備後歴史雑学 

毛利元就36「二つの大河・吉川と小早川@」

元春と隆景の栄光と軋轢

 「他家乗っ取りの要員となった二男と三男」

 郡山城にわずか三千の家臣をかかえる毛利氏は、出雲の梟雄尼子氏に臣従する安芸の一豪族
にすぎなかった。
 その毛利氏を継いだ元就は、権謀術数にたけた智将であった。

 元就は11人の子を儲けたが、結局彼の野心を助けるに足りる働きをしたのは、長男隆元・二男元
春・三男隆景の三人だった。
 隆元はいわば総領の甚六的な人物で、しかも早く病死した。だから元就が最も頼りにしたのは、
元春と隆景である。
 この二人が他家乗っ取りの要員として、元就の設定した戦国策を推進することになる。

 元春が山陰一帯に勢力を張る名族吉川家を、隆景が瀬戸内海方面を抑える小早川家の養子とし
て入り込むことにより、毛利は山陰・山陽にかけて大きく両翼をひろげた。


 先ず、小早川家に入ったのは三男の隆景だった。小早川家は安芸安直、沼田本荘、竹原両荘一
帯の地頭をつとめた家柄である。
 所領を割って沼田小早川、竹原小早川の二家に分かれていて、沼田が本家筋にあたる。
 竹原小早川氏の当主興景が病死し、嗣子がいなかったので、これを隆景が継いだのは天文13年
(1544)である。隆景12歳の時であった。
 興景の妻は元就の姪にあたる人であったから、この場合はさして波乱もなく事がはこんだ。
 ところがその前年、沼田小早川氏の当主正平は大内義隆の出雲遠征に参加して戦死していたの
である。

 嗣子の繁平は視力を失って当主にふさわしくないというので、竹原から隆景が入って本家を継いだ
のが天文20年だが、このときの元就は強引だった。
 反対した家臣はことごとく殺し、繁平も剃髪して教信寺に入ったので、ようやく決着した。
 隆景が沼田を継いだことにより、竹原も本家に合してここから小早川氏は一本化されたのである。


 元春の場合には、元就の策謀がもっと露骨にあらわれるのである。
 山陰の吉川氏は、駿河の吉河(きっかわ)から出ていて、安芸山県郡の地頭職をつとめた者の子
孫である。
 応仁の乱では細川側に属し、当主の経基は「鬼吉川」といわれた程の猛将だった。
 その後、安芸の新荘に本拠を構え、石見から出雲にかけて勢力をふるっていた。
 天文年間の当主興経は、はじめ尼子氏に服していたが、形勢次第で大内に通じ、また尼子氏に
復帰するなど行動が定まらなかったので、大内・尼子両氏からも信用を失って孤立を深めていた。
 元就がこれに目をつけぬはずはない。


 吉川家老臣の一部が密議して、興経の隠居を画策し、毛利氏の元春を養子に迎えたいと元就に
相談したというのである。
 興経には嗣子がいるのだから、これを新しい当主に立てるのが普通だが、元就のところに持ち込
んだところに謀略の匂いがする。
 元春の養子契約が成立したのは天文17年(1548)である。元春は19歳であった。

 おさまらない興経が不穏な気配をみせているという噂がひろがった。興経自身は、わざわざ元就に
手紙を送ってそれを否定している。
 元就は家来の熊谷信直らに命じて興経の居館を襲わせ、本人もろとも実子の千法師も殺してしま
った。
 噂をまき散らしたのは、元就が放った間者であったらしい。元就は足軽の名目で世鬼一族をはじ
めとするおびただしい忍者を養い、以後もさまざまな場面で暗躍させている。
 まさに知謀の将というにふさわしい情報活動と謀略手段として彼らを駆使したのである。


 瀬戸内海水軍をかかえる山陽の小早川と、山陰に蟠居する吉川を手中におさめ、毛利の両川体
制が整ったところで元就は、長年圧迫を加えられてきた尼子氏に叛旗をひるがえし、大内の傘下に
入ったのである。
 元就が躍り出る機会は意外に早くきた。陶晴賢の謀叛により、大内氏が自滅したのだ。
 元就は大内氏の内紛と滅亡を冷ややかに傍観し、やがて立ち上がり、厳島で陶の大軍を全滅さ
せたとき、吉川・小早川は元就の期待通り毛利軍の主力となって奮戦したのである。

 元春と隆景は、両人とも対照的な個性を持った武将であるが、強いて一人にしぼるとすれば、や
はり隆景であろう。
 隆景は元春より長命であり、毛利氏が輝元の代になって中国支配の座から転落する直前まで生き
たということにもよるのである。

 
 元就の「三矢の教え」は有名だが、これは作り話で三子への教訓状をおもしろく伝えたものであ
る。
 元就は、隆元・元春・隆景の三子にあてて、三人が協力して毛利氏を盛りたてるべきことを切々と
訴える書状を与えている。
 これが三子への教訓状である。

「隆元のことは、隆景・元春を力にして、内外様ともに申しつけられるべく候。しかるにおいては何の
仔細あるべく候や。また隆景・元春のことは、当家だに堅固の候わば、その力を以て、家中・・・は存
分の如く申しつけらるべく候・・・・・」

 毛利の両川が本家の隆元を助けて、毛利氏の安泰に力をあわせるようにと、一族結束の要に元
就は三兄弟を据えているのだが、その教訓状の中で、元春・隆景の順で書くべきところを、長男隆元
の次に三男隆景の名を書き、二男元春を最下位においている。

 元春もよく父を助けて戦ったが、元就の戦歴のなかで主要な勲功を占めているのは隆景であろう。
瀬戸内水軍を一手ににぎる小早川氏の立場にもよるのだが、何よりも隆景の武将としての資質、ま
た政略家としての手腕が父親のそれを最もよく受け継いでいる点で他の兄弟を抜き、元就もそれを
愛したことが、教訓状の序列に表れているという解釈がされている。


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