備後歴史雑学 

毛利元就29「雲石経略A」

  「出雲経略」

 元就は石州経略をなしとげて石見銀山を獲得し、今度は出雲へ進出して出雲砂鉄を手に入れよう
とした。
 ところが、その出雲遠征が緒についた永禄5年(1562)11月、元就は吉川元春に命じて本城一
族を誅滅させた。

 本城氏は出雲国飯石(いいし)郡須佐高屋倉城主本城越中守常光の率いる一族で、尼子氏の命
によって大森銀山守備のため山吹城へ派遣されていたが、毛利軍の度重なる攻撃にも屈せずにい
たが、のち毛利氏に従属した。しかし、その降伏は対等な和談に近いものであった。
 すなわち本城氏は、和平後も大森銀山と出雲の原手郡を与えられ、石見銀山の富強はそのまま
この本城氏の手中にあった。
 本城一族殺害の理由は詳らかではないが、常光が元就に属するにあたり厚顔にも、所領の加増
を条件としたからではないか、といわれている。


 この年の6月に元就は石見一国を手中に収めたが、以降、出雲の国人の中から服属を望む者が
出たのを好機に、大挙して出雲国に攻め込んだ。
 そのため出雲の有力国人が櫛の歯の抜ける如く、毛利氏に降伏する。
 元就は、月山富田城へせまったものの、尼子氏の防備は固く城は容易に落ちる気配もなかった。
 時日の経過とともに、従っていた出雲の国人たちの間に動揺が広がっていった。

 そこで元就は、こうした国人たちの本心を試そうとしたのである。
 元就が再び寝返るであろう後患を除くため、宍道で誅殺したのが本城一族であった。
 狙いは違わなかった。叛服常ない国人は再び尼子氏の許へ走った。

 11月5日未明、元就は吉川元春に命じて本城氏の陣営を襲わせ、常光と三男親光・四男春光及
び弟の昌光を斬殺させた。

 常光の次男隆任はこのとき人質として宍道にいたが、これは山県越前守に命じて殺させ、長男の
隆光は都賀の光宅寺にいるところを、監視にあたっていた天野元定が襲って殺害した。
 そのあと本城一族は、元就の命令によって皆殺しにされ、さしも豪強を誇った本城一族も、史上か
ら完全に潰え去ったのである。


 だが、元就が行ったこの誅伐には思わぬ後遺症があり、それまで毛利氏に服属していた旧尼子
方武将たちが、明日は我が身とたちまち尼子陣営へ走った。
 そこで元就は、富田城攻略のため宍道へ進出していた本陣を、用心のため赤穴(赤来町赤名)へ
移した。
 元就が再び宍道湖畔に出て洗合に本陣を築いたのは、一ヶ月後の12月10日である。洗合城跡
は現在の松江市国屋町の天倫寺山にある。

 元就が洗合に本陣を置いたのは、この近くの八束郡法吉村に富田城の有力な支城である白鹿城
があり、この城を落とすためであった。
 白鹿城と富田城の連絡を断つためには、別に松江東北方の和久羅山に支城を造らせ、さらに富
田城と美保関の連絡を断つために、児玉就方麾下の川ノ内水軍を中海へ派遣した。

 ところが白鹿城攻撃を目前にして、元就のところへ全く思いがけない悲報が届いた。
 永禄6年8月、豊後大友氏との講和を結んで元就の白鹿城攻めに参加するため帰路にあった隆
元が、佐々部の式敷(広島県の高宮町)に滞陣中、急逝したというのである。毛利隆元亨年41歳。
 嫡子隆元の突然の死亡によって、元就は絶望におちいった。
「このうえは自分も相果て、隆元と同じ死の途に同道するのが本望だ」とか
「出雲での戦闘が終わって帰陣したら、出家法師の身になって隠遁の生活を送りたい」ともいってい
る。
 この白鹿城攻めは、元就の亡き隆元に対する弔合戦であった。


 永禄6年8月13日、毛利軍は夜陰に乗じて白鹿城へ総攻撃をかけた。
 城将は松田左近将監父子であり、富田城から派遣されて来た牛尾久清が援軍を率いて立て籠っ
ていた。
 毛利軍はこのとき、牛尾久清に手傷を負わせ、出丸の小白鹿城を奪ったが、本城を落とすことは
出来なかった。

 吉川元春らは、なお本丸への攻撃を続行するよう主張したが、元就は味方の犠牲が多くなることを
心配して持久包囲の戦術をとった。
 攻撃が持久戦に持ち込まれると、元就は一計を案じて石見銀山の鉱夫数百人を動員して、城内
へ向けて坑道を掘らせた。
(元就は、坑道を掘って城内の水を抜こうとしたのだが、城内の兵はこれに気付きこちらも穴を堀り
進めていった。互いに物音が聞きとれる程になったころ、突如双方の間の土が崩れ、敵同士が鉢合
わせとなった。ここで壮烈な地下戦がはじまったのだが、狭い穴の中である。おそらく双方一番手、
二番手と名乗り出て一騎打ちを繰り広げたのであろう。この勝負毛利方に利があったようだが、城
兵が土砂小石を投げ入れて穴を塞いでしまったのである)


 9月下旬になって、今度は尼子の富田城から城主義久の弟倫久を総大将とする一万余騎の援軍
が白鹿城救援に押し寄せ、毛利軍の包囲網を突破しようとしたが、失敗に終わった。
 富田城からの援軍が潰走するのを見て、城兵の士気が阻喪し、白鹿城が白旗を掲げたのは10月
19日であった。このとき元就67歳。


出雲経略関連図


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