃し
てもらいたい」「海軍に?」
「そうです。回天・蟠竜・千代田形の三艦をもって、青森を発してくる敵船団を襲うのが最良の戦術で
す」「土方殿、拙者もそのご意見に賛成でござる」と中島が嬉しそうにいった。
 榎本は苦笑していた。「総裁、いかがです?」と松平がいった。
「いかにも土方さんらしい戦法です。わたしもそれを考えないではなかったが、乗り越えられない問
題がある」「何でござる」と中島がいった。海軍のことなら中島も詳しいのだ。
「甲鉄艦の装甲ですよ。至近距離から撃った回天の砲弾をもハネ返した。もとより戦いを恐れるもの
ではないが、敵を沈めることはできず。味方の艦は沈められる恐れのある戦闘は、やはり避けねば
なりますまい」
 結局軍議は、青森の敵の動きを探り、もう少しそれがつかめてから、行動を開始することになっ
た。何のことはない、現状のまま様子を見る、ということである。

 官軍の動きは、榎本の予想を超えて敏速であった。4月9日、千五百名が乙部に上陸した。
 乙部を守っていたのは約三十名だった。行政を兼ねて駐屯していた程度である。
 この報告が届き、榎本は各奉行を集めた。
「敵の上陸を迎えた今、ああこう言っても致し方のないことである。責任はすべてこの榎本にある。
かくなる上は、全力を挙げて敵に対するのみ」と榎本はいった。
 歳三は、早く迎撃態勢を整えるべきと思い「総裁」と声をかけた。
「土方君、わかっている。では、迎撃態勢について指示します。大鳥君は木古内へ行き、周辺の諸
隊を掌握し、南岸の警備、松前への中継、二股口との連絡にあたる。土方君は、本営の予備のな
かから二大隊をもって二股口を固めてもらう」
「総裁、二大隊は必要ない。二股口は天嶮です。一大隊でよろしいが、弾薬は三大隊分をもらいた
い」と歳三はいった。
 榎本軍の編成は、一小隊五十人、四小隊をもって一大隊としていた。
「本当に一大隊でよろしいか」榎本が念を押した。「大砲はどうなさる?」と松平が聞いた。
「二股口の険しい道を持ち上げていると時間がかかる。なくても差し支えない」と歳三はいった。
 その席にいた大半の者が、土方は死ぬつもりでいるのではないか、と思ったであろう。
 歳三はそれを察して、「総裁、出発する前に外国商館で買い物を致したいが・・・。むろん戦闘に必
要な装備品です」

 歳三は箱館の市中へ出ると、プロシア人が経営している商館へ行った。そこで野営用の天幕と毛
布を二百名分買い求めた。
 それを人夫に運ばせ、さらに一ヵ月分の食料も荷駄として馬にひかせることにした。一ヵ月持ちこ
たえれば、敵は補給が続かない。
 その夜のうちに土方隊は出発した。木古内に一泊し、翌早朝二股口へ登った。ここは江差と箱館
を結ぶ間道が通っていて、標高は約五百メートルである。左右に袴腰岳と桂岳が聳えており、人一
人が通れるくらいの細い道である。
 歳三はこの間道に、三段構えの堡塁を築いた。4月といっても、標高があるから寒さは厳しい。歳
三がとくに選んで参謀として連れてきた島田が、天幕と毛布を触り「これは具合のいいもんですね」
と感心した。
「明日から、最後の正念場がはじまるますね。土方さんと一緒にそれを迎えられるというのは欣快至
極です」「島田君、おれも思う存分戦ってみせるよ」歳三は島田に手をさしのべた。

