備後歴史雑学 

幕末剣心伝9「心形刀流・伊庭道場」

江戸四大道場に数えられた「家の伊庭」の練武館


 幕末江戸の町道場について語られるとき、きまって引かれる言葉がある。
「位は桃井、力は斎藤、技は千葉」と。もう一つ大道場があった。
 心形刀流・伊庭氏の道場は「家の伊庭」とでもいうべき特色を備えていた。

 宗家伊庭氏の系譜をみると、三代・五代・六代・八代・九代、いずれも養子をむかえて剣統を継が
せている。
 門人の中から随一の実力者を厳選して後継者に立てているのである。
 剣の家門は力ある者が継ぐべきだとする、純潔を尊ぶ風がそこにみられるのだ。

 流祖・伊庭是水軒(ぜすいけん)秀明は妻片貞明より本心刀流の印可を受けた後、天和2年
(1682)に心形刀流を創始した。
 是水軒の二男と四男は幕府に出仕し、下って四代目の伊庭八郎秀直も幕臣となっていたが、八
代伊庭八郎秀業は天保の頃、水野忠邦に抜擢され留守与力に昇り、加増されている。
 幕府旗本の門人が多く、権威ある道場として幕末には、大道場の一つに数えられるまでになった
のである。

 幕府の講武所に親族三名を出仕させ、幕府と密な関係を保っていた。
 伊庭道場の「小天狗」といえば伊庭八郎治秀頴(ひでとし)だが、若くして箱館(函館)で戦死した。
 他には三橋虎蔵・湊信八郎(いずれも八代秀業の甥)など、講武所で剣名高かった剣士たちがい
る。


 「伊庭秀業」

 文化11年(1814)、幕臣三橋藤右衛門成方の次男に生まれ、銅四郎といった。心形刀流七代伊
庭軍兵秀淵常成子の養子となり、常同子と号し、八代目を継いだ。
 老中水野越前守忠邦の推挙によって、御留守居与力に取り立てられたが、水野の失脚で職を辞
し野に下った。
 心形刀流伊庭秀業の練武館は、江戸の四大道場と称され、伊庭家中興の名剣士と謳われた。
 安政3年(1856)講武所の設立にあたり、出仕を命ぜられたが辞して受けず、代わりに養子の九
代目秀俊並びに兄の子三橋虎蔵と湊信八郎の三人を推挙出仕させた。
 安政5年8月13日、48歳没。


 「伊庭秀俊」

 文政5年(1822)大番与力新井一郎左衛門の子として生まれ、想太郎といった。堀和(ほが)惣
太郎説もあり。
 弘化2年(1845)7月12日、養父秀業の家督を相続して、心形刀流九代目を襲名。号を常心子と
いった。
 嘉永5年(1852)閏2月12日、富士見御蔵番を拝命し、安政3年3月1日講武所の剣術教授方を
仰せつけられる。
 文久元年(1861)8月5日、講武所剣術師範役並から小十人格となる。
 奥詰、両御番上席、二ノ丸御留守居格布衣の役を経て、慶応2年(1866)11月18日、遊撃隊頭
取とすすみ、高百俵・御役金四百両・御手当十五人扶持を食む。
 維新後、海軍兵学校の剣道教師となり、明治19年(1886)2月13日、46歳没。


 「伊庭八郎」

 天保15年(1844)心形刀流八代秀業の嫡男として生まれ、八郎治といった。名を秀頴(ひでさ
と)といった。
 父秀業が没した時、未だ15歳であったことから養子秀俊が九代目を継ぎ、その秀俊の養子にな
った。
 秀業は亡くなる前に養子の秀俊に、
「おぬしが見て、八郎かならずしも当家の後を継ぐべき者と思わぬときは、門弟のうちより人を選び、
伊庭の後とりにせよ」と、云い残している。
 伊庭家には「後継ぎは、かならずしも実子におよばず」という家法がある。

 後継ぎの実子が剣士として立派であっても、門弟の中にこれをしのぐ人物がいた場合は、これを
養子に迎えようというのだ。また、このことを伊庭の代々は実践してきたようである。
 また家代々の名[軍兵衛]を名乗った。
 剣技のほどは「伊庭の小天狗」という異名をとったことからも、その腕前は偲ばれる。

