備後歴史雑学 

「西国の雄」毛利元就9「安芸経略」


 毛利氏は元就の父祖の時代から、安芸国内の国人領主との間に一揆契約を結び、しばしば毛利
氏が一揆のリーダーをつとめている。
 また、元就の兄興元の時代だが、永正9年(1512)3月に毛利氏は安芸の有力国人領主八人と
一揆契約を結んでいる。
 元就は大永5年(1525)6月に、志芳庄(志和町)の天野興定と起請文を取り交わして契約を結
び、元就の嫡子隆元も興定の嫡子隆綱と天文18年(1549)12月に契約を結んで両家の結びつき
を一層強化している。

 元就は隣国の宍戸氏とは、姿勢を低くして自ら元源に誼を求め、自分の長女と元源の孫隆家との
婚儀をとりまとめ、その隆家を通して備後の山内氏とも契約を結んだ。
 同じく隣国可部新庄の国人領主熊谷氏とは、有田合戦で敵味方に分かれたが、その後熊谷氏が
武田氏と仲たがいしたとき接近して、天文16年7月に次男元春と熊谷信直の娘と結婚させている。


 「毛利両川体制へ」

 天文15年(1546)元就は嫡男の隆元に家督を譲り隠居した。まだ50歳になったばかりだから、
老け込む年齢ではない。
 実際隠居とは名ばかりで、実質的な采配は元就が振るっていた。元就の隠居には理由がある。
 毛利家は現在、親大内の立場をとっている。山陰の尼子の脅威はまだ去っていないから、大内氏
との結びつきはより強固にしておかなければならない。
 それには、大内義隆の元で人質になっていた隆元を当主に立てておく方が、大内家の受けが良い
はずである。
 そして、もう一つの理由。自身が鷲の頭になることである。
「胴体が隆元。両翼は元春と隆景」である。

 隆元は、優しく多少鷹揚なところがあるが、人質を経験しているので忍耐も兼ね備えている。
 次男の元春は、腕力が強く気性も真っすぐだ。物事をあまり考えず、こうと決めたらすぐ実行に移
す。恐れを知らぬ性格らしい。
 三男の隆景は、機略に富んでいる。物事を表面だけで判断しようとせず、常に裏を考えてみる。
「三人の内、誰が大将としての器か」元就は、嫡男の隆元を跡継ぎに決めた。
 隆元は「待つことの勇気」を持っているからだ。これからの鍛え方次第では、腰の据わった立派な
大将になる。
 元春は、大将の下知で働く武将としてなら力を発揮することが出来る「猛進の将」として恐れられる
に違いない。守っても鉄壁の構えで容易に崩れないだろう。
 戦略を考え策を献ずる役には、隆景がピッタリだ。参謀役として頼りになる。また、相手の権謀術
数にひっかかることもない。
 と、元就は考えたのである。


 元就が養子を他家に入れることによって確立した体制を「毛利両川体制」と呼ぶが、これは元春と
隆景が継いだ吉川・小早川の両家の「川」をとったものだ。
 先に他家を継いだのは、三男の隆景である。
 小早川家は領地により、竹原小早川・沼田小早川の二家に分かれていた。本家は沼田小早川で
ある。
 隆景は最初、竹原小早川家の養子となる。当主の興景(妻が元就の姪である)が病で死に跡継ぎ
がいなかったからだ。
 さらに沼田本家でも、当主の正平が出雲遠征の殿役で戦死した。家督は子の又鶴丸(のち繁平)
が継いだが、この子は生まれつき視力が弱く、武将として世に立つことは出来そうにない。
 元就は最初、隆景の小早川入りを拒んだが、大内義隆の要請もあり、三男を手放すことに決め
た。
 時に天文13年(1544)11月。隆景12歳の時である。

 隆景はこの七年後に沼田本家に入るが、このときには元就は強引だったようだ。反対した家臣は
ことごとく殺し、繁平も剃髪して仏門に入ってようやく決着した。
 隆景が沼田を継いだことにより、竹原も本家に合して小早川氏は一本化され、小早川水軍により
瀬戸内海が開けた。
 これにより小早川家は名実共に毛利家の傘下となる。


 元春が吉川家の養子に決まったのは、天文17年(1548)のことである。
 元春19歳のときであった。
 吉川家は元就の妻(天文14年11月30日死去。亨年47歳。法名は妙玖)の実家で、両家は縁戚
関係にあったが、興経が当主となってから、毛利家と敵対するようになった。
 興経が尼子氏を後ろ盾と頼んで、親大内の元就に激しい対抗意識を燃やしたからである。
 興経には元就を倒し、安芸の支配を自身が握りたいという野望があったのである。
 元就も興経が妻の甥に当たるだけに、吉川家には手を出せずいたが、妻の死後、着々と手を打っ
ていたようである。

 吉川家老臣の一部が密議して、興経の隠居を画策し、毛利氏の元春を養子に迎えたいと元就に
相談したというのである。
 興経には嗣子がいたので、まずは後継者にこれを立てるのが普通だが、元就のところに持ち込ん
だところに謀略の匂いがする。
 吉川家の重臣たちと計らい、興経を隠居させ、元春を吉川家に入れた元就は、興経を毛利領内で
監視しつつ隠居生活を送らせていた。
 元就は家来の熊谷信直らに命じて興経を襲わせ、側近もろとも実子の千法師も殺してしまった。
 悪い噂をまき散らしたのは毛利の忍者だったらしい。
 元就は足軽の名目で、世鬼一族をはじめとするおびただしい忍者を養い、以後もさまざまな場面
で暗躍させている。
 まさに知謀の将というにふさわしい情報活動と謀略手段として、彼らを駆使したのである。

 こうして瀬戸内海水軍をかかえる山陽の小早川、山陰に蟠居する吉川を手中におさめ、毛利の両
川体制を確立したのである。


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