備後歴史雑学 

毛利元就42「二つの大河・吉川と小早川F」

秀吉との決戦始まる

 「鳥取城渇殺し」

 天正8年(1580)正月17日、播磨三木城の城主別所長治が自害して、「三木城の戦い」は終わ
りをつげた。

 秀吉による因幡経略は、天正8年6月の鹿野城攻撃から始まり、そのあと鳥取城を攻めて、鳥取
城主山名豊国を簡単に降伏させた。
 しかし、毛利氏は山名氏の家臣森下・中村・田公・佐々木の諸氏に働きかけて豊国に背かせ、毛
利家から吉川元春の家臣市川春俊と朝枝久種を鳥取城へ軍監として入れた。
 秀吉はこれに対して冬季の戦闘を避け、その間に因幡六郡の新穀をことごとく買い占めて兵糧攻
めの態勢を整えた。

 そして年が明けた天正9年の6月、兵三万余という秀吉の大軍によって鳥取城は包囲された。
 この時、毛利氏は石見吉川氏の嫡流である石見・福光城主吉川経家を鳥取城へ派遣し、織田軍
に対する徹底抗戦の構えを取らせた。


 帝釈山に本陣を構えた秀吉は力攻めにしようとはせず、城兵二千と郷民たちを加えた総勢四千人
を兵糧攻めにするために、付け城を築き、鳥取城と繋ぎの城を遮断した。
 城麓の川岸には櫓を立て並べ、番士を配し、陣取りの後ろに築地を高く築いて、毛利氏の後詰に
備えるなど、その包囲は水も漏らさぬ有様であった。
 城内の兵糧は、秀吉の新穀買い占め作戦のために最初から払底していたので、たちまち城中は
飢餓状態に陥った。
 そして秀吉は、陣中に町屋を建てさせて市を開かせたり、歌舞の者を呼び寄せて兵を楽しませたり
した。
 城兵の士気はこの賑わいを垣間見て衰える一方であった。

 まさに、こちらは天国、あちらは地獄である。兵糧を城に入れようとして、毛利の水軍は泊港のあ
たりまで達することは出来たが、鳥取城下を流れる千代川河口が厳重に封鎖されていたため、目的
を果たすことはできなかった。

 前年の1月に三木城を落とした時も、兵糧攻めであった。のちに秀吉は、
「三木の干殺し、鳥取の渇殺し、太刀も刀もいらず」と豪語したというが、ことに鳥取城のそれは、酸
鼻の極みであったという。


 二か月ほど過ぎると、兵糧は尽きて毎日餓死する者があとを断たなくなった。初めのうちは五日に
一度、あるいは三日に一度、鉦を合図として雑兵たちが城の周囲に高く設けられている柵際まで出
て、木の葉や草を争い取ってうち食った。

 とりわけ籠城する時に刈り取った稲かぶは上々の食物であったが、まもなくそれも尽きると、牛馬
を殺して食べるようになった。これも長くは続かず、
「餓鬼の如く痩衰へたる男女、柵際へ寄り、悶焦れ、引き出だし扶け候へと叫び、叫喚の悲しみ、哀
れなる有様、目もあてらず」[信長公記]。
 柵をよじのぼった者は鉄砲に撃たれ、まだ息のあるうちに、手に手に刃物を持った男女に襲われ、
ばらばらにされた。
 中にも頭部が「味はひありと相見へて」血のしたたる首を、皆で争奪する様は、まさに地獄絵を見
るようであった。


 秀吉軍の鉄壁の包囲に、毛利の援軍至らず。このような城中の様子を、もはや見ていることのでき
なくなった吉川経家は、山名家の重臣森下出羽入道通興・中村対馬守春続を加えた三人の切腹を
条件に、城兵の命を助けてくれるように、使者を立てて秀吉に申し入れた。
 秀吉は信長の許しを得て、これをのんだ。

 森下・中村は自刃し、繋ぎの城、丸山城を守っていた将たちも自刃し、最後に経家が切腹した。
 経家が子供たちに残した遺書にいわく、
「とっとりの事、夜昼二百日こらへ候。兵糧つきはて候まま、我ら一人御用にたち、おのおのたすけ
申、一門の名をあげ候」伝々・・・・・。


 吉川元春が兵六千を率いて、鳥取城を救援するために、鳥取県東伯郡羽合町の東郷湖の北岸に
ある、馬ノ山という丘陵に着陣したのが、天正9年10月25日である。この日に鳥取城は陥落した。
 毛利輝元は、10月上旬に郡山城を発って出雲の富田城に着いた。小早川隆景も出陣したが、一
足遅きに失した。

 元春は馬ノ山に着陣し、翌日因幡に進軍しようとしていた時に、鳥取・丸山の両城が開城したとい
う報せに接したのである。
 元春は秀吉との決戦を覚悟したが、すでに秀吉軍は羽衣石城の南条元続を救援するために伯耆
に入ったという急報があったので、この地で応戦することにした。
 西進した秀吉軍は東郷湖畔の高山(御冠山)に陣をしいて、はるかに馬ノ山の元春の陣営を俯瞰
した。


 元春は、わずかに往来ができる橋津川の橋の板を撤去した。北は日本海に面し、文字通り背水の
陣を敷いたのである。
「寒中に咲く梅花」にたとえられた元春は、大胆にして細心である。夜は高鼾で眠っても、陣取りの
前面に堀を掘り、土塁を築いて柵を結いめぐらして、さすがに一分の隙もなく防備をととのえた。

 秀吉は元春軍のこの必死の構えを見て、ついに戦いを避けるに至った。彼は羽衣石・岩倉の両城
に兵糧弾薬を入れ、城を出ないように命じると、11月8日姫路に帰還した。

 やがて元春も安芸にひきあげた。
「吉川が橋を引きたる陣構え」
のちに、碁・将棋の世界における「背水の陣」に相当する一手をこのように言うことが流行したとい
う。

 秀吉の次なる攻略目標は、毛利氏の真正面の備中国であった。


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