備後歴史雑学 

毛利元就37「二つの大河・吉川と小早川A」

「隆景・元春関係に亀裂が生じる」


 元春は山陰にあって尼子氏に、隆景は山陽で大友氏の北上にそれぞれ備え、吉田の郡山城に元
就麾下の主力がいつでも動ける態勢をとるというのが毛利の配備だった。
 しかし元春は山陰に腰を据えるのではなく、厳島合戦をはじめあらゆる戦闘に出動して活躍してい
る。
 しかしいつも主役の隆景の陰にかくれた感じで、何となくおもしろくない立場におかれていた。

 毛利氏の命運を決した先の厳島の合戦では、隆景の率いる水軍が最高の勲功を立てたといえる
が、上陸後の攻撃は元春が先登となって勇戦した。
 隆景が苦戦に陥ったところを、元春の援軍で危機を脱するということもあった。二人は互いに協力
し、また競うように甲乙なく働いたといえるだろう。


 その後、元就は中国平定のカギとなる尼子氏への決戦を挑む。富田城総攻撃は、永禄8年(156
5)4月から始まった。
 このとき元就は自ら本軍を率い、孫の輝元を先鋒として中央から攻め、元春は右翼となって塩谷
口から、また隆景は左翼となり菅谷口を攻めた。
 文字通り輝元を中央に置く毛利の両川の構図を描いている。
 富田城は翌9年11月28日に陥落し、元就が悲願とした尼子氏征伐は達せられた。

 大将の尼子義久は捕らえられ、毛利軍は吉田に凱旋することになるが、隆景は護送の将飯田尊
継に書を与え、「義久らは隆景が元春と共に受け取り預かったもので、かくの如き戦場名誉の大将
を捕虜としたことは前代未聞の儀であるから、十分礼を尽して歓待し、またその警衛を怠らぬよう
に」と注意することを忘れなかった。
 これは隆景の戦国武将たるすぐれた人柄を物語る挿話として知られている。


 尼子氏攻めが終結した直後、元春は早々と本領の新荘に帰国してしまったらしく、出雲にしばらく
留まって戦後処理にあたったのは元就・輝元・隆景たちだった。
 山陰に備える吉川家の分掌からすれば、元春が出雲での差配を担当するのが妥当である。にも
かかわらず元春はさっさと引き揚げている。
 元就は雲州経営の方針を隆景と相談して定め、帰国の途についた。
 隆景が輝元に従って出雲大社に参詣、吉田に凱旋したのは2月26日であった。
 尼子氏が降伏した永禄9年、元就はすでに70歳・元春37歳・隆景34歳、そして輝元は14歳であ
る。

 毛利家本家を継ぐことになる輝元は、隆景に預けられた。
 隆景が毛利氏の中心人物としてはっきり姿を見せるのはこの時からである。
 逆に元春の影は急速に薄れていき、間もなく元就が亡くなると、羽柴秀吉への対応にからんで、元
春と隆景の生き方は正反対に別れたのである。


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