 一方、乙部に上陸した政府軍は、その日のうちに江差を攻めてこれを攻略した。奉行の松岡四郎
次郎は、守りやすい松前へ退去した。
 政府軍はここで二手に分かれ、一隊は松前攻めに向かい、他の一隊が二股口を目指した。この
峠を突破すれば木古内の背後に出ることができる。箱館と松前を分断するから、松前に籠っている
隊は立ち枯れになる。
 指揮官は長州の駒井政五郎である。駒井は第二次幕長戦争に出陣して以来、ほとんどの戦争に
参加してきた歴戦の士だった。
 さすがに戦い慣れており、一気に登ってくることはせずに11日は宿営して斥候を出し、12日の早
朝から攻撃を開始した。
 守る側の堡塁は三段構えになっている。駒井は大砲を運び上げ、第一堡塁を砲撃した。榎本軍の
第一堡塁が大砲で反撃してこなかったことで、駒井はやや安心した。大砲の数に余裕がないらしい
な。おそらく第三堡塁にしか用意できなかったのであろう。
 駒井が第一堡塁を攻略したあと小休止を命じて、砲隊を第一堡塁まで引き揚げた。問題は第二堡
塁から頂上に近い第三堡塁までの距離である。
 しかし第一と第二堡塁の距離の短いことで、大砲の着弾距離に堡塁を作るとは、頭の悪い戦争を
知らぬ奴らだ、と駒井は楽観した、誘いの罠だとは考えなかった。
 その楽観は、第二堡塁を 攻めたあと敵兵が逃げ出すのが見えた。
「追え!」駒井は叫んだ。政府軍は隊伍をととのえずに登りはじめた。
 歳三は第三堡塁で、こうした動きを見ていた。敵の先頭が足元まできたとき、
「撃て!」と命令を発した。 楽観気分だった政府軍は、第二堡塁まで下がった。
 その時、とつぜん左右の山腹から激しい銃声が起こった。逃げたはずの第一・第二堡塁の兵たち
が、実は樹間に身をひそめていたのである。
 政府軍は命からがら、下まで退却した。

 翌13日、夕刻近くになってから政府軍は攻撃を再開した。昼間の攻撃は高いところから狙い撃ち
されるからであった。
「山道を無視して登れ、山道はむしろ狙い撃ちの目標にされる」と駒井はいった。
 兵たちは道なき道を登った。だが、どうしても傾斜のゆるいところに集まってくる。歳三は前もって、
そうした地点を調べておいた。そして各兵に、明るいうちからその地点に照準を合わせておくよう命
じた。目標は密集した形で登ってくるので、よく命中した。
 この戦闘は、約十六時間も続いた。政府軍は再び蹴落とされた。
 記録によると、この日土方隊の費消した弾丸は約三万五千発である。一人が175発を発射したこ
とになる。歳三は北斜面の残雪をかき集め、その雪で銃身を冷やしながら応戦させた。
 駒井の報告をうけた山田参謀は、ひとまず松前攻略に専念することにした。

 松前を攻めるには、海からの甲鉄艦による砲撃が利用できる。
 松前の榎本軍は、心形刀流の剣客として有名な伊庭八郎が隊長となって政府軍を攻め、大勝を
博した。しかし海からの砲撃に対しては、反撃することが不可能だった。
 17日政府軍は、甲鉄艦・春日・朝陽・陽春・丁卯の諸艦を松前沖に集結し、砲撃を加えた。松前
城からも撃ち返したが、弾丸はほとんど海へ落ちた。
 19日になってようやく回天丸・蟠竜丸が出動して来たが、木古内沖で敵艦五隻に出合うと一戦も
交えずに箱館湾に戻った。
 17日、政府軍と木古内口の大鳥軍は激突し、地の利を得ている大鳥軍は善戦した。しかし、松前
は海上からの砲撃に耐えかねて、守備隊は海岸沿いに撤退し、木古内の大鳥軍と合流した。
 大鳥は五稜郭の榎本へ使いを出し、指示を仰いだ。
 榎本にとって頼りは海軍だったが、残っている三艦のうち千代田形が思わぬ事故によって、敵に
捕獲されるという不運に見舞われた。
 同艦は弁天岬の暗礁に乗り上げてしまった。艦長の森本弘策は、数回の離礁操舵を試みたが、
それに失敗するとあっさり諦めてしまい。「全員上陸せよ」と命令した。
 森本は五稜郭へきて、榎本に報告した。ところが、その頃潮が満ちてきて、千代田形丸は漂流し
はじめた。回天・蟠竜両艦に命じて回収しようとしたが、甲鉄艦を主力とする政府軍がすでに千代田
形丸を捕獲してしまっていた。
「何たることか!」榎本は落胆した。
「五稜郭で全員が集結し、籠城するにつき、ただちに兵をまとめて引き揚げよ」と大鳥に命令した。
 大鳥は各隊長を集めてこれを伝え、二股口の土方隊へ使えを出し榎本の命令を伝達した。木古内
に布陣していた大鳥軍が撤退したのは4月22日であった。

