備後歴史雑学 

「西国の雄」毛利元就23「対陶戦:厳島合戦E」

10月1日午後二時総崩れする陶軍


 陶軍は多勢であったけれども、諸陣営とも俄か集めの軍隊であったので統制がきかない。しかも、
場所が狭くて駆け引きが自由でない。
 そこを毛利軍の部将が自ら先頭に立って攻めかけたから、陶軍は一度に崩れて逃げ退いた。
 陶晴賢は采配を取って、
「きたなし、者共、引き返せ!」と下知したけれども、味方の耳に入らず、乗船を求めてわれ先に落
ちていった。

 しかし、そのうちにも弘中三河守とその子中務丞とが五百の手勢を率いて踏みとどまり、滝の小路
を背にして追撃してくる毛利勢を待ち受けた。
 一番に追撃してきた毛利軍は、吉川元春の率いる安芸新庄勢であった。
 すると、横合いの柳小路から、陶軍の青景・波多野・町野の手勢三百ばかりが新庄勢の側面を突
いたので、吉川元春は窮地に追い込まれた。

 その窮地を救ってくれたのは毛利軍の熊谷信直と天野隆重の手勢である。
 陶の軍勢は再び退却を開始した。ところが、弘中父子は毛利軍の追撃を阻むために、滝の小路の
左右の民家に火をかけて大聖院へ逃げ込んだので、厳島神社へ火が移る危険が生じた。
 そこで元春は、
「弘中父子を逃がすとも苦しからず、決して神殿へ火を移すな」と叫んで、すぐさま配下の軍勢を消
火にあたらせた。
 激戦の最中、敵の襲撃にかまわず部下を消火にあたらせることは常人にはできぬことである。こ
れをやってのけた元春は、その沈着と敬神を天下に知られるようになった。


 陶晴賢の下知に応じて、毛利隆元の陣所へも、陶の軍勢五百ばかりが踵を返して攻めかけ、激戦
が行われた。
 急を聞いた元就は、福原・児玉・粟屋といった側近の勇将に手勢三百ばかりをつけて加勢させた
ので、陶軍はたちまち退却した。
 この戦況を見て、晴賢は自ら討死を覚悟したが、三浦越中守房清が来て島外への脱出を勧めた
ので、船を求めて大元浦へ出た。
 だが、海岸には一艘の味方軍船もなく、さらに渡船を求めてひたすら海岸線を多々良浦の方へと
西南に走った。


 追撃するのは小早川隆景の手勢である。隆景は晴賢が落ちてゆくあとを追って大元の谷までやっ
てくると、谷陰で待ち伏せていた羽仁越中と同将監の兄弟ら三十人に逆襲された。
 さらに、その辺に隠れていた陶軍五百も加勢したので、さすがの隆景の軍勢も悩まされた。一旦
退却をはじめたが、吉川軍がこれを見て助勢に駆けつけた。
 たちまち形勢が逆転して、毛利軍は羽仁兄弟を討ち取ることができた。
 三浦越中守房清は、敗走する晴賢の殿軍をつとめて最後まで戦い、追撃してきた隆景の軍勢の
ために、その手勢と共に討ち取られた。
 だが、その時、隆景も右腕を突かれて手傷を負うた。

 晴賢は、その間にようやく大江浦へたどり着くことが出来たが、ここにも見渡す限り船らしいものは
隻影すら認められず、進退が極まってしまった。
 ここに至って晴賢は、自己の命運が尽きたのを悟り、この大江浦で自刃した[棚守房顕覚書]。

 一説に、晴賢はさらに山を越えて東海岸の青海苔の浜へ出たという。そしてここにも渡船がなかっ
たので山中に引き返し、高安ケ原という場所で自刃したという。

 陶全姜(ぜんきょう)晴賢没。亨年35歳であった。
 辞世の句は、
「何を惜しみ何も恨みん 元よりも この有様定まれる身に」
 この句は後の世の人の偽作だという説もある。


 毛利軍の厳島塔の岡奇襲によって、陶晴賢の軍勢はわずか一日で壊滅した。午前六時より八時
間後のことであった。
 その戦死者は4,780余人だという[吉田物語]。


午後二時頃の激戦の図



 10月3日朝吉川勢、弘中父子にとどめ へ続く


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