備後歴史雑学 

毛利元就40「二つの大河・吉川と小早川D」

「羽柴秀吉と尼子残党」


 毛利の三道併進策は、結果として改められた。
 安国寺恵瓊が「さりとてはの者」と評した、羽柴秀吉が天正5年(1577)10月、中国地方先鋒軍
の主将として播磨に侵入したのである。
 毛利軍としては、秀吉の大軍に対抗するのに、総力を結集しなければならなかった。その戦域は
播磨・美作・備中・但馬・因幡・伯耆におよんだのである。
 その秀吉が、毛利との対決に使嗾するのに都合のよい男がいた。生涯を毛利との戦いにささげて
きた男、山中鹿介だ。


 鹿介は先に、吉川元春に一命を助けられてから伯耆の尾高城内に監禁されたが、一日、痢病に
罹ったと称して厠にかようこと数十回(陰徳太平記には百七八回)。警戒の番士がようやく油断した
隙に、厠の樋口から脱走してのけた。
 鹿介は大山麓から美作を経て京に入った。一方新山城から脱出した尼子勝久も、隠岐へと渡り逃
亡を続けて京に入り、鹿介らと共に再挙の機の到来するのを待った。
 彼らは天正2年、但馬から因幡に入り、尼子残党を糾合し鳥取城の山名豊国を利用して、尼子氏
の勢力の復興を企てたが、毛利両川の来襲と豊国の毛利への内応などにより、挫折して再び京に
潜伏した。
 そして明智光秀を通じて信長に接近し、信長はこれを中国征討の主将秀吉に附属させたのであ
る。

 播磨に出征した秀吉は上月城を攻め落とすと、ここに尼子勝久と山中鹿介を込め置いた。それが
天正5年11月のことである。
 上月城は毛利方の宇喜多直家と争奪戦を繰り返し、一度尼子方は退却したが、翌天正6年正月、
秀吉軍により再び取り戻して尼子勝久を城将に入れた。尼子勢の兵力は二千三百であった。


 天正6年4月、秀吉との意見の衝突から信長に背いた(内実はすでに毛利に通じていた)別所長
治を、秀吉軍が別所氏の居城三木城を包囲した時、毛利軍は総力をあげて上月城に肉薄しこれを
包囲した。
 毛利軍の兵力は五万以上の大軍である。

 秀吉は三木城攻撃を中止して、上月城の急を援けるため、荒木村重と共に兵二万を率いて城東
の高倉山に陣をしいたが、毛利の包囲線は厳重を極め手も足も出ない。


◎上月城の戦い

 毛利軍五万余は4月18日、上月城攻略の配置についた。
 上月城を守るのは尼子勝久を戴く山中鹿介らの尼子遺臣二千三百(三千説あり)。
 毛利軍の上月城包囲網は堅固を極めていた。昼夜を分かたぬ厳戒体制で、蟻のはい出る隙間も
ない。
 さらに連日連夜、法螺貝・鉦・太鼓を鳴らし、陣中の各所で大篝火を燃やしての示威行動。戦意を
そごうとの神経戦である。

 秀吉軍は自陣を守るのが精一杯で、城の内外呼応して軍事行動を起こせるような状況ではない。
わずかに小競り合いが散発する程度で、時はいたずらに過ぎていく。
 毛利軍も力攻めをするつもりはない。犠牲は最小限にとどめ、尼子勢の自滅を待つ作戦だ。
 包囲と同時に水源を押さえ、糧道も完全に遮断してある。秀吉軍を牽制しつつ、降伏開城を待て
ばよいのである。
 糧食の欠乏と毛利軍の無気味な威圧に、城兵の士気は日増しに低下、山中鹿介らの叱咤激励に
もかかわらず逃亡兵が相次ぎ出した。


 進退窮まった秀吉が6月半ば、密かに馬を馳せて入洛。信長直々の出馬を請う一幕もあった。
が、信長が下した断は非情なものであった。
「上月城は見捨てよ!」三木城の別所長治を下さなければ、秀吉自身の退路を失う。
 帰陣した秀吉は6月26日、上月城を捨て別所攻略に向かった。それも前日25日、撤退を察知し
た毛利軍に、熊見川の戦闘で痛撃を浴び、一時は総崩れの危機に瀕するという、散々の退却であ
った。

 兵を撤退するに際して、籠城している尼子勝久・山中鹿介を見殺しにするにしのびない秀吉は、上
月城に人を送り織田軍に合流するよう勧めたけれども、彼らは従わなかったという。
 秀吉が救援を断念した今、上月城は敵中に放棄された孤城。
 降伏か徹底抗戦による死か・・・・・。尼子勢に残された道は二つに一つ。

 7月1日に至り、尼子主従は全面降伏を決定する。尼子勝久・兄弟(氏名不詳)、嫡男豊若丸らの
自刃と引き換えに、城兵を助命するという条件で講和。
 かくて勝久は自刃し、鹿介はまたも命を助けられ周防に領地を与えられることになったが、輝元の
密命によって、赴く途中の備中松山の高梁川の渡しで謀殺されてしまった。
 こうして勝久の死、そして三度にわたり毛利一族に楯突いた鹿介の死により、宿敵尼子氏の息の
根が止められたのであった。


 この上月城攻防戦こそ、毛利対織田両軍による本格的対決の始まりとなったのである。
「毛利勢侮り難し」と、秀吉は兵力増強を図り、毛利勢も一旦兵を退いた。
 そして、両軍とも来るべき決戦に向けて体制構築を急ぐことになる。


陥落寸前の上月城。後ろの太平山の旧城は吉川元春に占領された。


 織田氏との対決を決めてからこの年まで、戦局は毛利の優勢のうちに進んできたと言える。
 同年10月には、摂津に勢力を持つ織田方の武将、荒木村重が毛利方に内応している。
 しかし年があらたまると、毛利氏に不利な局面が徐々に展開することになる。毛利氏はその中で、
秀吉という武将のおそろしさを真に思い知らされねばならなかった。


◎尼子十勇士の謎

 永禄9年(1566)11月の尼子滅亡以来、主家再興のために獅子奮迅の大活躍をしたと伝
えられる「尼子十勇士」、山中鹿介をはじめ、秋上(あきあげ)庵介(伊織介)・上田(植田)早苗
助・横道兵庫助の四人。この四人が実在したのは確実だそうです。

 そして、寺本生死介・薮中荊介・今川(早川)鮎介・尤道理介(もっともどうりのすけ)の四人も
諸軍書に記録されています。

 その他、九名ほどの氏名が残されていますが、奇妙な名称が多く架空の人物だと言われて
いて、残り二名の勇士は定かではない。
 というのも、「我に艱難辛苦を与えよ」と叫んだ、山中鹿介に象徴される通り、その悲劇に満
ちた波乱万丈の生涯が庶民の共感を呼び、長く語り伝えられたからである。


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