備後歴史雑学 

毛利元就41「二つの大河・吉川と小早川E」

「毛利氏の摂津・播磨防衛ライン」


 天正6年(1578)7月、毛利軍が織田軍を上月城で破ったとの情報が播磨国人衆の間に伝わる
と、宍粟郡長水山城主の宇野政頼が一族とともに毛利氏に服属した。
 また、この度の播磨出陣について、麾下の将兵一万四千を参陣させたものの、自らは出陣せず曖
昧な姿勢を取っていた宇喜多直家が、再び毛利氏へ従属の態度を明確にした。
 しかもこれに加えて、摂津伊丹の有岡城主荒木村重が毛利氏に通じた。

 村重が信長に服属したのは、天正元年に信長が足利義昭を京都から追放してからだが、信長より
摂津一国を与えられて高槻・茨木・花隈・能勢・多田・三田・大和田・尼ケ崎の各城を属城とした。
 村重は秀吉とともに上月城の救援に向かったが、救援の見込みが立たぬために退陣した。その
後、摂津の有岡城に帰って形勢を傍観していたが、播州陣での戦局の推移とも思いあわせて、義
昭及び毛利輝元の勧誘により、天正6年10月、信長に背いて毛利氏に服属するに至ったのであ
る。
 しかも、有岡城から大坂石山本願寺までは東南約14キロである。これによって毛利氏は摂津・播
磨にわたって大坂石山本願寺・摂津有岡城・播磨三木城という強力な防衛ラインを設定したことに
なる。

 この東の防衛ラインと西の佐用郡上月城、宍粟郡長水山城と但馬に至る防衛ラインをもってすれ
ば、播磨にあって三木城を攻撃している織田軍は、腹背に敵を受けて苦境に立つことになる。
 このような有利な政治情勢の中で、毛利氏が村重を支援するために東上して、信長と一戦を交え
ることを決意したのである。


 信長は事態を重視し、正親町天皇の斡旋を奉請して本願寺と講和を結ぶことを決意した。
 織田軍がこれ以上本願寺を包囲攻撃すると、摂津の村重により腹背に敵を受けることになるから
である。

 天正6年11月4日、信長は正親町天皇に本願寺との講和斡旋を奉請。天皇は即日勅使を大坂に
下して顕如を説かせた。
 しかし、顕如は形勢がようやく本願寺の有利に展開しつつあることを見てとり、このような身勝手な
信長の講和提議には容易に応じようとしなかった。顕如は熟慮の結果、
「信長が毛利氏と講和するならともかく、そうでなければ毛利氏とのこれまでの友誼の上からも講和
に応じることはできない」と拒否した。
 信長も背に腹はかえられぬからこれに同意し、毛利氏とも和睦することを告げた。


 信長がこのように譲歩を余儀なくされたのは、当時の情勢がますます信長に不利に展開しつつあ
ったからである。
 11月6日、毛利水軍が本願寺救援のため木津の海岸に着陣し、本願寺と村重の有岡城が連携
プレーを取るようになった。
 また播磨において、飾磨郡御着城主小寺政職が毛利氏へ服属したため、置塩城主赤松則房や竜
野城主赤松広秀も毛利氏へ帰属する意向をあきらかにした。

 そのほか毛利氏は大和・河内・和泉の豪族に対しても、盛んに反信長の外交工作を進めていたか
らである。
 だが、毛利氏にとって有利な政治情勢も、ここまでが限度であった。

 11月に入ると局面が大きく変化した。荒木村重の属城であった摂津高槻城主の高山重友が、信
長の使者である宣教師オルガンチノの説得により、信長に降伏したため、茨木城主の中川清秀も戦
闘意欲をなくしてしまった。
 すると、たちまち信長の態度が一変した。信長はこれまでの本願寺や毛利氏との講和の折衝を中
止させると一路、荒木村重撃滅に邁進しはじめたのである。