 歳三のもとへこの知らせと榎本の指示が届いた。
 駒井の隊はその後も繰り返し攻撃をしかけてきた。猛烈な砲撃を加えたのち、拠点を一歩また一
歩というように進めてくる。
「あのぶんでは、頂上へくるのに百日はかかりますな」と島田は冷笑した。
「それはそうだが、放っておくのでは士気にかかる」と歳三はいった。
 歳三は、まず刀槍に秀でた兵を集めた。その数約七十名。それから、第二保塁と第三保塁の中間
に、一夜のうちに砦らしきものをこしらえるよう命じてから、すでに占拠された第一保塁のやや下方
に設けられた弾薬集積所近くに潜んだ。
 夜が明け、駒井は新しい砦を見つけるとすぐまさ砲撃を命じた。たちまち砦らしきものは粉砕され
た。と同時に、吹き飛ばされた大小無数の岩石が政府軍陣地に落下してきた。
「してやられたな」駒井が呟いたとき、下方から大喊声が起こった。
 歳三はこのとき、刀を抜いて斬り込んでいた。
「何やつだ?」「新選組副長土方歳三」声と同時に、政府軍兵士は血煙りを噴いて倒れた。
 政府軍兵士は浮き足立ち、どっと崩れた。
「よし。これくらいでいい」歳三は兵をまとめると、弾薬集積所に火を放って撤退した。
 しばらくして大爆発が起こった。駒井は地団太踏んで悔しがったが、後の祭りであった。

 歳三らが二股口の本陣に戻って間もなく、吉報が入った。
 仙台藩の反政府軍派が見国隊という義勇軍を編成して、箱館に到着した。兵力約四百名である。
そのうち約百名が二股口に駆けつけた。
 要するに土方隊は負け知らずである。そこへ五稜郭へ引き揚げてこい、という指令なのである。
「不思議かな?勝っているものが退却するなんて、聞いたことがない」と島田が怒りを込めていった。
「わかりきったことだ」歳三は落ち着いた声でいった。
「まさか・・・」島田が歳三を見ていった。「そのまさかだ。降伏を考えているに決まっている」
 23日、榎本から再び使いがきて、撤退をうながした。
「総裁に伝えていただこう。もう一仕事する、とな」と歳三は追いかえした。
 木古内方面の大鳥軍の撤退を知った駒井隊は、この日の夕刻から猛烈に攻めてきた。
 戦闘は24日、さらに25日朝まで続いた。
 三大隊分を用意した弾薬も、さすがに残り少なくなっていた。歳三は、(これが限度であろう)と判
断した。
 歳三は25日の夜明け前に、一小隊を残して、他は五稜郭へ引き揚げるように命じた。
 多くの者が、残りたいといった。なかには、死ぬなら一緒に死にたいと、はっきりいうものもあった。
「心配するな。一仕事すませたら、必ず五稜郭へ戻る」と歳三は笑って見せた。
 夜が明けると、歳三は一斉射撃を命じたのち、抜刀して斬り込んだ。
 政府軍はどっと崩れて、いっせいに逃げ出した。「とどまれ。敵に後ろを見せるものは、斬ってすて
るぞ」駒井は大いに怒った。さすがに政府軍の兵士たちも踏みとどまった。
 駒井がいったことを実行することを知っているからであった。
「あいつが隊長か。敵ながらあっぱれなやつだ」歳三は微笑した。
 歳三は政府軍の兵士が遺棄していった銃を取りあげた。弾丸は装填されていた。
 構えて引き金を引いた。続けざまに二発。二発とも命中し、駒井は転がり落ちた。年29歳。
 歳三はなおも残り、28日の夜になって五稜郭へ向けて出発した。
 歳三らは北を迂回して5月1日朝、五稜郭へ帰着した。



政府軍に捕獲された千代田形丸。艦長の森本弘策の失策に榎本は激怒し、森本を解任して
一兵員におとした。


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