備後歴史雑学 

幕末剣心伝11「薬丸自顕流」

薩摩士魂を叩き上げた必殺の剣


 「キエーイ」という裂帛の気合とともに、大地を斬り割るかのような剣を斬り下ろす。受け止めれば、
鍔もろとも額にめり込んで絶命するといわれた必殺の剣は、千鍛万錬の続け打ちから生み出され
る。
 鹿児島に伝わる薬丸自顕流は、戦国の野太刀の術を今に伝える実践剣術である。

 幕末京都の治安維持にあたった新選組隊長の近藤勇は、隊士に向かい「薩摩の初太刀は外せ」
と指示したという。剛勇で知られる近藤をして「外せ」と言わしめた剣。
 薩摩出身の維新志士が遣った流儀が、薬丸自顕流(野太刀自顕流)である。


 「じげんりゅう」という名からは、薩摩藩の御流儀示現流を連想する。しかし互いに独立した流派と
して存在している。
 示現流流祖の東郷重位と薬丸家は家が近所であり、親戚のような間柄だった。
 東郷重位が初陣の際、その後見役を務めたのが薬丸壱岐守であった。その縁から、壱岐守の孫
である兼陳に重位が示現流を指南し、重位の五高弟のひとりに数えられる程になったという。

 薬丸家の者は早くから東郷家より示現流を学び、師範代として活躍していたのである。
 だが、薬丸家にはもよもと家伝の「野太刀の術」があった。
 野太刀とは、戦場で使う刃長三尺以上の大太刀のことで、薬丸家では代々戦場で大太刀を振る
い、戦功をあげてきた家であった。
 薬丸家の者は示現流の師範を務めながら、家伝として野太刀の術を伝えていたのである。

 天保年間(1830〜44)、薬丸兼武が家伝の野太刀の術を加えて野太刀自顕流が創始されたと
いわれている。
 一時は東郷家との争いに発展したそうだが、長子の薬丸兼義の代になって薬丸家も師範代として
認可され、薩摩藩の流儀として認められた。

 示現流が創始当初から、御流儀として藩校造士館において、上級藩士の鍛錬・教育に寄与してい
たのに比べ、薬丸自顕流が藩の御流儀として認められたのは、幕末に近い天保年間といわれてい
る。
 だがそれまでに、下級藩士である郷士らの間には普及していたようである。
 古くから鹿児島城下では、郷士らの住む地域が上方限と下方限に大別され、さらに「郷中」という
単位に分けられていた。
 慶長年間ごろから郷中ごとの教育機関が整備され、郷士の心身ともの研鑽を促してきた。

 郷中教育という薩摩独特の教育体系の中で、薬丸自顕流の稽古が広く行われた。その成果が維
新回天を支えたといえるであろう。
「明治維新は、薬丸どんで叩き上げた」とも言われている。
 その後、明治を迎え、郷中教育機関が「復習所」となり、これが明治13年(1891)に「学舎」と改
称され、現在に至る。


 示現流が多くの形と伝書を伝えているのに対し、薬丸自顕流の稽古体系は極めて単純といえる。
 基本稽古として重視している続け打ちに始まり、掛り・抜き・打ち廻り・長棒という稽古で気と剣と
体を練っていく。
 この徹底した鍛錬で培われる必殺の一刀こそ、薬丸自顕流の強さなのである。

 薬丸自顕流では、袈裟に斬りかかる技をひたすら稽古して、一打必倒の剣技を磨いていく。
 構えは蜻蛉と呼ばれる袈裟斬りの構えのみ。右蜻蛉と左蜻蛉で、示現流との関連を感じさせる
が、しかし同流では天を衝くかのごとく剣を高く構え、右肘と柄を握った左拳は離さないという特徴が
ある。
 稽古では常に「キエーイ」という甲高い気合を発し続ける。「猿叫」といわれ気合もろとも斬りかか
る。

 「掛り」は、遠間から一気に間合いを詰めて敵を斬る稽古である。
 「抜き」は、帯刀した状態から、一気に抜刀して斬り上げる。抜き打ちざまに股下から喉までを斬り
上げるという。
 「打ち廻り」は、複数の木を地面に立て、走り抜けながら斬り倒していく。
 「長棒」は、槍などの長ものに対する斬り込み法である。


 「生麦事件と薬丸自顕流」

 文久2年(1862)8月21日、江戸高輪の薩摩藩邸から京へ向け出立した藩主久光以下、四百名
ほどの行列が相模国生麦村にさしかかった時、馬に座乗した四人(うち女性一名)の英国人一行と
鉢合わせた。
 日本の慣習を知らないとはいえ、下馬せず、久光の駕籠脇を通り過ぎようとしたため、供頭の奈良
原喜左衛門が英国人リチャードソンに斬りつけた。
 少し馬が走った後、落馬したリチャードソンに、有村武次(のちの海江田信義)がとどめを刺した。

 この奈良原喜左衛門が遣った剣術こそ、「薬丸自顕流」であったといわれる。抜き即斬の言の如
く、抜きで斬り上げたという。
 他の男性二人も重傷を負ってアメリカ領事館に逃げ込み、女性だけが無傷で居留地にたどり着く
ことができた。
 非礼があったとはいえ、必殺の剣も女性には向けられなかったようである。
 だが、この結果、剣術すら及ばない薩英戦争へと発展して行くのであった。


 「薩摩拵」

 薩摩の拵は常在戦場の精神で、あくまで実践的であり、剛健である。
 薩摩の二大流派「示現流」と「薬丸自顕流」の剣の理合を忠実に具現化しているという点で稀有な
のである。
 最大の特徴は、柄の反りが逆に反っている点である。また柄が長く堅牢で柄頭が大きい。
 鍔は小さく、もとゆいで鞘に結ぶための穴が開けられている。
 独特の形状の返角である。薬丸自顕流使用にははじめから付けていない鞘が多い。


上の示現流仕様の二本は、上級藩士だけあって少し豪華です。


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