備後歴史雑学 

「西国の雄」毛利元就11「 陶隆房謀叛」

「 陶隆房謀反」

 晴天の霹靂というのは、まさにこのことである。
 天文20年(1551)8月28日、大内家譜代の重臣陶隆房が主家に反逆した。
 周防国富田に本拠を置く陶隆房が、兵を挙げて山口の大内館を襲い、主君義隆父子を長門の大
寧寺へ追い詰めて自刃させたのである。
 しかし、この8日前の8月20日に、元就は陶隆房と申し合わせて安芸佐東郡を占領し、銀山城か
ら大内氏の城番を退去させているのだ。
 同時に隆房も厳島と神領郡(佐伯郡)を占領しているのだから、あきらかに元就は隆房の謀叛に
加担していたことになる。
 さらに元就は、大内義隆が自刃に追いやられた四日後の9月4日に、義隆党の平賀隆保が拠る
安芸頭崎城(東広島市高屋長)を攻略し、隆保は逃れて、同じく義隆党の菅田宣真が城番として守
る西条槌山城(東広島市八本松)に入ったが、元就はこれを攻め落として、隆保を自刃させている。

 そればかりではない。鳥籠山城(広島市安芸区中野)の城主阿曽沼隆郷が義隆党であったので、
9月初めに熊谷信直と桂元澄の両将を派遣してこれを攻撃させている。
 このときは北方からも久芳(豊栄町)の領主久芳賢直が元就の意向を受けて隆郷を攻撃したの
で、阿曽沼氏の家中で和平論が起こり、隆郷を隠退させて毛利氏に降伏している。
 このように元就は、陶氏の大内義隆弑逆に乗じて着々と自己の所領を広げ、来るべき自立の時に
そなえたのである。
 現状では陶氏支配下の大内軍に反抗することが出来ないから、陶隆房の傀儡政権に味方するよ
うに見せかけていたのかもしれない。そして、十分実力を蓄えたところで、一発勝負に出る心積りで
あったと推察できる。


 周防・長門で宿敵大内氏の内部に内乱が起こったことを知った尼子氏は、再び南下政策が活況を
呈してきた。
 尼子晴久は翌天文21年4月、将軍足利義輝から出雲・隠岐・因幡・伯耆・美作・備前・備中・備後
八カ国の守護に任ぜられた。
 大内義隆に代わる中国地方の安定勢力と認められたのである。
 そこで、将軍家から授けられた権威に力を得て、早速備後国へ進出を開始したのである。

 年が明けた天文22年(1552)、尼子晴久は自ら大軍を率いて備後へ南下した。当時出雲国と国
境を接する山内氏は尼子氏の支配下にあったので、山内氏の居城甲山城(庄原市山内町本郷)を
足場に、三次地区へ侵略の手を伸ばした。
 三次地区の主要部を領有する三吉氏はあくまで毛利氏と提携の姿勢を変えなかったが、その東
南地域を勢力圏とする江田隆連は、たちまち離反して尼子方へ走った。
 江田氏は旗返城(三次市三若町)に本拠を構える国人領主で、東方に高杉城(三次市高杉町)と
いう支城を持っていた。

 同年4月、元就は毛利家に両川(吉川・小早川)の軍勢を加え、さらに平賀・和智・湯浅氏らの同
盟軍を率いて江田氏の攻撃に向かった。
 先ず江田氏の北端江田(三次市江田)を占領。
 5月になって、新たに尼子氏に寝返った湧喜(ゆき)城(口和町湯木)を攻め、萩川で尼子軍と交戦
した。
 7月になって再び鉾先を旗返城へ向けたが、尼子軍の援軍によって防備が堅固であることを知る
と、先にその支城である高杉城を落とし、そのあと旗返城を攻めている。
 旗返城が陥落したのは10月19日の夜半であった。
 ところがこのとき、この旗返城の戦後処理をめぐって陶氏との間に確執が起こった。


 元就は旗返城の陥落後、使者を陶晴賢(隆房)のところへ送って、旗返城を自分の手で守護した
いと願い出た。
 この頃元就は陶氏の遠隔操作で動いていたのである。
 陶隆房は、昨年の謀叛により大内家の傀儡当主となった大内晴英の偏諱を受けて晴賢と改名し
た。晴英は間もなく義長と改名している。
 晴賢は元就の願いを許さず、山口から部下の知将江良房栄を城番として派遣した。
 この頃になって晴賢は、やっと元就の意図を見抜き、元就が天文20年秋以来着々と芸備経略を
進めていることに、危惧の念を抱いた。
 毛利氏が強大になれば、これまでのようにリモートコントロールが出来なくなると思い、江良房栄に
毛利の動きを監視させようと思ったのである。
 すなわち、毛利元就と陶晴賢の連携プレーは、ここで終了するのである。


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