 足利義昭が毛利氏のために画策した対信長包囲陣の諸将の中で、最も力を持っていた大名は越
後の上杉輝虎(謙信)であった。
 ところがこの輝虎は、天正6年3月13日に越後春日山城で卒去したのである。
 輝虎が毛利軍の播磨出陣に呼応した南下戦略を実行するため準備を整え、まさに出発しようとし
た直前であっただけに、その卒去は毛利氏にとって大打撃であった。

 毛利輝元は輝虎の死後、武田勝頼との盟約を重んじ、東西呼応して信長を挟撃する作戦行動を
起こした。
 年が明けた天正7年1月25日、吉川元春は武田勝頼に一書を送り、毛利氏が村重の服属以来毛
利水軍をもって摂津・和泉両国に派兵しつつあることを告げて、2月5日を期して東上軍を起こすと伝
えた。
 この書状が勝頼の元に届き、勝頼も南下行動を起こしたが、信長と連携した徳川家康のために阻
まれて実現に至らなかった。

 さらに毛利氏にとって大きな痛手は、毛利氏麾下諸氏の背反であった。
 毛利氏が東国諸大名と結んで対信長包囲網を策定した時、信長もこれに対抗するため、毛利氏と
対立関係にあった豊後の大友義鎮と提携して毛利氏の動きを牽制した。
 天正7年正月中旬に起こった杉重良の背反がそれであるが、結局信長と大友氏の連携プレーは
失敗に終わったけれども、山陰・山陽において信長が自ら働きかけた反毛利背反作戦は効を奏し
た。
 これは伯耆の南条元続と備前の宇喜多直家を毛利氏から離反させたことである。


 南条元続は伯耆羽衣石の城主南条宗勝の嫡子で、天正3年に父が病死したあと家督を継ぎ、毛
利氏に忠節を尽していたが、翌4年に信長に内通した。信長からの強力な勧誘があったからであ
る。

 備前の宇喜多氏が毛利氏に敵対して信長に通じたことは、毛利氏にとって何よりも大きな損失で
あった。
 これまで毛利氏が東上作戦を容易に展開できたのは、この宇喜多氏が味方の陣営にあったから
である。
 天正7年9月、宇喜多直家は織田信長に降り、毛利氏に対して敵対行動をとった。
 はじめ信長も、この宇喜多氏の降伏申し出には疑念をもっていたが、直家が美作・備中の両方面
で毛利氏に反抗してこれを実証したので、10月下旬にいたって正式に帰属を容認した。

 こうして、天正4年に策定された毛利氏の対信長防衛ラインは、天正7年10月に至って、崩壊して
しまったのである。


 宇喜多直家の背反によって、荒木村重の摂津有岡城と別所長治の播磨三木城は、毛利軍による
救援の望みを断たれ、完全に孤立してしまった。
 毛利軍は依然として優勢である瀬戸内海の制海権を利用して、海上からこれを支援したものの、
陸路を遮断されて、織田軍の重囲下にあるこれらの諸城へ兵糧を入れることができなくなった。

 まず7年9月に荒木村重の有岡城が陥落し、ついで年が明けた天正8年正月17日に三木城が落
ちた。
 最後まで抵抗していた大坂石山本願寺も、天正8年8月に本願寺光佐(顕如)が退去して本願寺
は炎上した。
 かくして、前公方足利義昭が策定し、毛利輝元が実践した対信長防衛ラインは完全に崩壊した。

 このあと、秀吉による播磨経略は完了し、毛利氏に味方していた小寺政職の御着城や宇野政頼
の長水山城も羽柴軍によって接収された。
 山陽道における毛利氏の対信長防衛ラインは、摂津・播磨両国から一挙に備前・備中国境まで後
退せざるを得なくなった。
 つぎに信長は、山陰方面において攻勢に転じ、但馬を完全に掌握したあと、因幡経略を秀吉に命
じた。


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