備後歴史雑学 

毛利元就28「雲石経略@」

宿敵尼子氏を滅ぼし西国制覇なる

 「石見銀山の争奪」

 元就が防長経略と並行して石見征服に乗り出したのは、弘治2年(1556)3月18日のことであ
る。
 遠征派遣軍の大将は吉川元春と宍戸隆家。第一線の基地となったのは、口羽通良の居城琵琶甲
山(矢羽城)であった。

 当時石見国では、川本温湯(島根県邑智郡川本町)の城主小笠原長雄(ながたか)が優勢で、こ
の小笠原氏は尼子氏の来援を得て東隣の佐波興連を挟撃し、毛利領内に進入する気配を示してい
た。
 佐波氏は元就が厳島合戦で勝利をおさめると、自衛のためすぐさま毛利氏に服属を申し出た。
  元就が元春を石見に出陣させたのは、一つには、この佐波氏を救援強化して小笠原氏の進入を
防止するためであった。


 当時、大森銀山(仙ノ山)西北の山吹城主として銀山の守備に任じていたのは、刺賀長信であっ
た。
 大森銀山は戦国時代の初め大内義興の支配下にあったが、その後銀山は尼子経久配下の小笠
原長隆や尼子晴久に占拠され、それをまた大内義隆が奪還するといった変遷を繰り返している。
 弘治2年5月、毛利派遣軍は山吹城主刺賀長信を投降させて大森銀山を手に入れた。
 戦国のドル箱石見銀山を手に入れて、毛利氏の財源は大きく潤った。

 ところが前述のように、この銀山はこれまで大内・尼子両氏が争奪を繰り返してきた宝の山である
ので、尼子晴久はすぐさま奪回作戦に乗り出した。
 晴久は出雲の須佐高屋倉(佐田町)の城主で猛将の聞こえの高い本城常光を石見に進入させ、
川本の温湯城主小笠原長雄と協力させて毛利氏の銀山救援通路を遮断し、ついに永禄元年(155
8)9月初旬銀山を奪回した。
 毛利軍は石見大田の南約8キロの地点にある忍原で尼子軍と戦って大敗を蒙り、銀山を敵手に委
ねたのであった。


 これ以後、毛利氏は再び大森銀山奪回を目指して、永禄2年7月と翌3年7月に安芸・備後・石見
の軍勢を動員して攻撃をかけるが、山吹城は落とせなかった。
 そこで元就の得意な謀略・・・。元就が山吹城主本城常光を説得して降伏させ、やっと大森銀山を
領有できたのは、永禄5年6月であった。

 元就は弘治2年3月に石見銀山を占領して、永禄元年9月にこれが奪回されるまで、二年半にわ
たって採掘された銀鉱で銀幣を鋳造し、これを正親町天皇即位の費用として朝廷へ献上した。
 そこで朝廷は毛利氏父子に対して、2月12日付で正親町天皇綸旨と女房奉書を下賜し、元就を
陸奥守・隆元を大膳大夫に任じ、さらに2月20日付で元春を駿河守に任じた。

 永禄3年12月24日、毛利氏の宿敵であった尼子晴久が亨年47歳で病死した。嫡子義久がその
家督を継いだ。


 「石見経略」

 石見銀山山吹城の本城常光が毛利氏の軍門に降ると、それまで尼子方に属して元就と対立して
いた石見や出雲の諸国人領主が相次いで毛利氏の陣営に馳せ参ずるようになった。
 出雲の三沢為清・三刀屋久扶・赤穴久清・湯原春綱らの諸将らである。

 さらに、石見銀山東北約16キロの位置に居城を構えていた羽根の城主羽根泰次も毛利氏に降っ
たので、これらの諸将のために尼子氏の本拠富田城との連絡が断たれることを恐れた鰐走城主牛
尾久清と温泉津城主湯惟宗の二将は、城を棄てて出雲へ逃走した。
 こうして元就は、単に石見銀山ばかりでなく石見全土を完全に自分の支配下に置くことが出来た。

 しかし、これによって元就の石見経略が終わった訳ではない。元就の経略は利をもって敵を誘う謀
略戦法が多かったから、利を失えばその相手はいつなんどきまた敵陣へ寝返るかもわからないので
ある。
 その一つが、つぎに述べる福屋氏の向背である。


 福屋隆兼は那賀郡音明の城主で、早くから毛利氏に服属していた。
 ところが永禄2年8月、毛利氏が川本温湯城の小笠原長雄を降伏させたとき、元就は小笠原氏か
ら温湯城をはじめ江川以南の土地を没収して吉川元春に与え、その代地として隣国である福屋氏
旧領井田・波積の地を小笠原氏に給与した。
 元就は福屋氏に邇摩郡内で代地を与えたのだったが、毛利氏の石見征服に貢献してきた福屋氏
にとっては、これまで拮抗してきた小笠原氏に自分の旧領地を与えた元就の仕打ちが不満で、つい
に尼子方へ走ってしまった。

 福屋氏が元就に対して公然と反旗をひるがえしたのは、永禄4年10月であった。
 この年6月、豊後国の大友氏が豊前へ進撃を開始し、毛利氏が固守する門司城を攻撃して毛利
氏との間に全面対決が起こった。
 福屋氏はその間隙を突いたのである。


 永禄4年11月、福屋氏は吉川一族の経安が守備する福光城(温泉津町)に攻撃を加えて来たの
で、同年12月元就は吉川元春の手勢と協力して、福屋氏の支城を攻め落としながら、本陣を矢上
(石見町)へ進め、福屋本城の本明城(有福温泉町)と、その支城松山城(松川町市村)を攻撃し
た。

 一方、豊前へ援軍として出兵した毛利隆元と小早川隆景の軍勢は、永禄4年11月初めに大友氏
の刈田松山城(刈田町)を海上から攻撃したので、大友軍は門司城攻撃の背後を毛利軍に断たれ
ることを恐れて撤退。
 刈田松山城は毛利氏の手中に帰した。
 元就はこのとき、尼子・大友氏との二面作戦を進めていたが、尼子義久が毛利氏との和平に乗り
気であったから、尼子方から福屋氏への救援を断ち切らせた。

 翌永禄5年2月6日、尼子氏からの支援を断たれて江川畔の川上松山城陥落。
 翌7日毛利軍は本明城攻撃に向かったが、戦意を失った福屋隆兼は城を棄てて浜田港から海上
へ逃れた。
 これによって毛利氏の石見経略は完了した。


石見経略関連図


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