備後歴史雑学
8月18日の政変によって長州藩は京都から追われたが、長州側はひそかに間者を新選組にもぐ
りこませた。
壬生の屯所へ加盟のため姿を現したのは、御倉伊勢武(みくらいせたけ)・荒木田左馬之亮・越後
三郎・松井竜三郎の四名だ。
彼らは長州の激派に加わっていたが、意見が対立し脱退してきた。ぜひ新選組に入って勤王には
げみたいと説明した。
多くの隊士は彼らの行動を疑ったが、近藤・土方は逆スパイに利用しようと思い、探索方を命じ、
前川家に寄宿するよう手配した。
その近藤の態度に気を許したのか、大原重徳の邸に出かけたのをつきとめられ、証拠を握られて
しまった。大原三位卿は自宅に幽居されていたが、罪を許され、以前にもまして尊攘運動にのり出 しはじめたところだった。
御倉と荒木田は屯所の前川邸で、日向ぼっこをしながら月代を剃ってもらっているところを、永倉
新八・斎藤一・林信太郎らに背後から突き刺されて絶命した。
越後と松井は、沖田総司と藤堂平助に襲われ、窓をつき破って逃亡した。
この騒ぎの最中に、かねてマークしていた楠小十郎と松永主計の二人が、あわてふためいて逃げ
出したので、これぞ何よりの証拠とばかり原田左之助が楠を取り押さえた。松永の方は井上源三郎 が一刀を浴びせかけたが、すり抜けるようにして逃亡した。
楠はその後、近藤の前ではげしく訊問されたが、あくまで身の潔白をいい立てるので、原田が怒っ
て首をはねたという。
さらに、副長助勤の佐伯又三郎は、長州脱藩の浪士で京都で参加した人物である。この男は表だ
っては長州藩の志士たちと連絡を取り、よく長州藩邸へ出入りして動きをさぐり、隊へ報告していた が、やがてその行動を怪しまれ、捕らえられて千本北野原で殺された。
「芹沢鴨惨殺」
新選組局長筆頭の芹沢鴨は、粗暴の人の印象ばかりが強いが、意外にも名門の出である。常陸
国玉造の城主をつとめた芹沢一族の末裔である。
常陸国行方郡芹沢村(茨城県行方郡玉造町)の豪農・郷士芹沢貞幹の三男で、神道無念流の戸
ヶ崎熊太郎に学び、免許皆伝の腕前だった。
水戸の武田耕雲斎に私淑し、 耕雲斎が天狗党を結成した時、木村継次の変名で参加、隊員三百
名を預かる程の存在だったという。
気が短く横暴で、潮来の宿で些細なことに激怒して部下三人の首を刎ねたという。
さらに鹿島神宮に詣でて、拝殿の太鼓が大き過ぎて目触りだといい、鉄扇で叩き壊してしまったの
である。
木村は江戸に護送され、龍の口の評定所で厳しい取り調べを受けた。死罪を覚悟した木村は、牢
内で絶食の上、小指を切り滴る鮮血で辞世の歌をしるし、その紙片を牢格子に張りつけた。
「雲霜に色よく花の咲きかけて散りても後に匂う梅が香」と詠んだ。
しかし、天狗党の首領と目されていた武田耕雲斎は、木村の助命に奔走し、それが功を奏した。
志の上からは一流の人物であったのであろう。
一旦故郷にもどった木村は、両親・妻子に別れを告げ、一介の浪士として尊攘の大義を貫くため、
芹沢姓に戻し名も鴨と改め故郷を後にした。
まず江戸に向かった。文久2年(1862)の師走の頃であったそうだが、この時芹沢を慕って、天狗
党の粒選り剣士であった新見・野口・平山・平間らが行をともにした。
翌3年2月、芹沢たちは清河八郎の首唱する浪士隊に加わった。清河は二百名以上の浪士たち
の中で、芹沢一人には敬意を払っていたという。
壬生浪士隊結成当時は、押しのきく人物だけに、局長にかつぐことのプラス面があったが、何しろ
あまりに傲慢で一般の者からも嫌われ。おまけに試衛館グループとは反りが合わなかった。
芹沢は大坂で小野川部屋の力士たちと乱闘事件をおこし。浪士隊の市中での乱暴狼藉ぶりに、
苦情をいいたてた水戸藩公用方をとっちめ、詫び状を書かせただけでなく、座敷を斡旋させた島原 の角屋で大暴れした。
