備後歴史雑学 

毛利元就44「二つの大河・吉川と小早川H」

両川関係に亀裂が


  毛利氏と秀吉との関係は、天正10年以後親密となり、小早川隆景は特に秀吉に見込まれて親
交をむすんだ。
 そうした隆景の在り方とは反対に、吉川元春は秀吉の風下にいることを拒み、毛利氏が秀吉と和
をむすんだ天正10年には、家督を子の元長に譲って隠居してしまった。
 武辺の性格にもよるのだろうが、ひとり突出する隆景に暗い視線をそそぎながら自ら身を引いたと
もいえる。

  隆景は早くから父元就の腹心として対外接触の機会も多く、開明的な性格で、兄元春とは違った
道を歩みはじめた。秀吉との講和を勧めたのも隆景である。
 彼は秀吉の四国攻略などにも輝元を立て積極的に従軍した。吉川氏も参戦したが、ほとんどは元
長が出ており、隠居ということで元春は動かなかった。

 天正14年(1586)、秀吉の九州征伐が始まるが、秀吉は前の四国征伐に参加しなかった元春
のことを気にして、今度こそ従軍せよと厳しくいいはじめた。
 隠居したのは病気のためだからと元春は立ち上がろうとしない。事実、元春は腫瘍を患っていた
のだが、その心情に薄々感づいていた秀吉は、不快の念を押さえきれなかったのだろう。

 隆景と輝元は、極力元春を説得した。ついに元春は折れ、しぶしぶ九州征伐の陣営に入るのだ
が、その年11月15日、病が再発して小倉の陣中に没した。亨年57歳であった。


 元春は武将としてのすぐれた資質を父から享けており、多くの逸話を遺している。
 養家の「鬼吉川」の伝統にも恥じない勇猛な働きをする一方では、読書家であり、富田城の包囲戦
が長期にわたるころ、洗骸城の陣中で「太平記」四十巻を流麗な筆で写しおわったりもした。
 勤直な性格で、自分の子供たちに対するしつけも厳しく、着衣・飲食・礼儀作法などをくわしく訓解
した書面も遺している。

 元春にとって最後の戦場となった九州では、撤退の途中、猛吹雪の中で凍死寸前の商人を発見し
て救ってやるという仁愛に厚い武将の一面も見せた。
 また陣中で黒田孝高に招かれ、出された鮭が持病に悪いことを知りながら、礼を欠くまいとしてそ
れを食べ、腫瘍を再発したのが命取りになったと伝えられる。

 元春の性格しだいでは、両川体制がくずれて内紛を生じていたかも知れないが、聡明な彼は毛利
氏のために自分を抑え、弟の陰にかくれながらも父の教訓に従って、両川の本分を守り抜いたとい
うべきだろう。


 そうした元春の立場をよく心得ていたのは、吉川家の家臣たちで、同時に隆景に対しひそかな怨
嗟の視線を向けていたに違いない。

[陰徳太平記]によると、元春が小倉の陣中で死んだ直後、隆景は吉川勢に進撃を命じた。吉川元
長が父親への追慕にひたっている時、隆景が吉川氏の兵を最も困難な三の獄(上に山辺あり)の攻
撃にあたらせたのは、元長を死地に陥れるものとして、吉川氏主従が憤慨したことを載せている。
 こうゆうところにも吉川・小早川をめぐる深刻な空気が漂っていたことをにおわせるのである。
 しかし、元春の死を悲しみ奮起する吉川勢の勇猛心に期待したのは、隆景の武将らしい資質であ
るとも思える。

 かつて元春は父元就の死を知ると、弔合戦と称して、尼子の残党がたて籠る出雲の末石城に攻
撃をかけ、山中鹿介幸盛を生け捕りにしたことがある。
 隆景の進撃命令を無情だといって主従で怨むなどは、戦国を生きる気概が失われた時代のうつろ
いを感じさせるものだといえる。

 元春は隠居した時点で、秀吉が天下人となった新時代の到来をにらみ、その中に組み込まれてい
く毛利氏の未来を占って、もはや両川の使命は終わったと思ったのではないだろうか。
 ちなみに勇将吉川元春生涯の戦歴は、76戦64勝12引分けである。


トップへ戻る     戻る     次へ



inserted by FC2 system