備後歴史雑学 

「西国の雄」毛利元就24「対陶戦:厳島合戦F」

 厳島の戦いは、合理主義者で堅実を旨とする毛利元就が、彼の生涯の中で唯一の大きな賭
けに出たものであるが、この戦いは陶晴賢に倒された大内義隆の仇討ちをしたというのが通
説になっている。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」というが、陶晴賢が逆臣となるのは、この厳島合戦で毛利元就
に敗れた後のことである。


 陶晴賢が自刃した後、なお残敵が駒ケ林の龍ケ馬場に拠って毛利軍に抵抗していた。
 弘中三河守と隆助父子は、多宝塔や大元の戦線が毛利軍に破られ、味方の軍勢は敗走してしま
ったので、谷あいを駒ケ林へ登り百人余で龍ケ馬場の険に籠った。
 この弘中父子は、厳島に渡った陶軍部将の中で最も手強い相手であり、部下も猛卒揃いであった
から、元就は「一人も残らず討ち殺すべし」と命じた。
 毛利軍は柵の木を結ばせて取り囲み、弘中勢の脱出路を塞いだので、まったく籠の鳥となった。


 兵糧の貯えも飲料水もない弘中父子の手勢は、疲労困憊と飢渇の極みに達した。あるいは討た
れ、あるいは生捕られて、今や残る者は主従三人のみとなった。
「もはやこれまで」と、先ず弘中隆助が敵中に駆け入り、数人に手傷を負わせて引き退くところを、吉
川元春の家臣坂越中守が遠矢で射倒し、熊谷信直の家臣末田新右衛門が走り寄りて首を取った。
 これを見た弘中三河守も、まさに自害しようとしたところへ、阿曽沼広秀の家臣井上源右衛門が駆
け寄って勝負を挑んだ。
 三河守も太刀を取りしばらくこれと戦ったが、三日間の奮戦と飢渇とで力が尽き、ついに討ち取ら
れた。
 最後まで弘中父子に付添っていた郎党の一人も、吉川元春の家臣井尻又右衛門に討ち取られ
た。
 10月3日朝のことであった。これによって厳島合戦のすべてが終わった。


 午後二時頃、元就は宮尾城へ入って新里・己斐両将に褒美を与え、そのあと将兵に飯を炊いて振
舞った。
 その手際のよさは驚くばかりだった[厳島合戦之記]という。
 また、10月11日まで山狩りを行って逃げ隠れた敗残兵を追討し、合戦で戦死した将兵の死骸
は、残らず対岸の大野へ運び出した。
 血を吸った地面は、ことごとく削り取られたという。
 厳島神社の社殿は、社壇から回廊まで潮水で洗い流し、あくる日より七日間、神楽や龍頭納楚利
の舞を奉納した。
 さらに、敵味方双方のために万部経会を催して、その冥福を祈った。


 陶晴賢の首級は、近侍伊賀民部少輔が介錯し、晴賢が着用していた朽葉の袷に包んで山中に運
んだという。
 しかし、その首級は近侍の者たちも自刃したので、所在が分らなかったのだが、10月4日になっ
て、晴賢の草履取りの乙若という少年が捕らえられ、その少年の口から判明した。
 巷間に伝えられる晴賢の最後の模様は、この少年乙若の語りによるそうである。
 それによると晴賢の殉死者は、尹香賀房明・垣並佐渡守・山崎勘解由の三人であったという。
 毛利元就による陶晴賢の首実験は、10月5日、廿日市の桜尾城で行われた。



 「厳島合戦夜話」

★戦いに望んでの用意

 合言葉は「勝つ」と問うと「勝つ勝つ」と答える。
 侍は腰兵糧を持つな、下士は一日分を持て。
 朝食は焼き飯に梅干しを持ち、梅干しを食べた後に焼き飯を食べろ。
 伝言がある場合は小声で次第に送れ。

★隆元のひとこと

 元就は隆元に対し、「自分が死んだら困るので、残って家を保ってほしい」   といった。すると隆
元は、「渡海して合戦に行った者がことごとく討死にすれば、弓矢は成り立ちがたいでしょう。そうい
うところで自分が残っても仕方ありません」と答えた。この一言でひるんでいた将士もふるい立ったと
いう。

★船を借りる

 合戦前夜、元就は来島通康に対し借船の援を頼んだ。そのときの口上が、「一日だけ貸して下さ
れ、宮島に渡ったらすぐお返し申す。戦いに勝ちさえすれば、もちろん船はいらなくなる訳ですから、
ただ宮島へ渡る間だけお借りしたい」というものだった。この一言で通康は、その心に期するものが
あるのを感じとり、勝つこと間違いないと判断したという。陶の方は、ただ貸してほしいといってきた
だけ。これとは大違いという訳である。

★みんな同じ系図

 合戦直前の軍議のとき、先陣争いをする諸将に向い元就は、それぞれの出自の偉人をもち出し、
「出羽隆綱と熊谷伊豆守は佐々木高綱と熊谷直実の末裔だからそれにならい先鋒に、吉見正頼と
宍戸隆家は源範頼と源知家の末裔だから副将軍、隆景は土肥実平の後裔だから追手の副将軍に
なれ。不思議なことにみんな同じ系図から分かれた身だ。いわば一心一和の軍だ」といったので、
争いがぴたりと止んだ。
                                      
                                             厳島合戦了


 のちに毛利氏と敵対した備前の宇喜多直家も備前の桶狭間と呼ばれる[明禅寺合戦]を過
去記事にて紹介しています。


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