備後歴史雑学 

真田六文銭異聞

[真田信繁]


 講談などの影響で真田幸村の名で広く知られているが、信繁直筆の書状を始め、信繁が生きてい
た同時代の史料で「幸村」の名が使われているものは存在しない。従って歴史上の人物の名として
は「信繁」が正しい。

 ここでは名が通っている幸村で記載します。

 俗に「真田三代」というと、真田氏の初代真田幸隆と二代当主の昌幸、そして昌幸の二男である
幸村を指していう。
 本来三代目とされるべきは、真田家の家督を継ぎ、幕末まで家名を残した昌幸の長男の信之(関
ヶ原のあと信幸から信之に改名)なのだが、三代と称されるときは、幸村に体現されている真田流
の生き方、戦術、戦略の痛快さこそが真田一族の真骨頂であり伝統であるとみて、信之をはずして
幸村を指していう。

 真田の戦法は創意に満ち、大敵を縦横に翻弄する智謀知略に富んでいることで知られている。
 この真田一族の胸のすくような戦ぶりを最も見事に、ドラマチックに体現してみせてくれたのが幸村
といえる。
 幸村は真田家二代目の当主昌幸の二男で、永禄10年(1567)の生まれと思われる。
 母は菊亭右大臣晴季の娘。幼名をお弁丸、のちに源次郎信繁といい、左衛門佐とも称した。

 初代幸隆は武田信玄に臣従して奇智奇略を駆使して戦功を重ね、ついに武田二十四将に数えら
れる重臣となっている。
 武田氏滅亡後、上信国境は東西の要衝の地として北条・上杉・徳川ら列強の格好の標的となっ
た。
 幸隆の死後、二代目の昌幸はこうした列強の間にはさまれ、もまれながら臨機応変に主をかえつ
つ先祖以来の本領を含む小県郡と上州沼田の地を死守、六万五千石の領地を守り切った。

 天正13年(1585)には、沼田の領有をめぐって徳川家康と対立し、上杉景勝を頼った。
 昌幸はこのとき臣従のあかしとして幸村を春日山城に送っている。
 上田城に籠った真田勢は、徳川軍を撃退して天下に真田の勇名を馳せている。

 昌幸は秀吉の急激な台頭を見て、上杉景勝に属しているより、秀吉に仕えたほうが得策であると
考え、翌天正14年上杉景勝が上洛している留守に幸村を上田城に呼び返し、今度は秀吉のもとに
やはり人質として送り込んだのである。
 幸村は人質という形ではあるが、秀吉のもとで生活することになった。

 幸村の初陣は天正18年の小田原征伐のときで、父昌幸に従い、上杉景勝・前田利家らとともに
北から小田原城にせまり、松井田城を攻めている。

※以後関ヶ原合戦は、過去記事を参照してください。

関ヶ原合戦シリーズ1「真田昌幸と上田城の戦い」

関ヶ原合戦のあと、長男信之は自分の戦功にかえて父と弟の助命がかなうよう懸命に家康に嘆願
した。
 岳父の本田忠勝ともどもの嘆願に、家康もついにこれを容れて昌幸・幸村父子は紀州高野山に配
流と決まった。

 高野山にはいった幸村らは、まもなく麓の九度山の地に移った。
 生活費は信之が送っていたが、つき従ってきた家臣と家族が暮らすには足らず、一族や家臣らの
縁者からの臨時の合力によるところが大きかったという。
 隠棲生活を送ること十余年の慶長16年(1611)の夏、昌幸が65歳で没した。

 幸村はもう四十の半ばを過ぎていた。昌幸の死の前年、赦免工作の頼みだった本田忠勝が没し、
蟄居生活から解放される望みはさらに小さくなった。
 大坂城の豊臣秀頼から招きがあったのは、こんなときであった。

「戦場で見事武士の面目を貫きたい」
「徳川なにするものぞ!」
 かって二度も徳川を相手に勝ったという自負があった。
 なお一説には、秀頼が幸村を大坂城に招くにあたって、「五十万石の大名として取りたてよう」とい
う約束をしたともいう。

 昌幸の死から三年後の慶長19年10月10日、幸村は密かに九度山を下り手勢百三十名ほどを
率いて大坂城に入った。
 諸大名はまたも徳川方についてしまい、大坂城に集まったのは、もと大名他、高禄を食んだことの
ある武将ほか牢人およそ十万。徳川方の兵はその三倍の三十万だった。
 軍議の席で幸村は出撃論をとなえた。しかし容れられず、結局籠城戦と決した。
 幸村は城の南側を攻め口と予想し、そこに真田丸と称される出丸を築いて五千の兵(六千とも)と
ともに守った。

