備後歴史雑学 

幕末剣心伝29「天然理心流・土方歳三11」

「会津戦」その一


 土方歳三は、4月29日会津若松城下に入った。
 歳三に同行した元新選組の隊士は、島田魁・漢(あや)一郎・中島登・畠山忠助・沢忠助・松沢乙
造ら十数人に減っていた。

 歳三の宿は七日町の清水屋という旅宿に落ち着き、足指の負傷の手当をすませたところへ、斎藤
一が入ってきた。
「土方先生、力不足でお役に立てず、誠に申し訳ありません」
「会津藩も内情はこみ入っているらしいな。お主のせいではない」
「江戸から良くない知らせが入っています」「何だ?」
「近藤先生のことですよ」とだけ斎藤はいった。
「死んだのか」斎藤はうなずいた。
「切腹か」歳三はかすかな望みをつないで聞いた。
「そうではありません。板橋で斬首、太刀取りは岡田藩の指南役、横倉喜惣次なる人物だったそうで
す。じつに見事な最期だった由・・・・」
「うむ」歳三は瞑目した。胸の奥を熱い塊のようなものが駆け廻り、歳三は嗚咽した。斎藤がそっと
立って出て行った。
(勇さんよ。だからいったじゃないか!)投降するなんて、愚か極まることだったのだ。官軍と称する
やつらが、新選組局長をどう扱うかは、わかりきったことだった。
 その夜、歳三の部屋の灯は、一晩中点っていた。

 朝になると歳三は、秋月登之助を訪ねた。秋月もすでに聞いたとみえ、悔みの言葉をいった。歳三
は、
「じつはお願いがある。近藤が存命中にもっとも縁が深く、かつそのお人柄を尊敬していたのは会津
公です。わたしは、死せる近藤のために墓碑を建てたいと思うが、どこかご領内の土地を拝借した
い」
「さっそく言上致しましょう」秋月は登城して、容保はすぐに許可した。
 歳三は、愛宕山の中腹の天寧寺内の裏山を選んで、近藤の墓碑を建てた。戒名は、容保が与え
た。
[貫天院殿純義誠忠大居士]である。その上に丸に三つ引の定紋を刻んだ。
 斎藤をはじめ、このころ会津に参集していた旧隊士、会津藩士で近藤を知っていた者たちが焼香
した。


 この年慶応4年(1868)は4月が二回あった。その閏4月になると、関東で別れた隊士が次々と
集まってきた。
 土方が会津に行ったという情報が、かなりの精度で流れたからだという。新選組が甦ったと聞い
て、藩主容保から会いたいという使者がきた。
 閏4月5日、百三十名(一説では六十余名)に増加していた新選組は容保に謁した。
 翌6日、会津藩主の命を受けた新選組は、斎藤一が率いて白河へ出陣した。 

 大鳥圭介の率いる隊は、伝習隊と合流してなおも野州の山岳地帯で戦った。ことに、今市に滞陣
していた板垣の中軍を、約一千名の兵力で攻撃したときは、あと一息で敵を敗走させるところだっ
た。
 沼間の作戦用兵は巧妙を極めた。板垣軍は余力をほかに回していて、三百名に減っていたので、
大いに苦戦した。
 沼間は、会津街道、宇都宮街道に攻撃の主力を配したが、自分は一隊を率いて壬生街道に回っ
た。
 板垣は、不意に背後から現れた沼間隊に攻め立てられ、(きょう、死ぬだろう)と覚悟したそうだ。

 ところが大鳥は、沼間の忠告を無視して、一隊を割いて宇都宮へ送ったが、板垣軍は逆に大鳥隊
の背後を衝かせたので、大鳥隊はうろたえ、会津街道へ退却した。
 こんどは、沼間隊がぽつんと取り残されが、沼間は日光を経て何とか本隊へ合流した。
 大鳥の頭には、フランス軍の操典がぎっしり詰め込まれていたが、実戦となると、それが少しも活
用されなかった。
 この戦闘を最後に、野州は官軍の制圧するところとなった。
 5月15日、上野に籠った彰義隊がわずか一日で敗れ去り、江戸の治安も回復した。


 これより先、奥羽越の二十五藩は白石に会して列藩同盟を結び、新政府に建白書を提出した。後
にこの同盟には北越六藩が加わる。
 また、江戸湾に残っていた榎本武揚の艦隊が脱走兵を海路運び、ついには輪王寺宮まで仙台へ
移したので、奥羽の天地には反政府の気運が大いに漲った。

