備後歴史雑学 

幕末剣心伝8「鏡心明智流・桃井春蔵A」


 武市半平太の指示に従って岡田以蔵が京都で天誅の刃を振るっていたのは文久年間(1861〜
64)のことである。
 そのころ彼は、龍馬に頼まれて、開国論者である勝海舟の護衛役をつとめたことがある。開国論
者はしばしば、尊王攘夷論者の天誅の対象だったからである、

 ある夜、京都木屋町通りで、勝は三人の刺客に襲われた。
 ただちに、すらすらと進み出た以蔵は、瞬時に二人を斬り捨てた。二人は即死。一人は逃げた。
 海舟は、「良士はむやみに人を斬るものではない」と諭した。
 すると以蔵は、「でも先生、もし、僕が斬っていなかったら、今ごろ先生の首は、胴から離れて高瀬
川に沈んでいたかも知れませんよ」と答えた。
 これには、海舟も閉口した、というエピソードが残っている。
 半平太と以蔵は藩によって処刑され壮絶な死をむかえたが、剣の技量は相当のものであった。
 春蔵の教え方も優れていたのである。


 桃井道場の四天王といわれた弟子は、坂部大作・久保田晋蔵・兼松直兼・上田馬之輔である。
 肥後熊本新田(高瀬)藩士・馬之輔に有名な挿話が伝えられている。
 回国修行中、日向で天自然流の剣士吉田某と立ち合うことになった。馬之輔は、面胴籠手をつけ
ていたが、相手は素面素籠手だった。
「どうぞ、防具をつけてくだされい」と言ったが、吉田某は承知しない。
 そこで上田は、立ち木に防具の胴を巻いた。
 軽く突くと胴が割れた。さらに二度目に突くと、胴に穴が開いた。
 試合の結果は、むろん馬之輔の勝だった。恐れ入った吉田は、ただちに弟子になったという。

 馬之輔は人を斬ったこともある。これには諸説あるという。
 慶応3年、銀座尾張町の料亭松田の二階の酒席で、些細なことで隣席の武士と口論になった。
「いや、どうも失礼した」と、店を出るべく階段を降りていると、背後からいきなり斬り付けられた。
 上田は振り向きざまに相手の横面を斬った。続いて二人目の侍の胴を斬り、三人目の腹から背中
まで貫いていた。
 三人とも剣術・槍では名誉の者だったといわれている。彼は鏡心明智流の特技ともいわれる面と
突きの達者だった。
 正当防衛で馬之輔は無罪。明治になってから彼は、警視庁の剣術師範になっている。
 春蔵の弟子には、維新後、警察の剣道師範を務めた者が多かった。


 文久2年(1862)、桃井春蔵は幕府に召し出され、いきなり諸組与力格として切米二百俵を与え
られ、翌3年正月、講武所剣術世話心得、続いて剣術教授方出役を命じられた。
 慶応元年(1865)5月、長州再征のため将軍家茂が大坂城に本営を移したとき、その供をした。
 その月、大坂玉造にも講武所が開設され、春蔵はそこでも教授にあたった。

 この年の暮れころと伝えられている挿話がある。
 五千石の旗本・巨勢鐐之助の屋敷で稽古納めがあった。馬之輔ら七人の高弟を連れて出席した
帰り道のことである。
 市ヶ谷田町で春蔵らは、庄内藩の指揮下にある新徴組二十数名と出あった。新徴組は江戸市中
の取締りに当たっている。新選組に似ている彼らは、三人扶持二十五両を与えられている、いわば
幕府の属託である。
 春蔵らは道の片側へ避けた。ところが隊士の一人が、
「市中見廻りである。寄れ寄れ」と、さらに怒鳴った。
「なにを!理不尽な!」あわや抜きあう形勢となった。
 春蔵は騒ぐ弟子を制し、
「私は、士学館桃井春蔵である。新徴組とみて道を譲った。にもかかわらず、責め立てるのは許せ
ぬ。これ以上の理不尽な振舞いに出られるならば、私がお相手する」稟然と答えた。
「申し訳ござらぬ」と詫びて、相手は引き下がった。
 春蔵の名を知らぬ者はいなかったのであった。

 翌慶応2年5月には、富士見御宝蔵番格にすすみ、剣術師範役並に昇進した。
 同年11月、幕府の軍事制度改革により、講武所が陸軍所と改められると、新設された遊撃隊(抜
刀隊)に入り、遊撃隊頭取並の旗本となった。

 幕末の最終段階である慶応3年にも、遊撃隊を率い将軍慶喜を護衛して入洛している。
 春蔵は、慶応4年(明治元年1868)正月3日に始まった、鳥羽・伏見の戦いには参加しなかった
ようである。
 彼はこの戦争には反対であった。また、彰義隊への参加を求められたが、彼は応じなかった。
 おそらく、勝敗の帰趨が見えていたのであろう。強硬派は、
「忠義の心を失った」と罵り、彼を暗殺する動きを見せた。
 円満な人柄で、争いを好まなかった春蔵は、闘いを避けて南河内郡石川の幸雲院に身を隠したそ
うである。


 幕府崩壊後は、大坂天満で道場を開いたが、これまで長年詳細は不明とされてきた。
 ところが、明治二年版の[大阪府職員録]に、
(府兵局・監軍兼剣術師範・桃井春蔵)という記録が発見されたのである。
 この府兵局とは、大坂にいた薩摩軍が慶喜討伐のために江戸に向かったため、市中が無政府状
態となって混乱をきわめたので、大阪府が6月に、旧大坂城付きの与力・同心で組織した警察の前
身で、8月に浪華(花)隊と改名された。
 桃井春蔵はこの浪花隊の指揮をとったのである。浪花隊は、真っ赤な隊旗、ラシャの制服、マンテ
ルズボンに身を固め、市中の警備に当たった。
 剣術の指南を望む者が多く、東区北桃谷に士学館を設立、天神橋筋三丁目などにも支道場を開く
ほど繁盛した。

 明治3年8月、府兵隊が解散した後は、府の権大属として活躍した。
 同8年からは、河内の誉田八幡宮の祠官、応神天皇陵の陵掌を務めた。
 誉田八幡宮にも道場を構え、望む者には指南した。


 弟子のなかには明治新政府に仕える者も多く、官に仕えるようにすすめたが、「誉田隠士」または
「静修山人」と号し、官途につかず悠々自適の暮らしを楽しんだ。
 ある日、大坂に出向いて、誉田八幡宮まで人力車で帰る途中、大和川の堤で三人組の強盗に襲
われたことがあった。
 が、彼はたちまち、その三人を大和川に投げ込んだ。
「神主さんは、柔術もたっしゃや」と評判になったという。
 生涯に人を斬ったことはなかったが、数多くの優れた門弟を育てた桃井春蔵は、明治18年(188
5)12月、61歳で没した。
 当時大流行したコレラだったと伝えられている。朝日新聞社は、
「桃井直正剣術を以て名高かりし同氏は人の知る如く予て当府准判任御用掛となり警察本署勤務を
なし居られしが此程偶然病臥し去八日遂に死去せられたり」と報じた。

 翌19年、警視庁流剣道が創始された。そのとき、木太刀表形十本のうち、春蔵の「詰(双晴
眼)」、居合形のうち、正面より右の敵を相手にしたときの「右の敵」が採用された。
 かくて、桃井春蔵の鏡心明智流は、現代まで伝えられたのである。


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