商家から御用金を強請り取ると、その金で遊里に押しかけ、乱暴を働くのだから、一般の市民たち
からも顰蹙をかった。
天誅組に献金した大和屋庄兵衛宅へ軍資金を脅し取ろうとして踏み込み、うまくいかなかった腹
いせに、8月13日に大砲をぶっぱなし、店を焼きはらうという騒ぎもひきおこしている。
さすがの京都守護職も手を焼いて、芹沢鴨の粛清を、ひそかに近藤に指示した。
まず新見錦が血祭りにあげられた。新見が詰腹を切らされた理由は、御用金と称して商家から金
を脅し取り、それを遊興費についやしたことが局中法度の第三条「勝手に金策致すべからず」およ び第一条「士道に背き間敷事」に違反したというのであった。
土方歳三は、祇園新地の貸席「山ノ緒」で新見と会合した機会をとらえて、有無をいわせず安藤早
太郎の介錯で切腹に追いこんだ。
そして次は芹沢である。それは9月18日の夜のことである。
島原の角屋で例のように大酒宴が開かれ、したたかに酔った芹沢は腹心の平間重助と平山五郎
に抱えられ、駕籠で屯所の八木邸にもどった。
屯所には菱屋の妾だったお梅が芹沢を待っていた。おそらくそのお梅を相手に八木邸でさらに盃
を重ねたのであろう。芹沢は泥酔して寝込んでしまった。
平山もなじみの桔梗屋の吉栄を誘い込み、平間も途中で誘った輪違屋の糸里を玄関脇の部屋に
連れ込み、それぞれ寝てしまう。
そこへ近藤一派の者が寝込みを襲い、芹沢とお梅、それに平山五郎が無惨にも殺された。
平山の相手をしていた吉栄は、小用に立ったところを他に連れ去られ難を避けることができた。
平間重助は死んだふりをして抜け出し、闇にまぎれて逃亡した。
八木為三郎が母親から聞かされた話「壬生ばなし」では、
「その夜は夕方からひどい降りだったが、新選組の連中は(今日は会津候からのお手盛りで、島原
角屋の総揚げだ)と、早くから出かけて行った。そして芹沢たちがもどってきたのは夜の十時頃。平 間はあまり酒をたしなまないのでほとんど酔っていなかったが、芹沢はぐでんぐでんになり、平山は 玄関先に倒れて起き上がれない状態だったという。芹沢と平山は奥の十畳にやすみ、平間は右側 の部屋に入って寝てしまった。真夜中に、誰か玄関の障子を開けて入ってくる者がある。母はすでに 床に入っていたが、(今時分に誰だろうか)と不審に思ってよく見るとどうも土方歳三らしい。土方は 芹沢の部屋の唐紙をすこしあけて中を窺った後、いったん立ち去り、二十分ほどして今度は数人の 者とともに激しい勢いで駆けこみ、芹沢の部屋の唐紙を押し倒して中に踏み込んだ。そして物凄い 絶叫が響き、芹沢が八木家の家族の者の寝ている八畳間にころがりこんできて、二人の子供(為三 郎と勇之進)が寝ている蒲団の上に押しかぶさった。芹沢は下帯をつけない真っ裸で息絶え、一緒 に寝ていたお梅は血だらけで、首がもげそうになっていたという。平山の首は胴を離れていたが、目 を覚ます間もなく刺し殺されたのであろう。芹沢たちを襲ったのは、土方・沖田の他に、原田・井上・ 山南・藤堂の内の二人ということになりそうだ。報せを受けた近藤は、数名の隊士を連れて駆けつけ た。真夜中なのにちゃんと袴を着け、悠々としているのがいささか不審だったが、一応死体を検め、 その上に着物をかけたのち、平間重助の行方を捜させた。そして血に染まった蒲団とともに遺体を 前川邸に運ぶよう命じた。」
近藤は夜が明けると、京都守護職へ芹沢が就寝中に賊に襲われて不慮の死を遂げたと連絡し
た。
すべては会津藩としめし合わせた行動であった。
翌々日(9月20日)には前川邸で盛大な葬儀が行われ、近藤は隊を代表して弔辞を読んだ。
そしてあとに残った副長助勤の野口健司も、12月8日には詰腹を切らされてしまった。
「池田屋事件前後」へ続く
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