備後歴史雑学 

[真田伊豆守信之]

 真田信之は真田昌幸の長男として、永禄9年(1566)に誕生した。
 母は菊亭右大臣晴季の娘で、山之手殿と呼ばれた女性であるとされる。
(一説には、信之の母は石田三成の妻宇田氏の姉妹だったとされる)
 はじめ源三郎信幸と称した。幸を之と改めたのは関ヶ原以後、逆賊となった父昌幸の名を憚った
ためであろう。源次郎幸村(信繁)は、一歳違いの同母弟である。
 菊亭晴季は当時の公卿には珍しいなかなかの野心家で、のちには豊臣秀吉に取り入り、秀吉を
関白に押し上げた人物として知られる。
 娘の一人は関白秀次の正室となっており、いま一人は肥前の有馬晴信に嫁している。

 昌幸が信州上田、上州沼田の二城を手中に収めた。天正10年(1582)信幸に沼田城を守らせ
た。
 三年後の天正13年の春、家康と結んだ北条氏直の軍勢が沼田城を攻めたとき、信幸は勇戦して
敵を破った。
 信幸にはふしぎに人を惹きつける力があったらしい。天正17年、真田昌幸が家康と和睦し、長子
信幸を人質として駿府へ送ったところ、家康は一眼みて信幸に惚れこんだ。
 信幸がまだ妻帯していないと知ると、本田忠勝の娘で、当時評判の美女小松を自分の養女とした
上で、信幸に縁づけた。
 小松は美しいばかりでなく、父忠勝の薫陶を受けて肝ぶとく、大将の妻女として申し分のない女性
であった。
 夫婦仲はまことによく、小松姫は信幸との間に信吉・信政・信重と女子二人を儲けた。大蓮源夫人
と称された人である。
 その後、秀吉によって従五位伊豆守に任じられ、そのおり弟幸村(信繁)も従五位下左衛門佐に
任ぜられている。

 信之が人生の大半を、ひたすら真田の家名を残すために忍従の日々を費やすことになったのは、
関ヶ原合戦で父の昌幸と弟の幸村が三成方に味方したことに端を発している。

 犬伏で父子・兄弟と袂を分かった信幸は、中山道から関ヶ原へ向かう秀忠軍三万八千に従って、
父や弟が籠城する上田城へ降服を勧告する使者にたっている。
 しかし結果は、秀忠軍は真田勢に翻弄され、手痛い敗北を喫してしまった。
 家康は向背つねない昌幸をこの際、片づけてしまうのが得策と考えていた。昌幸・幸村を憎んでい
る秀忠も助命を拒むに違いない。
 信之は父や弟の助命嘆願に奔走した。岳父の本田忠勝の力もかり、
「戦功もいらぬ、父を誅するなら、まずわが命を召してほしい」
 と家康へ必死に嘆願し、昌幸・幸村は罪一等を減じられ、紀州高野山に配流された。蟄居先での
生活費はもっぱら信幸からの仕送りに委ねられた。
 信之の功労に対し、家康は沼田領二万七千石に加えて昌幸の旧領三万八千石を与え、さらに三
万石を加増して九万五千石の大名となって上田城へ移った。

 昌幸は配流されて11年目に65歳で没した。三年後、幸村は豊臣秀頼の招きに応じて大坂城に
入り、冬の陣・夏の陣で華々しい活躍をして、世に、
「真田日本一の兵つわもの」と称賛された。
 これが、信之をまた苦しい立場に追い込んだ。
 信之はこの頃病気で出陣できず、長男の信吉と次子の信政に兵を与えて出陣させたのが誤解を
生んだ。
 仮病ではないかと疑われ、病気を押して江戸へ行き将軍に拝謁したり、出陣する子らを激励したり
して、誤解を解くのに苦労している。
 尚、将軍秀忠は、昌幸・幸村の助命を不快として、その後は一度も信之に対して笑顔をみせなか
った、と伝えられるほどである。
 しかし信之は、生涯一度も弟幸村への不満をもらさなかったという。
 大坂の陣のあと、処遇を逆恨みした真田の家臣が、信之が大坂方と内通していたと江戸へ訴える
事件が起こったが、凛とした強気の姿勢で疑惑をはね返している。

 大坂の陣の翌年、信之は沼田城を長男信吉に譲り、自分は上田に移った。以後、領内経営に没
頭することになる。
 元和8年(1622)9月、信之は突如松代に転封を命ぜられ、父祖の地ともいうべき上田を離れるこ
ととなった。
 関ヶ原以来、真田によい感情をもっていない秀忠の嫌がらせだという説もある。
 このとき四万石加増され、十三万石となった。命ぜられるまま信之は松代へ移って行ったが、検知
帳などはすべて焼却して、上田の新領主仙石氏に引き継がなかったという。せめてもの抵抗であっ
たようだ。
 沼田三万石を長子信吉に、松代十万石を嗣子信政に譲ったが、その後、子らに次々に先立たれ、
孫も夭折したりして、しばらく家督の落ち着かない時期がつづいた。
 正室小松姫は大坂夏の陣の起こった元和元年に、数えの48歳で世を去った。
 また、信政が松代藩主となって二年目に亡くなると、跡目相続の争いが起き、家臣が二派に分か
れ、あわや幕府の介入を招こうという騒動にまで発展したが、そのとき信之が乗り出し家中の意向
を統一して、幕府に嘆願し相続が許された。

  信之は病身ながら93歳まで生きたその生涯は、昌幸・幸村からゆだねられた家名をひたすら守
り抜く強い意志に貫かれていたといえる。
 松代城の前身は、武田信玄が川中島の合戦のための軍事拠点に築城した海津城である。
 信之が城主となる前は、しばしば城主が代わっていたが。その後は真田氏十代の居城として明治
維新を迎える。


         [真田家試刀会]へ続く
 松代藩第八代藩主「真田幸貫」(寛政の改革を主導した松平定信の次男で、江戸幕府第八代将
軍・徳川吉宗の曾孫に当たる)の時代に行なわれた、真田家試刀会の様子を記載します。
 幕末の超有名刀工、大慶直胤対山浦真雄(源清麿の兄)の刀試し。


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