備後歴史雑学 

毛利元就34「大友・毛利氏の攻防B」

「立花合戦と毛利軍撤退」



北九州をめぐる大友・毛利氏の攻防


 当時の九州は、豊後の大友氏・肥前の龍造寺氏・薩摩の島津氏が三分するところとなっていて、
その他の諸豪はそのいずれかと結んで家名の存続を計るほかはなかった。
 そこへ中国の毛利氏が海を渡って兵を進めてきたのでは、九州の戦雲のおさまる訳もない。

 謀略戦に長けた元就は、九州の内部攪乱を計り漁夫の利を得ようとした。元就の狙いは、商都博
多の地を手に入れることだった。
 その博多を望んでいるのは元就だけでなく、龍造寺・大友の願いも同じであった。


 尼子氏を滅ぼした翌永禄10年(1567)、大友支配を脱して独立を図る宝満城主高橋鑑種(あき
たね)が挙兵し、さらに古処山城主秋月種実(文種)、五ケ山の筑紫惟門、宗像大宮司宗像氏貞らが
蜂起した。
 翌永禄11年には立花城主立花鑑載(あきとし)も毛利氏に通じて反旗をひるがえした。
 また、肥前の龍造寺隆信も佐賀城で大友との臨戦態勢に入った。

 元就は筑前の重要拠点である立花城に、清水左近将監・以下援兵を派遣。原田親種らも支援に
駆けつけた。
 この筑前擾乱は、大友家にとってまさに一大危機であった。宗麟は直ちに叛将たちの討伐のた
め、戸次(べつき)鑑連・吉弘鑑理・臼杵鑑速の三家老に、三万の軍勢をさずけて筑前に出撃させ
た。
 大友軍は、三手に分かれてこれらの城を次々に攻め降ろしていった。
 立花城は、4月14日から三カ月をかけての攻城戦の末、城主立花鑑載を自刃に追いこんで立花
城を奪回した。
 だが、宝満山の高橋鑑種と古処山の秋月種実は、毛利氏に救援を頼んで頑強に抵抗した。


 同11年9月、元就は危機に瀕した両城を救援するため四万の大軍を筑前に差し向けた。
 元就は同年9月24日、配下の佐藤元貞・井上就貞らに高橋・秋月に兵糧米を送ることを命じてい
る。
 毛利軍は先ず、大友方に寝返った豊前大三岳城主長野弘勝を討ち、さらに翌永禄12年4月15
日、吉川元春・小早川隆景率いる四万余の毛利勢が、博多の東郊に聳える要衝立花山城を包囲。
 連日猛攻に次ぐ猛攻を加え、5月3日ついに立花城を占領した。
 大友方も巻き返しをはかり、三万五千の軍勢を博多に集結させて毛利軍に対抗した。

 同年5月から10月までの半年間、多々良川を挟んで両軍による立花城争奪の攻防戦が展開され
るのである。
 5月18日、両軍は多々良川で激突した。一進一退の戦況が続いたが、結局優劣のつかないまま
に双方兵を収めた。
 以後、戦線は膠着状態のまま推移するのである。
 この立花城は、筑前経営の重要拠点である。ここを押さえれば、有数の貿易港博多を掌握できる
のである。


 この時、宗麟は毛利本国の隙に乗じて豊後に亡命中の旧大内一族の大内輝弘に軍勢をさずけて
山口に乱入させた。
 さらに、尼子勝久が挙兵したのである。宗麟の策謀である。
 事態急変のため元就は、吉川・小早川をはじめ毛利全軍に九州撤退を命じたので、立花城の守
備を浦宗勝・桂能登守・坂田新五左衛門ら三将に命じ、11月15日、毛利軍は本国へと撤退してい
った。
 しかし、立花城の守備兵はわずかであったので、立花城は再び大友の手中に帰した。


 この一連の争奪戦で格別の手柄を立てた戸次鑑連が、翌元亀元年1月、城督として立花城に入
城。立花姓を名乗り、道雪と号した。
 その後、天正9年(1581)道雪の一人娘ァ千代と、高橋紹運の長子統虎(後の宗茂)が婚姻し、
道雪の養子として立花城に入るのである。

 この間秋月氏が降り、孤立した高橋鑑種は、毛利軍撤退後ついに大友軍に降伏した。
 山口を占領した大内輝弘軍は、帰国してきた毛利軍によって撃滅されたが、元就の豊筑回復の悲
願もまた水泡に帰した。
 その後、毛利一族は織田信長と対決するようになり、筑前の出兵も終息したのである。


 元就は、この二年後の元亀2年(1571)6月4日、安芸吉田において病を得、75歳の波乱の生涯
を終えた。
 織田信長もこの西国の雄の死に対し、はるばる弔問使を派遣して香華を捧げている。

 元就の合戦歴は生涯二百数十回に達し、その殆どに戦勝している。
 これは大江流軍学を実践に移した合戦以前の周到緻密な謀略工作によるものであり、小領主か
ら身を起して、遂に芸備平定を完成させたのも実にこの術策からであった。
 まさに戦国屈指の謀将というべきであろう。


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