 奥詰から遊撃隊に転じ、伏見戦争の後、請西藩主林忠崇らと箱根で戦い、左腕を失い「隻腕の美
剣士」と呼ばれる。
 榎本艦隊の三嘉保で脱走するが、暴風雨で遭難。上総・江戸・横浜と潜伏後、英国船で箱館へ渡
航。
 榎本の五稜郭政府の歩兵頭並になったが、明治2年(1869)4月20日、木古内戦で負傷。五稜
郭近くの民家で養生していたが、同5月11日の朝。
 どこからともなく飛んで来た流弾が八郎の喉を貫いた。即死である。
 27年の短い生涯であった。


 伊庭八郎が本気で竹刀を握ったのは16歳のときで、それまでは本の虫であったそうだ。
 以後は書物を捨て、一心に剣術へうち込んでいったという。八郎の剣は天才的なものがあったらし
く、めきめきと技倆がすすんだ。養父が情熱をこめて、八郎を教導したのである。

 将軍慶喜が政権を返上し、生家の水戸へ去ったのちも、旧幕臣の抵抗は止まなかった。伊庭八郎
もその一人である。
 八郎は遊撃隊士であったから、この「遊撃隊」の名をもって同志をつのり、千葉県木更津の近くに
あった請西一万石の藩主林昌之助忠崇をたより、同志と共に江戸を脱出した。
[林昌之助戊辰出陣記]というものが残されているが、その慶応4年4月28日の項には、
「・・・此頃、江戸脱走の遊撃隊三十余名。木更津に着岸し、隊長伊庭八郎、人見勝太郎の両人、今
日、請西の営に来り、これまた徳川恢復与力の儀を乞う」とある。さらに林昌之助は、
「伊庭・人見の両士を見るに、剛柔相兼ね、威徳並行の人物なり。ことに隊下の兵士、よくその令を
用い、いずれも真の忠義を志すの由」と、書いている。


 こうして、遊撃隊と請西藩士を合せ、わずか百名たらずで、海上を相州・真鶴へ上陸した。小田原
藩に援兵を乞おうというのである。

 江戸から山岡鉄太郎が馬で駆けつけて来て、八郎を説得した。が、八郎は「山岡さん。あなたは
古いとか新しいとかいうが・・・去年旦那(慶喜公)が、わずか一日にして、おんみずから天下の権を
朝廷に返上したてまつったことを何とごらんだ?・・・一滴の血も流さず、三百年におよんだ天下の
権を、さっさと手放したのだ。いまだかつてわが国の歴史になかったものだ。こんな新しいことはな
いと思いますがね、どうです山岡さん・・・ここで、その官軍とやらが新しい奴なら、よくやってくれた、
われわれも共に力を合せ、国事にはたらこう・・・と、こういって来なくてはならねえはずだ」
 それなのに、薩長両藩を主軸とする官軍は、むりやり徳川家滅亡を企て、戦争へ引きずり込んでし
まった。八郎たちの抗戦は、
「やむにやまれず、微衷をつくすため」に行うのである。

 これより後に・・・・・。
 箱根三枚橋の戦闘で、伊庭八郎は左腕を肘の下から斬り落とされるという重傷を負ってしまう。
 隊士と共に、熱海沖へ廻って来てくれた旧幕府海軍の軍艦[蟠竜丸]へ収容された八郎は、船医の
永島竜斎の手当てを受けたが、切断された肘のところから骨の先が突き出ているので、「この、骨
が・・・」と、竜斎が口ごもるや、おうむ返しに八郎が、
「先生。この骨が邪魔ですかえ」いうや、右手に抜きはなった脇差で、みずから、突き出した骨を傷
口すれすれに切って落としたという。
 これを見た外科医の永島竜斎が、おもわず悲鳴を発したそうだ。

 さらに八郎は、榎本武揚率いる海軍と共に北海道へ渡り、最後の一戦を試みることになる。
 北海道での八郎の活躍ぶりも見事なものであったと伝わる。


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