 閏4月19日、仙台藩士が政府軍参謀長州藩士世良修蔵を殺した。これが東北戦争のきっかけに
なった。
 白河城が当面の攻撃目標になった。政府軍の指揮者は薩摩の伊地知正治である。
 25日払暁、第一回の総攻撃が行われたが、奥羽同盟軍は白河後方の白坂口の関門を良く守り、
政府軍は敗退した。
 新選組は二人の戦死者を出したという。

 5月1日、伊地知は二回目の総攻撃を敢行した。作戦計画は綿密であり、投入した兵力も膨大で
あった。攻撃は三方面から行われた。
 新選組は城外に出て、会津藩の横山主税や一柳四郎左衛門と協力しながら、白坂口・天神町の
稲荷山等の陣地で、政府軍を迎撃した。
 鳥羽・伏見の経験で、新選組も刀槍ではなく銃で戦った。この戦いは戊辰戦争の中でも最大の激
戦といわれ、横山・一柳が戦死したほか、新選組もかなりの死傷者を出した。
 同盟軍の死傷者は六百八十二人にのぼり、白河城は落ちた。
 以後、同盟軍は七回にわたって奪還攻撃を敢行するが、すべて失敗に終わった。新選組もその都
度参加した。

 
 6月24日、征討軍は白河を発し、棚倉・守山・三春と相次いで攻略し、一ヶ月後には二本松に迫
った。二本松の城主は丹羽長国で、その兵は旧式装備だったが戦意は旺盛だった。
 政府軍はすこぶる苦戦したが、最後には大砲が優劣を決め城中に火災を発生させ、ついに陥落さ
せた。
 この敗報を聞いて、福島の城主板倉勝尚(かつひさ)は一戦も交えずに逃亡した。
 また、7月24日には越後の長岡も鎮定され、会津は孤立した形となった。

 政府軍はここで補給し、兵力も増強して約二千五百名とした。ほかに、佐土原・大垣・大村の各藩
からも兵が送られてきていた。
 対する会津の兵力は、大鳥隊や沼間隊を含めて約八千名だったが、老人・婦女子を含めてなの
で、実際の戦力は約三千名、ほとんど互角の兵力であった。
 それに政府軍には不利な点があった。主力の薩長土三藩は南国育ちの兵ばかりであるので、是
が非でも冬になる前に攻略しなければならないことだった。また、冬の装備も用意していなかった。

 7月の中旬になって、ようやく歳三の傷が癒った。三ヶ月半の月日を空費した後、新選組隊士たち
の顔を見た。
「・・・・済まない」歳三は頭を下げた。鳥羽・伏見戦の時の近藤の心境がわかるような気がした。
「よくやってくれた。こんどはおれが指揮をとる、ご苦労だった」斎藤一の労に謝した。
 若松城では毎日のように軍議が開かれている。
 この席に、会津藩以外の者で出席を許されているのは、大鳥のみであった。歳三も沼間も、出して
もらえなかった。

 沼間が地図を持参して、歳三を訪ねてきた。
「聞くところによると、母成・滝沢の両峠に兵を送ることは送るが、主力は城にあって、籠城戦をやる
つもりらしいですよ。土方さんはどう思います?」
「本気でそんなことを考えているのかね」歳三はあきれた。
「沼間さん、あんたが敵将ならどうやって攻めるかね?」
「兵を二手に分けますよ。湖の南北から滝沢峠をめざす」
「その通りだ。それをやられたら、勝ち目はない」
「しかし、そうはならんでしょう。本営方面へ出した間者の知らせでは、全軍が母成峠をめざすようで
すから、母成と滝沢とに、各一千名を送って固めておけば、敵は立ち往生するでしょうな」
「そして残りの一千名をもって、磐梯山を踏破し敵の背後に出る」
「あっ」と沼間は叫び、「磐梯山は敵も味方も抜けられぬものと決めていました」
「そう、抜けられないかも知れぬが、それを抜ける以外に会津が生き残る道はないとあれば、出来る
だろう」
「大鳥さんに進言しましょう」「それより、秋月君へじかにいった方がよかろう」「それもそうですな」沼
間はにやりとした。
 大鳥には、この二人が何となく煙たい存在になっているのだ。

 だが、軍議は籠城を主体とすることに決した。ただし、母成峠の守りは、大鳥軍と伝習隊に任せ
る、というのである。
 この時、両隊合わせて兵力は約五百名に減じていた。
 さすがに、これでは少なすぎると思ったのであろう、会津藩士田中源之進が二百名を率いて加わ
ることになった。

 
その二へ続く


トップへ戻る     戻る     次へ



inserted by FC2 system