 この年の11月に冬の陣が始まった。
 12月4日の早朝、前田利常と松平忠直の軍勢が真田丸に攻めかかった。
 幸村隊は敵を十分に引きつけ一斉に鉄砲や矢を射かけ、寄せ手をさんざんに討ち倒した。
 冬の陣のときの徳川方の死者総数の五分の四が、この真田丸の攻防戦でのものであるという。
 徳川軍の圧倒的優位のなかで、大坂方が胸のすくような勝利を味わえたのは真田丸の攻防戦だ
けともいえそうであった。


 四ヵ月後に起こった大坂夏の陣の折も幸村は、毛利勝永・後藤又兵衛らと道明寺・誉田で激戦を
繰りひろげた。
 翌日の5月7日、豊臣方戦況不利のなかで徳川方の総攻撃が始まった。
 このとき幸村隊は、全員朱の具足を着用した三千余(三千五百とも)の兵を率い、天王寺口にほど
近い茶臼山に陣を据えていた。
 この幸村隊に相対したのは松平忠直隊一万三千(一万五千とも)である。

 幸村隊はこの忠直隊と正面衝突し、それを突破してその背後の家康本陣に突っ込んだのである。
 家康の周囲にいた旗本たちは、予想だにしない事態に防戦することも忘れ、家康を囲んで逃げる
のが精一杯だったという。
 幸村は捨て身の猛攻を繰り返した。
「家康の首さえ取れば戦局はがぜん有利になる」とよんでいた。

「真丸に成りて」一文字に打ち込んで来た幸村隊の攻撃によって、家康の旗本が崩され、家康自身
かなり危険な状態に追い込まれた。
 二度も旗本隊を突き崩したが、三度目に押し返されてしまった。
 三千余の幸村隊は大幅に減ってしまっていた。幸村自身も負傷していた。

 幸村の近くには真田勘解由・高梨主膳・大塚清安らわずかの臣がつき従っているだけで、乱戦の
中でバラバラになってしまった。
 幸村主従が戦いに疲れ、田の畔に腰掛け一息入れているところへ、松平忠直隊の鉄砲頭西尾久
作が通りかかった。前日来の戦いで疲れきっていた幸村主従は、この無名の士とういうべき西尾仁
左衛門久作に首を取られてしまったのである。

 敵方でありながら、島津家久は国元への手紙の中で幸村を、
「真田日本一の兵」と称賛し、
「異国はしらず、日本にはためし少なき勇士なり、ふしぎなる弓取りなり」
 と賛辞を惜しまなかった。このとき幸村49歳であった。
 真田の武名は一気に天下に高まったのである。


 追記
 大事なことを記載するのを忘れていました。

 [幸村の影武者]
 大坂夏の陣のとき、幸村の影武者は七人とされていますが、実際にはその倍くらいはいたらしい。
[真田三代記]に幸村の仕立てた七人の影武者の名が記されています。
三浦新兵衛国英・山田舎人友字とねりともよし・木村助五郎公守・伊藤団衛門継基・林源次郎寛
高・鵤いかるが幸右衛門祐貞・望月六郎兵衛村雄である。

 幸村はこの七人に六文銭の甲冑を着けさせ、同じいでたちをさせて、五十匁の鉄砲を十挺ずつ
と、兵を二百騎つけて「差図があり次第打って出よ」と命じた。
いざ合戦がはじまると、六文銭の甲冑を着けた武者が、
「われこそは真田幸村なり」と大音声に呼ばわり、東軍の陣へ突撃して行った。
「あれが名高い幸村か」と、目の前に現れた騎馬武者に驚いていると、右からも、左からも同じ名乗
りが聞こえ、また背後からも幸村たちが現れる。
 まるで一つの体が七分割されたような、見事な分身の術に、敵はさんざんに翻弄される。
 影武者と呼ばれた者は、この七人の他にもいる。真田家重代の功臣である穴山小助は影武者の
筆頭として重要な役割を果たした。


[真田三代記]の「穴山小助身代討死の事」のもあるが、他の史料にも穴山小助戦死の模様が記載
されているそうです。
 六文銭の旗を押し立てた三百ばかりが、家康本陣めがけて斬りこんできた。
「われこそは真田幸村なり」すわ幸村逆襲、と本陣は騒然となった。死闘は半刻ほど続いたが、わ
ずか三百の穴山隊は次々に討たれ、幸村の従者も討死した。
 幸村(小助)は勇猛に戦ったが、全身に疵を負いもはやこれまでと、太刀を口にくわえ、池の中に
まっ逆さまに身をおどらせ、自刃している。
 引き上げて調べてみると、影武者の穴山小助であった。

 同じく影武者の根津甚八も「真田左衛門佐、今日爰に戦死す」と呼ばわり、群がる敵を縦横に蹴散
らし、八騎まで突き落としたが、加賀勢の本田安房守の手にかかって討死している。
 このように、幸村の影武者が次々現われては討死を繰り返した。

 家康もたまりかねて、
「この前、幸村は戦死している。首実験の上、真田信幸に渡したので、この上、幸村と名乗る者が出
ても、それは皆偽者である」という触れを出している。


トップへ戻る     戻る     次へ


inserted by FC2 system