備後歴史雑学 

[明智光秀]4[山崎の合戦]

明智光秀は本能寺の変後、いち早く信長の死を北国の上杉氏、四国の長宗我部氏、毛利氏
等信長の武将が相対して戦っている敵方に、使者を走らせ通報した。

 備中高松で秀吉と対峙している毛利氏へは、光秀旗下でも健脚で知られる藤田伝八郎光政を密
使として送った。
 もう一人、尼子氏の牢人原平内をして輝元の家臣杉原盛重へ知らせたが、この使者は途中手間
取り届いたころは高松城は落城していたという。
 藤田伝八郎は3日の午後十時ころ、秀吉軍に捕らえられてしまったのである。
 主君信長の死を知った秀吉は、これを秘して毛利方と和睦をはかり一転して姫路へ取って返した。
秀吉勢の全軍が姫路城に帰陣したのは8日午前であったという。

 光秀は細川・筒井の許へ二の使者、三の使者を送ったが、
「いかに岳父なればとて、恩義を忘れて謀反の大罪を犯せしは天日ともに戴かぬところなり」
 と、藤孝・忠興父子は激越な文言で、きっぱりと断ってきた。
 細川氏との交誼は、越前におけるときに始まっている。娘を与えたのも莫逆の友と思えばこそであ
った。その信義を踏みにじられたのだ。
 公家侍として、調子のよい細川藤孝の心奥まで見抜けなかったところに光秀の悲劇がある。
 筒井順慶のほうは、多少の色気が見えた。使者には引き出物を与え、出陣を口約束したが、文書
や人質の裏付けはなかった。
 山岡兄弟は、悪疫に罹って出陣不能と言ってきた。
 前記の織田七兵衛信澄はいち早く味方を約束したが、三七郎信孝に討たれてしまった。
 信長の三男信孝はこのとき、四国征伐の大将となり一万五千の兵と指揮官の丹羽長秀と共に堺
に居て、先鋒の三好康長はすでに四国に在った。
 このとき本能寺の変を知った信孝の部下の大半は逃走したという。(信長の次男信雄は部下の大
半を四国攻めのため信孝に預けていた。この信雄隊が離反したものと思われる)
 長秀と信孝二人は、光秀に対抗の気構えをみせていたものの手勢少なく、ためらっているところへ
秀吉が尼ガ崎に達したので、これに加わることにした。
 さらに摂津茨城の中川瀬兵衛、高槻の高山右近大夫、大坂の池田勝入斎父子が秀吉軍に加わ
った。

「・・・内蔵助、順慶は動かぬか」光秀はいらいらしたように、そこらを歩きまわった。
 謀将斎藤内蔵助は立って、洞ガ峠を仰いだ。
「残念ながら、いまだ・・・・・」
「む。鵺め!」光秀は歯がみした。
そこへ大坂へ放っていた細作が駆けもどり、光秀に注進した。
「秀吉ははや姫路に退陣いたし、大兵を催し、西国道をひた押しにのぼって参る様子にござります
る」「なにそれはまことか」光秀は思わず床几から立ちあがった。
 急ぎ山崎へ立ち戻るぞ。

 山崎は標高270メートルの天王山の東南麓に位置し、桂川・宇治川・木津川が合流して淀川とな
る右岸にある。
 平安建都以来、大坂と山城を結ぶ隘路部として重要視され、古来から関が設けられていた。天王
山の北には円明寺川を隔てて勝龍寺城があった。もとは暦応2年(1339)細川頼春が築城したも
ので、平城ながら高い土居で囲み、内外に堀をめぐらし五稜形の堅固さを誇っていた。
 この勝龍寺城の左翼を扼する拠点が、淀川の三川合流点にあった淀城である。光秀は勝龍寺城
と淀城を修築して、円明寺川沿いを前衛線と仮定した。
 おそらく秀吉は、淀川と天王山にはさまれた狭い山崎の街道を縦長の隊形で進撃してくるに違い
ないと判断していた。
 羽柴方の軍勢は、第一陣高山右近の二千余人、第二陣は中川瀬兵衛清秀の二千五百、第三陣
は池田勝入斎恒興の五千余、第四陣は丹羽長秀の三千余、第五陣に副大将三七郎信孝の四千
余、第六陣は総大将羽柴秀吉の手勢二万余が本陣を固めた。
 手勢の損傷を少なくする秀吉の老獪な陣立てぶりである。合計四万(実数三万とも)にもなろうかと
する秀吉軍に対して明智勢は一万六千(実数一万三千とも)であった。


 「決戦」
 光秀は山崎表の先鋒として、斎藤利三・柴田源左衛門らの近江衆五千人。その右翼に山の手先
鋒として松田太郎左衛門・並河掃部らの丹波衆二千人。
 本隊右備えに伊勢与三郎・諏訪飛騨守・御牧三左衛門らの旧室町幕府衆二千人。本体左備えに
津田与三郎の二千人を置く。
 本隊兼予備隊は、総大将の光秀が五千人を率い下鳥羽に布陣した。55歳の光秀の体内に、熱
い血潮がかけめぐった。

