備後歴史雑学 

幕末剣心伝30「天然理心流・土方歳三12」

「会津戦」その二


 奥州街道から会津へ入る道は四本ある。俗に白河口・石筵口・中山口・御霊櫃口と呼ばれている
道である。
 一番北方にある石筵口(いしむしろ)には、猪苗代との間に母成峠があり天険の要害で、道も狭か
った。
 会津藩では、常識的に政府軍は白河から長沼・勢至堂・御代を経て若松に至る白河街道を北上し
てくると考え、白河口と御霊櫃口に大部分の兵力を割いて布陣した。
 だが、政府軍は逆に最も険しいこの道に目をつけ、石筵口から侵入することに決した。

 会津同盟軍の方にも、この石筵口に注目していた者がいた。土方歳三と大鳥圭介である。二人は
白河口あるいは御霊櫃口で、会津藩兵が政府軍を防いでいる間に、石筵口から二本松を急襲して
これを奪い返すという作戦を立てた。新選組と伝習隊を合わせると約五百の兵力がある。
「成功するかも知れない」歳三は希望を抱いた。

 政府軍にしてもこの入口からの攻撃は奇襲であり、旧幕軍にとってもこの口からの二本松進撃は
奇襲である。
 歳三らが母成峠に布陣したのは、8月19日である。政府軍が本営を発するわずか一日前であっ
た。

 歳三は若松を出る前に、せめて大砲を付けてくれるよう求めたが、最前線に置いたのでは、もし敗
れたときに敵のものとなる恐れがあるから、城の守りに使うといわれ、断られた。
「土方さん、どうも会津の人には、いまの戦争というものがわかっていないようですね。小銃だけで
は、どうにもなりませんよ」と沼間はいった。
「致し方ないことだ。いや、ほかにも武器はある」
「何です?」「これだ」歳三は刀の柄を叩いてみせた。
「正気ですか。そんなものは、もう役に立たぬ時代です」
「たしかに、鳥羽伏見のときはそう感じたよ。しかし、ここの地形では役に立つ。岩場が多いからね。
そこに身をひそめて敵の弾を避け、機を見て斬りかかるのだ。銃隊の指揮はお任せするよ」と歳三
はいった。


 戦闘は、21日の朝からはじまった。官軍は総兵力を一気に前進させた。
 この日、母成峠にはしきりに霧が湧いた。霧が晴れ眺望がきいた時、二本松を奇襲するはずの間
道から、雲霞のごとく現れた官軍に土方たちは驚き、城へ援兵を求めた。
 会津藩兵が仙台や二本松の兵と一緒に駆けつけてきて、総勢は八百になった。

 伝習隊は銃をもって反撃したが、官軍より銃の数が劣っている。しだいに追い立てられた。日が傾
き、付近の山野は官軍で満ちた。
 歳三は、小高い岩場の蔭に約百名とともにひそみ続けて、機会をうかがっていた。勝ったと思って
いる官軍は、兵糧を使っている。

 歳三は抜刀すると、岩の上に飛び上がった。
「全軍、討ち込め!」歳三は一気に駆け下り、敵兵の中へ斬り込んだ。
 歳三のラシャ地の戎衣が、返り血でみるまに赤く染まった。
(勇さんよ、見ているかね)そう考えるだけの余裕が、歳三にはあった。

 歳三は、愛用の和泉守兼定で次々に斬ってから、官軍が積み上げておいた米俵に火をつけ、土
釜を打ち砕いた。このため、官軍は米が不足して二日間かゆで我慢しなければならなかった。
「新選組、退け。しかし、死傷者は担いで退け」と歳三は命令した。
 この日の戦闘で、漢一郎以下六人が戦死し、阿部隼太郎以下四人が負傷した。

 歳三は夜になって猪苗代城に戻った。城といっても堡塁に近い。
「土方さん、幽霊かと思いましたよ。敵の悲鳴で戦果の上がったことはわかったけれど、あなたも戦
死したかと早合点しました」と沼間がいった。
「こういう戦闘には馴れている。めったなことでは死なんよ。それより、大鳥総督はどうした?」
「戦況報告に若松へ戻りました」「うむ」歳三は失笑した。
 そんなことは、伝令を使えばすむのである。体のいい戦場離脱である。
「どうします?」「ここは守れない。火を放って滝沢峠へ行こう」
 沼間はうなずき、休んでいた兵たちを動員した。

