備後歴史雑学 

毛利元就33「大友・毛利氏の攻防A」

「門司城攻防戦」



火を吹く南蛮砲!押し渉る毛利水軍


 毛利氏が北九州経略の拠点としたのが豊前門司城である。
 門司城は最初大内氏が築いたが、弘治3年(1557)に大内氏が滅亡すると大友義鎮がこれを収
めた。
 すると、翌永禄元年6月、元就の命で小早川水軍を主力とする毛利軍は、関門の要害門司城を攻
めて大友の将、怒留(ぬる)主人らを追い、仁保右衛門大夫隆慰(たかやす)を城将として三千の兵
を配置した。
 そこで、義鎮は毛利の侵入を阻止するため猛反撃に出る。
 翌永禄2年9月、田原親宏・同親賢らの率いる大友軍は大挙して門司城を攻撃し、城将仁保右衛
門大夫を追い城を奪回した。


 門司城陥落の急報で元就は、直ちに長男隆元を防府に派遣し、松崎天満宮に本陣を据えて指揮
をとらせ、三男隆景を先鋒として奪還を策した。
 当時、二男元春は山陰の計略に忙しかったから九州の軍事は、隆景が水軍を指揮して長兄隆元
を補佐していた。
 隆景は麾下の水軍を指揮して、浦兵部丞(乃美)宗勝を門司と小倉の中間に上陸させた。
 宗勝は上陸地点から東進して門司城に迫り、負傷に屈せず敵首数百級をあげて門司城を奪い返
した。

 大友軍はなおも城の付近に集結して奪回をはかったが、宗勝は毛利水軍の提督児玉内蔵丞就方
と共に豊前の東岸中津に上陸し、大友軍と豊後の連絡路を遮断した。 
 そのため大友軍は糧道を断たれて、ついに撤退した。
 こうして門司城は再び毛利軍の手中に帰したのである。


 だが、これくらいのことで諦めるような大友義鎮ではない。なおも門司城奪還の望みを捨てず、永
禄4年(1561)になって、いよいよ本腰を据えて奪回作戦に乗り出した。
 永禄4年8月、義鎮は武将吉弘加兵尉に兵一万五千を与えて城の西方約12キロの豊前小倉へ
進出させ、門司城を陸上から攻撃させるとともに、当時府内に碇泊中であったポルトガル船数隻に
海上から門司城を攻撃するよう依頼した。

 すなわち、異国船に大砲を積み込ませ、門司城の海域へ急行させると、海上からいきなり門司城
めがけて大砲をぶっ放させたのである。
 殷々たる砲声は海面に轟き、門司城の周辺で炸裂する砲弾は城兵の耳を劈くばかりであった。
 命中した砲弾で城壁や櫓は飛散し、たちまち城中は兵士たちの鮮血で紅に染まった。
 初めて見る南蛮兵器の威力に、城兵一同は戦慄して生きた心地がなかった。
 ところが、このポルトガル船はどういうわけか、初回の攻撃で砲弾を撃ち尽くすと、そのまま関門海
峡から退去し二度とこの海域には姿を見せなかった。門司城は危いところで落城の悲運から免れた
のである。[鎮西要略]


 驚いた毛利元就は、同年8月21日に再び隆元と隆景の両将を派遣して門司城を援護させた。
 このたびも隆元は防府の大専坊に本陣を置き、隆景が先陣となって門司城救援に向かったが、対
岸の下関から見ると田の浦一帯は雲霞の如き大友の大軍が犇めいている。
 そこで隆景は、堀立壱岐守の手勢や豊前守護代杉氏の一族を決死隊として関門海峡を渡らせ、
大友軍の包囲網を切り崩して門司城に入らせた。
 これによって落城寸前にあった門司城は、ようやく息を吹き返した。

 一方隆景は、児玉就方に命じて安芸川ノ内水軍数十艘で豊筑沿岸を襲撃させ、大友軍の背後を
攪乱させた。
 すると大友軍も門司南方約12キロの豊前沼に屯営していた毛利軍を襲い、10月2日になって門
司城の麓に進出して城地の奪回に乗り出したのである。

 伊予能島水軍の村上武吉は、このとき麾下の水軍を率いて毛利軍に加わり、児玉就方の水軍と
協力しながら門司海岸に上陸して敵陣の側背を襲った。こうして毛利軍は多大の戦果をあげたが、
大友軍はなおも堅陣を構えて容易に退却しようとしない。
 さらに戦備を充実した大友軍は、10月10日にいたって門司城への総攻撃を開始したのである。

 大友軍の総攻撃が始まると、隆景は門司城に入って全軍を指揮し、自ら城外に出て防戦につとめ
た。
 浦宗勝と児玉就方は、毛利隆元の命を受けそれぞれの水軍を率い、門司城に猛攻を加える大友
軍の側背を衝いて上陸し、明神尾の敵陣を切り崩し、大里に敵を追い詰めて大勝を博した。
 この合戦で浦宗勝は衆人環視の中、敵将尹美弾正左衛門と一騎討ちを演じた。
 はじめ宗勝は弾正左衛門に槍で鼻のあたりを突かれて負傷したが、ひるまず槍でわたり合い、と
うとう相手を突き伏せたのである。

 合戦は勢いである。敵味方が固唾をのんで見守る一騎討ちで宗勝が勝ったとなると、毛利軍の士
気は俄かにあがり、勇気百倍して敵を縦横に切り立てて、この勝利を勝ち取ったのである。

 大友軍が門司城奪還の不可能を知り、総退却を開始したのは永禄4年11月5日の夜陰であっ
た。


大友・毛利「門司城合戦」要図(永禄4年8月〜11月)


 元就は尼子討伐に全力をつくすため、大友氏との和平を図った。
 永禄6年(1563)6月25日の毛利隆元書状に、
「下口(大友氏)和談相調え候間、雲州に至り陣替候」とあり、すでに合意に達していたが、隆元は
出雲白鹿の陣所に赴く途中、急死したのである。

 永禄7年8月27日、将軍足利義輝の下知により、大友・毛利両者の講和が正式に成立したので
ある。
 元就の孫幸鶴丸(後の輝元当時11歳)と義鎮の娘との婚姻の約が交わされた。

 その結果、豊筑にある香春岳・松山城等数城が元就から義鎮に変還された。義鎮はその頃、宗
麟と号していた。
 元就は講和にあたって大友への不利な条件を呑まねばならなかったが、これも尼子攻略のためで
あり、尼子撃滅後は一転して豊筑奪回に全力を傾けることは当然であった。

 永禄9年11月、宿敵尼子氏を滅ぼした元就は、豊筑の諸氏に間者を送って連絡を取り、再び北九
州奪回を画策するのである。


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