備後歴史雑学 

「西国の雄」毛利元就18「対陶戦:厳島合戦@」


 弘治元年(1555)9月21日、陶晴賢は総勢二万余の軍勢を率いて、500余艘の船団で周防国
玖珂郡今津・室木の浜から厳島へ向けて出帆した。
 ここから厳島までは海上わずか20キロである。

 船団はその日のうちに厳島沖へ漕ぎ着け、当夜はそのまま海岸近くに碇泊したが、翌22日の早
朝から大元浦へ上陸した。
 陶軍主力を上陸させた船団は、そのまま長浜有ノ浦から州屋の浦に至る海岸に碇泊した。
 船首を大野瀬戸に向けて警戒態勢を取り、輸送船から警固船に早がわりする。その水軍主力は
宇賀島・大浜・桑原・神代・沓屋・浅海など屋代島衆で、警固衆の大将は宇賀島十郎左衛門であっ
た。

 上陸した陶軍の先陣は三浦房清と大和興武の部隊で、これは塔の岡へ進んだ。
 ついで羽仁・門田・青景などの部隊を此処の谷、彼処の丘と諸所に布陣し、陶晴賢の率いる本陣
は大元浦へ上陸後、すぐさまその上方の多宝塔のあたりに布陣した。
 しかしここからは宮尾城の敵陣地が見通ぜず、指揮に不便だというので先陣が置かれた塔の岡
まで軍勢を進めた。
 
塔の岡に本陣を置いた陶軍は付近の民家を撤去させ、宮尾城と向き合う前面に逆茂木や木柵を二
重三重にめぐらせた。
 この塔の岡からは、宮尾城内の毛利勢の動きが手に取るように見える。
 最初本陣に予定されていた多宝塔付近は陶軍の第二線となり、さらに弥山の山岳地帯に第三線
を設けた。
 海上では500艘の警固船が大野瀬戸の海面を警備している。
 まさに蟻の這い出る隙間もないくらいに、完全な布陣ぶりであった。


厳島上陸を目指す陶軍二万、五百余艘の大船団


 9月24日毛利軍四千、草津に着陣

 本陣を佐東銀山城へ移していた元就は、陶軍の厳島進駐を耳にして、勝利の予感で身体中の血
が騒いだ。
 練りに練った作戦計画の大半がここに成就したのである。元就は快哉を叫び、すぐさま配下の川ノ
内水軍に厳島への渡航準備をさせた。
 元就は吉田郡山城の留守居を宍戸隆家以下八百の将兵に命じ、新しく支配下に入った備後甲山
城の山内氏と連携して尼子軍の南下に備えさせた。


 元就自身は嫡男隆元、次男吉川元春の二子と共に9月24日に銀山城を出発した。
 随従する将兵は毛利と吉川の軍勢に熊谷・平賀・天野・阿曽沼氏ら安芸国人衆の軍勢を合わせて
三千五百。
 毛利氏の水軍基地である草津に着陣した時、小早川隆景の率いる軍勢が合して、毛利軍の軍勢
は四千となった。
 それでも陶軍の軍勢二万に比べれば、わずか五分の一にすぎぬ。また、その水軍兵力は毛利氏
の直属水軍である川ノ内の警固船五・六十艘小早川氏の沼田水軍六・七十艘があるばかりであっ
た。
 それと、かねて助勢を約束している因島水軍の兵船を若干艘をあわせても、陶の軍船五・六百艘
には、及ぶべきもなかった。
 それはともかく、元就は草津へ着陣すると、すぐさま援軍を厳島の宮尾城救援に向けねばならな
かった。

 厳島へ派遣していた偵察の報告では、
「宮尾城はすでに水の手を切り取られ、城兵たちは渇きに苦しんでいる上に、城櫓も半ば敵兵に堀
り崩されて倒れかけている。城兵が銘銘の着物を裂いて作った大綱で、辛うじてその倒壊をつなぎ
止めているありさまである」と報告した。このぶんでは城はあと10日とは持つまい。

 そこで元就は26日、熊谷信直に兵船五・六十艘を率いて宮尾城へ行かせ、城兵の士気を鼓舞し
て援軍の到着を待たせた。
 宮尾城が落ちれば、せっかくの作戦も台無しになってしまうのである。


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