備後歴史雑学
天正9年(1581)10月鳥取城が陥落し、毛利氏の対信長防衛ラインは、伯耆で南条元続が織田
陣営に属して、その居城羽衣石城までは織田方の勢力下に入ってしまった。
毛利氏の防衛ラインは山陰道で伯耆半国に、山陽道では備中まで後退せざるを得なかった。
だが、圧倒的に優勢な水軍力のおかげで、淡路島だけは依然として毛利氏の支配下におかれて
いた。
信長にとって淡路島が毛利軍の手中にあることは、明石海峡を隔てて織田軍の備中進撃路がた
えず毛利軍の脅威にさらされている事になり、是非ともその障害は取り除いておかなければならな かった。
天正8年に石山本願寺が信長に降伏すると、淡路島の岩屋城を拠点としていた毛利水軍は安芸
へ引き揚げてしまっていた。
秀吉はその毛利水軍の不在に乗じたのである。
天正9年11月15日、秀吉は摂津の池田元助とともに海を渡って淡路に侵入し、この岩屋城のみ
ならず洲本・由良の両城を落として両三日の間に淡路全島を占領した。
こうして淡路島を手中におさめた信長は、いよいよ秀吉に命じて中国遠征を敢行させたのである。
◎備中高松城攻防
天正10年3月15日、秀吉軍は姫路城を進発した。
以降は「備中高松城」を参照してください。 こちら
6月2日払暁に起こった本能寺の異変によって、形勢不利と見た秀吉が、その領土割譲問題を
「現在持ち懸りの領地をそのまま」と譲歩したので、毛利氏の最後の防衛ラインは、山陽筋において 川辺川(高梁川)以西の備中半国、山陰においては伯耆の東三郡を失っただけであった。
後年、小早川隆景がしばしば述懐したように、
「誓約を守ったからこそ、毛利家は豊臣政権下に生き残り、安泰でいられた」のは事実である。
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