備後歴史雑学 

毛利元就45「二つの大河・吉川と小早川I」

両川を失った毛利氏の転落


 毛利元就・隆元・吉川元春亡きあと、小早川隆景は若い領主輝元を助け、また豊臣家の宿将とし
ても重きをなした。秀吉の信任は厚く、隆景もそれによくこたえた。
 文禄の役でも勇名を馳せたが、そうした秀吉への忠節も毛利氏の安泰を願ってであったことが、彼
の行動の端々に現れている。

 秀吉は九州出陣の功績に対して、隆景に筑前・筑後・肥前一部を与えようとしたが、隆景はこれを
強く辞退している。
 そこに移封されるのは毛利を留守にすることになるからであり、若い輝元から目をはなせなかった
のである。しかし結局知行を受けない訳にはいかなかった。
 もともと隆景は秀吉に対し、内心危惧するところがあったのだが、それが表面に現れたのは、秀
吉の猶子秀俊の養子問題である。

 秀吉は輝元に男子がないのを見て、秀俊を毛利氏の養子に迎えるように希望した。黒田孝高の入
れ知恵ともいわれている。
 隆景は、そこで元就の庶子穂田元清の子秀元を輝元の養子にすることにし、秀俊の受け入れを拒
否させた。
 そのために輝元の立場が悪化するのを心配して、秀俊を小早川家の養子にしようと秀吉に申し出
たのである。
 秀吉は喜んでそれを承諾し、この問題は円満に落着した。


 隆景は小早川を犠牲にして毛利の正統を守ろうとしたのだ。秀俊はのちの小早川秀秋で、秀吉の
正室高台院の兄木下家定の子である。
 隆景は、九州の知行を秀秋に譲り、自分は小早川氏時代の家臣だけを連れて本領備後三原に隠
退した。文禄4年(1595)のことであった。

 その三原で隆景が死んだのは、わずか二年後の慶長2年である。
 亨年65歳。脳卒中という。
 その翌年、秀吉が死んで時代は大きく揺れ動いた。

 毛利氏にとってもこれから正念場というとき、頼るべき「両川」がまったく姿を消したところで、慶長
5年(1600)の天下を二分した合戦を迎えるのである。


 高齢に達し、思いをのこして逝った父元就の遺訓に従って毛利氏を守り盛りたてることだけに隆景
は生きたといえるが、それは元春としても同様である。
 二人は幼少の頃から元就の政略の具として歩んだ。それは戦国の世に野心を燃やす家に生をう
けた者の宿命でもあった。

 秀吉を嫌った元春とは逆に、豊臣に接近した隆景は天下の趨勢を察し、その流れに乗ることが毛
利氏の安泰を得る唯一の道だと判断したに違いない。
 当主となった輝元を大事に押し上げる隆景の苦労も並大抵のことではなかった。少年時代の輝元
は、隆景から厳しく教育され時には体罰を加えられることもあったという。
 しかし、元就が隆景・元春に助けられ、一代で築きあげた覇権の座は、輝元の代でご破算となる
のである。


 隆景にもし失策があったとすれば、両川を失ったあとの輝元に仕うべき有能な腹心の養成を怠っ
たということであろう。
 毛利氏には安国寺恵瓊なる怪僧がつきまとった。信長の死を予言したことで知られる人物だが、
毛利氏は外交僧としても彼を利用した。

 関ヶ原合戦の直前における恵瓊の言動に輝元が惑わされたことに、悲運の一因がある。
 隆景の存命中は、恵瓊もわがもの顔には振舞えなかった。隆景の死は、毛利の家運を支えてきた
両川の最後に残った一本の柱が折れるときだったのだ。


 西軍の総大将にまつりあげられた輝元を見て、吉川元春の三男広家は、ひそかに徳川方と不戦
の密約を交わした。
 広家は両川の家柄に生まれた者の使命を感じたのだろう。だが、戦いが終わって中国八カ国保全
の約束は、家康に反古にされてしまうのである。
 努力が裏目に出たため、広家の独断に対する家中の非難は集中したが、防長二国が残ったのは
やはり彼のおかげというべきであろう。

 家康が輝元父子の処刑まで考えていたのを、必死に奔走して助命したのも広家である。
 このとき小早川氏は、むろん何の役にも立たなかった。

 隆景の陰にかくれて、いわば不遇の生涯を閉じた元春の子が一人で、主家を救う吉川氏の役割を
かろうじて果たしたのだ。
 土壇場で東軍に寝返り、西軍敗走の契機をつくったのが、隆景の養子小早川秀秋である。

 毛利氏の運命を決した関ヶ原合戦に、両川の名残りが、そのようなかたちで関わっていたというの
も皮肉な終幕であったといえる。


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