備後歴史雑学 

「西国の雄」毛利元就10「井上元兼一族の誅殺」

獅子身中の虫を粛清

 「少年の頃の屈辱」

 毛利家中には井上氏という強力な力を持つ一族がいる。
 代々の毛利家当主はこの井上一族の扱いに頭を悩ませていた。阻害すると割拠する恐れがある
ので、重用という形の懐柔策を取っている。
 ところが、元就の父弘元の死後、井上一党の元盛が元就の所領を奪い、元就主従を多治比猿掛
城から追い出してしまったのである。
 弘元がとくに目をかけ、「私の死後、元就の後見役を頼む」と懇願していたにも拘わらずだ。
 他の家臣たちも井上一族の力を恐れ、見て見ぬ振りを決め込むしかなかった。
 元就が11歳のときのことで、弘元の側室の一人で「大方殿」と呼ばれる女性が親身になって面倒
を見てくれたが、食うや食わずの貧乏暮らしを余儀なくされた。
「あの出来事が自分をしたたかに鍛えた」元就は真底、そう思う。
 井上元盛が急死したため、猿掛城への復帰が適ったが「人」がどんなものか判った。

 家臣の力が強すぎるのは、毛利家の弱点でもある。尼子・大内の両勢力の狭間にいるとはいえ、
毛利家も力をつけ始めている。
 将来の独立のためにも、家臣たちを完全に従わせなければならない。それには自身の力を見せ、
恐れさせることも必要だ。
 情けだけでは人はつけ上がる。
 毛利の両川体制も整い、吉川興経を誅殺したばかりである。
 元就が家督相続以来、耐えてきた三十余年に及ぶ井上元兼の横暴を、今こそ元兼一族を討って
将来の禍根を絶ち、支配権を確立するときだ。


 「井上一族成敗」

 「機は熟した。獅子身中の虫を成敗する」
 天文19年(1550)7月、元就は井上一族を除く主だった重臣を密かに集め告げた。
 大内家にも、その旨通達は出してある。
「はっ、しかし・・・・・」
「わしが計り続けてきた(機)がある。毛利家の力も上がりつつある。雄飛の時を控えた今、井上一
族を野放しにしておくことは、足かせ以外の意味はない」
 元就が毛利家当主となって以後も、井上一族の横暴は止まない。井上一族が絡んだ揉め事に関
して、元就が裁定を下したが従わず、反対に元就を非難した。
 年賀の挨拶は元より、他の評定の際にも公然と欠席する。
 理由をつけて、軍役や普請を怠る上に、税も納めようとはしない。
 公領、寺社領を横取りして澄まし込んでいる。
「己れ、許さずにおくものか」

 井上一族の傍若無人な振る舞いに、元就は歯を食い縛って耐えてきた。が、精強な手勢を多数抱
える井上一族との戦いは、余程腹を括り、しかも迅速に決しなければならない。
 その下地は出来た。と元就は確信している。
 元春の吉川家、隆景の小早川家、そして、元就が陣営に引き入れた安芸の豪族たち。
 毛利は井上一族の力を必要としなくても良いまでに成長したのだ。
「機は熟した」のである。


「隆景の所まで使いに行ってくれぬか」
 元就は井上元有を呼び出して、小早川家への使いを頼んだ。隆景には意を含めた使者を送ってあ
る。
 井上一族に決起の機会を与えないためにも、個別に討ち取ることが望ましい。
 隆景は巧みに元有を殺した。7月12日のことである。

 翌13日には、井上就兼を郡山城へ招いて、これを元就の命を受けた桂就延が殺害すると、直ち
に福原貞俊・桂元澄ら家臣の率いる三百余騎の軍勢で井上一族の城を攻めさせた。
 棟梁の井上元兼は決死の抵抗をしたが、元兼父子および一族三十余人をことごとく斬殺したので
あった。
 元就は家中に「井上一族誅殺」の旨を発表。誅殺に至った経緯も話した。
 重臣たちは、誅殺に賛成する起請文を元就に差し出した。
 元就の苦衷に、家臣たちはその正当性を認めていたに相違ない。

 元兼一族の誅殺は、明らかに国人の基本的対等関係を、一挙に覆した元就のクーデターであり、
家中の絶対的支配権を確立するものだったといえよう。


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