備後歴史雑学 

毛利元就35「名将を支えた賢夫人」

「元就を陰から守った女性たち」


 毛利元就の生母福原夫人は、毛利家の家臣福原式部大輔広俊の娘で、父弘元の正室である。
福原夫人は嫡男興元、武田氏に嫁いだ女子、そして元就と三人の子を生んでいる。

 元就誕生については[吉田物語]に、次のようなエピソードが載せられている。
 ある夜元就は、毛利家の脇柱に鷲の羽をつないで、これを拝み連歌を行う夢を見た。かつて福原
夫人も元就を懐妊した時同じ夢を見たが、珍しい夢なので占わせたところ、
「生まれてくる子は男子で、将来は西国の主になるだろう」ということであった。元就も同様に、嫡子
隆元を授かったというわけである。

 興元の家督相続後、福原夫人は夫や元就と共に多治比猿掛城に移ったが、文亀元年(1501)1
2月8日、34歳の若さで没したという。
 未だ興元9歳、元就5歳という幼なさで、さぞかし夫人も思い残すことが多かったに違いない。
 法名は祥室妙吉禅定尼で、墓は大正になって福原から移され、今は弘元と共に多治比悦叟院に
ある。


 元就には母と呼ぶべき女性がもう一人いる。
 福原夫人の思いが通じたのか、母恋しい元就は父の側室大方殿の手で育てられることになった。
 大方殿は元就を、実の子の如く愛情を注いで、再婚することなく元就の母として生涯を送った。
 元就としては、言葉に尽くせぬ感謝の思いであったことだろう。
 天文14年(1545)6月8日に没した、法名順徳妙孝大姉という女性が、この大方殿ではないかと
いわれている。


 元就は嫡子隆元へ、
「内をば母親を以ておさめ、外をば父親を以て治め候と申す金言、すこしもたがはず候」という教えを
し、隆元も嫡子輝元へ、
「かもじ(母文子、母のこと)のいけん御きき候はずは、くせ事たるべく候」と教えている。毛利家中で
の妻・母の存在感がよく伝わってくる。
 そしてその柱であったのが、三本の矢(隆元・元春・隆景)と宍戸隆家に嫁いだ長女五竜の方の
母、元就の正室妙玖であった。

 妙玖夫人は吉川国経の娘で、吉川元経の妹にあたる。結婚の時期は不明だが、嫡子隆元が生ま
れたのは大永3年(1523)、元就27歳、夫人25歳の時である。
 天文6年(1537)には、元服前の隆元を大内氏のもとへ人質として送るという、親としては辛い出
来事もあったが、まさに夫婦一心同体で、戦時にあっては家を守り子供たちの養育にも心を砕い
て、一家を内から支えていたのである。


 元就は戦国武将には珍しく、子供たちへの数多い手紙の中で、度々夫人のことを述懐している。
 隆元・元春・隆景といずれも名将に育ち、毛利家を支える屋台骨となったが、その影には妙玖夫人
の並々ならぬ努力があったのである。
 天文14年(1545)11月30日、妙玖夫人は47歳で帰らぬ人となった。
 隆元が大内家から戻り、元春の元服を見届けた後であったのがせめてもの救いであった。


 確認できる三人の側室、乃美の大方・三吉・中の丸
 元就の継室、及び側室と呼ばれる女性たちは三人確認できる。
 乃美の大方・三吉夫人・中の丸であるが、実のところ誰が継室で誰が側室かという問題は、書物
によっても判断が違い、一定していないという。


 乃美の大方は、乃美弾正忠弘平の娘といわれるが、[毛利家乗]によれば、乃美安芸守隆興の娘
とされれいる。隆興は初め弾正忠と称したというから、弘平と同一人物とも考えられる。元就のもと
で乃美宗勝という武将が活躍しているが、この一族であろう。
 乃美の大方は、四男元清・七男元政・九男秀包の三子をもうけている。後には長州秋根村に暮ら
し、秋根の御大方様とも呼ばれていた。
 慶長6年(1601)9月14日に同地で亡くなっており、法名は慈恩院(または智光院)蘭溪怡秀大
姉である。
 墓所は現在、山口県熊毛郡の貞昌寺に元就と並んだ乃美の大方の墓が残されている。


 三吉夫人は、三吉新兵衛尉広隆又は九郎左衛門の娘といわれている。毛利氏に帰属した三吉一
族の者だと思われる。
 三吉夫人は、五男元秋・六男元倶・八男元康、及び三女(上原氏室)の四人の母である。
 天正16年(1588)2月19日に没しているが、法名・墓所ともに不明である。


 中の丸については、小幡民部大輔元重の姉ではないか、という程度であまりわかっていない。
 中の丸自信に子はなかったようだが、その分元就の子供たちに心を配り、輝元の元服の準備など
も世話している。
 元就にとっては、妙玖夫人に代わるような心映えすぐれた夫人であったようだ。
 寛永2年(1625)9月25日に没し、墓は長州大寧寺にあったが、移されて現在は東京にあるとい
う。法名は、悟窓妙省大信女である。


 ところで元就は、妙玖夫人の子供たちにはひとかたならぬ心遣いを見せているが、側室の子供た
ちに関しては、一変して冷たい態度をとっているようだ。
 末子の秀包については、その懐妊を知ると、適当に処分してしまえと命じた話まで伝わっている。

 しかし、元就の本心は、隆元らとこれらの庶子の間には親子ほども歳の開きがある。愛情に溺れ
ることなく、正室の子との区別をはっきりつけ、分相応に扱うことで内紛を回避しようとしている意図
が含まれている。
 元就自身、異母弟元綱を処罰している苦い経験があり、子供たちにはこの二の舞をさせないよう
にしたものであろう。

 また逆に、父親たる自分が突き放すことで、隆元ら三子の責任感や兄としての愛情を助長してい
るとも受けとられる。
 現に元康や秀包のように兄の跡を継いだ者もおり、隆元の没後にはその遺児輝元を盛りたてて、
毛利一族の結びつきは益々強くなっていったのである。

 元就の没後、隆元らが弟たちをないがしろにした様子はなく、乃美の大方や三吉夫人も安堵の気
持ちを強くしたのではないかと思われる。


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