 22日、伝習隊と土方隊は滝沢峠まで後退した。布陣して間もなく城から使いがきて、松平容保が
士気を鼓舞するために、本陣まで出張してくるという。やがて容保が現われた。
「おお!土方ではないか」歳三を見た容保が叫んだ。歳三は頭をさげた。
「御意」
「土方は母成峠で戦死したと聞いたのだ。予だけでなく、隊長兵卒に至るまで落胆しておったが、こ
こで元気な姿を見るとは、まるで夢を見ているようである」と容保はいった。
「ありがたきお言葉、身の置きどころもございません」

 そう答えた歳三の目に、大鳥の姿が映った。つい皮肉がでた。
「敵の銃撃はなかなかの勢いでございましたが、元来、目も鼻もない鉄砲玉めが、この土方にはな
ぜか避けて通ります。多くの同志を失いたるに、まことに面目なき次第・・・・」大鳥は顔をそむけた。
 さっさと城へ帰ったことをなじっている、とわかったのだ。
 容保は歳三の進言もあって、その日のうちに帰城した。


 翌23日、官軍はまず大砲の斉射を浴びせてから、攻撃を開始した。
 会津藩兵を含めて、伝習隊・土方隊も応戦したが、いかんせん数と性能において劣っていた。
 沼間の周りには伝習隊、歳三の周りには流山以来の同志が自然に集まってくる。たびたびの戦闘
で、兵士たちはどの指揮官と一緒にいるのが最も安全かを、肌身に感じているのだ。
(ここは守り切れぬ)と歳三はみなしていた。やむなく全軍城へ退却した。

 藩主容保は、最後の防衛線を戸ノ口原に敷いて防ごうとした。会津兵五百余で、銃は旧式。政府
軍二千六百の兵が新式洋銃で突撃してくる。
 この日政府軍は若松城下に乱入した。佐幕の元凶の巣と考えてきた地域だ。政府軍の将士は、
掠奪・放火・暴行と暴虐のかぎりをつくした。
 城では、「藩士と家族はすぐ入城すべし」と命令したが、足手まといになることを懸念した老人・女・
子供はそれぞれ自ら死んでいった。
 会津藩士の戦死者は四百六十余人、家族で死んだ者二百三十余人であるという。

 こういう混乱の中で、歳三は大鳥圭介に、
「庄内藩から援兵をもらってくる」といって、約二百名を率いて米沢街道を北上した。
 その歳三の留守中に、新選組は高久村で政府軍と遭遇した。陣取った如来堂で隊長山口二郎
(斎藤一)以下二十余名の隊士全員討死にした、と誤伝された。事実は山口を含め数人が脱出し
た。
 山口(斎藤)はそのまま会津に踏み留まり、会津落城後は、斗南にも行って下北の痩土を耕し、会
津藩士と共に生きたという。

 新選組残党は大塩・小田村付近にいたが、歳三のいないまま大鳥軍と行を共にした。
 福島・米沢も制圧され、大鳥は仙台に向かった。新選組も従った。
 しかし、着いた先の仙台藩は9月15日にすでに降伏していて、大混乱の最中であった。
 そして9月22日に会津藩が降伏し、翌日、庄内藩も降伏した。

 土方歳三らは、すでにこの地にいた。仙台藩の中には、まだ主戦論を唱えている人物もいたが、
藩が降伏してしまったのではどうにもならない。
「まことに申し訳ないが・・・・」と、藩は大鳥や歳三たち将兵の面倒を見きれないことを詫びた。が、
大鳥・歳三たちにいつまでも居られては、藩が迷惑するのだ。それが正直な気持ちだったのであろ
う。

 榎本釜次郎の旧幕府艦隊が江戸湾を脱出して、近くの折ノ浜に停泊していた。榎本はエゾへ行くと
いう。大鳥と歳三はこれに共鳴した。
「われわれも行く」すぐそう応じて乗艦した。
 新選組として歳三に同行したのは、依然として島田魁・中島登らである。
 10月10日、榎本艦隊は松島湾を出航した。エゾでは、すでに厳冬が待っていた。


「箱館戦争」へ続く


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