 6月12日、秀吉は富田の陣所で戦評定を開いた。ここで高山右近と中川清秀が先陣を争った。
「敵に近き城主を先陣と定めるが作法にござろう。それがしは高槻の城主なれば、京口を攻むるに
先手を承ってしかるべきと存じまするに」と、高山右近は主張した。
 秀吉は右近の言をとったが、中川清秀の希望もいれてやった。
「瀬兵衛殿は二陣なれども、天王山を取り抱えるがようござるだわ。さすれば高山が陣とともに一番
合戦ができるだで」高山・中川は勇みたち、ただちに山崎へ出撃していった。
 13日の朝になったが、大坂から神戸信孝・丹羽長秀の来着が遅れていた。秀吉は軍勢のほとん
どが富田を出陣したのちも待ち、巳の刻(午前十時)頃、二人は着陣した。
 ここで総大将は秀吉、副大将は信孝ということが決定した。
 秀吉は信孝・長秀とただちに天神馬場へおもむいた。山崎の隘路には羽柴勢の主力が密集して
いた。

          ↓天王山       ↓勝龍寺城        ↓淀城

             山崎↑   ↑淀川        ↑桂川↑宇治川↑木津川

 光秀はこの日の朝、下鳥羽から五千の予備隊を率い勝龍寺城の南西の御坊塚まで陣を進めた。
山崎の前面に布陣する味方と合流し、総力をあげて羽柴勢にあたる方針に切りかえたのである。
 御坊塚は、斎藤利三らの陣所から五町ほど後方で、深田に囲まれた要害の地であった。

 申の七つ(午後四時)頃、静まりかえっていた惟任勢右翼が色めき立った。山の手先鋒の松田太
郎左衛門と並河掃部率いる二千の部隊で鬨の声があがり、法螺貝・寄せ太鼓の音が湧きおこっ
た。
 光秀の予備隊が、松田・並河に続き御坊塚から急速に進撃した。光秀は斎藤利三と相談した結
果、天王山を放棄して隘路を縦長で進撃してくる羽柴勢を逐次、繰り引きの戦法で攻撃することにな
っていたのだが、天王山にいる敵が弱体と知ると、急遽作戦を切りかえた。
「なんということをいたせしか。いま動いては、敵に乗ぜらるるものを。御大将のご武運も、これまで
にありしか」山崎表先鋒の陣所で、羽柴方から戦闘を仕懸けさせようと満を持していた斎藤利三は、
手にした鞭を床几に叩きつけ、歯ぎしりをした。
 敵を攻撃すべき好機は、敵勢が攻め寄せて来る時、諸隊の隊形が整わずに混乱動揺している時
とされている。
 利三はそのような古来の陣法に従い、前面に長蛇の列をつくって現れる羽柴勢を攻撃するつもり
であった。
 だが、右翼の味方が突然申しあわせを破って攻めかけ、予備隊までが行動をともにしたので、情
勢は一変した。

 山の手先鋒の松田・並河の部隊が、さかんに鉄砲を放ち、寄せ太鼓を乱打しつつ、二十町ほど離
れた天王山麓の羽柴勢にむかい突撃した。
 彼らにつづき、水色に桔梗の紋を染めぬいた九本の旗差物を押したてた光秀の予備隊が、密集
隊形で円明寺川を水しぶきをあげて渡り、「えい、えい、」と武者押しの声をあげ前進していった。
 半刻前、松田の使者が御坊塚へ馬をとばしてきて、天王山前面の敵が意外に寡勢であるため、こ
れを一気に蹴散らし、山頂を占領したいと申し出た。光秀はただちに決断を下した。
「あいわかった。猶予せず打って出よ。われらが人数も、ともに天王山を取り抱えに参るべしと、太郎
左衛門に伝えよ」
 光秀は山崎の節所を、縦列で通過してくる羽柴勢を迎撃するという、斎藤利三の地味ではあるが
手堅い戦法に、はじめは同調していた。
 だが、四万に及ぶという大兵力を相手では、敵に大打撃を与え得たとしても、次第に力負けして押
し切られると考えざるを得ない。
 光秀はこの一戦に勝には、奇襲を敢行しるしかないと、見ていた。松田の注進をうけ、とっさに決
断したのである。
 天王山を奪えば、眼下の西国街道に充満している羽柴勢の側面へ、なだれをうって斬りこめる。そ
うなれば羽柴勢は分断され、大混乱に陥る。その機に本陣を襲えば秀吉の首級をあげられるかも知
れない。
 山崎の前面は、老練な斎藤利三が、左備えの津田与三郎とともに支えている。
 斎藤の右備えの伊勢与三郎ら旧幕府衆も、信頼するに足る精鋭であった。
 援軍の望みが絶たれた今、頽勢挽回の機はいまをおいてないとこれに賭けたのである。

 天王山東麓に布陣する中川清秀の部隊は、地響きをたて押し寄せてくる惟任勢が一町の距離に
迫ったとき、鉄砲の筒先をそろえ、猛射をあびせた。
 松田・並河旗下の騎馬侍衆が、暴風のような銃撃をうけて馬上から薙ぎ倒される。惟任勢は歯を
剥き出し、怒号して突撃していった。
 惟任勢の猛攻に耐えかねた中川清秀は、天王山の斜面を後退した。
「それっ、いまじゃ、まっすぐ突き抜け」松田・並河の諸隊は、いきおいに乗って荒れ狂い、中川勢を
山頂へ圧迫してゆく。
 戦場の左翼山の手に布陣していた羽柴秀長は、中川勢苦戦のさまを見て、組下の黒田官兵衛・
神子田正治に命じた。
「あの敵に横槍を入れよ」
 黒田・神子田ら秀吉旗本勢二千余は、鬨の声をあげ、山手から駆け下り惟任勢の右手をめがけ突
入した。
 状況を見ていた秀吉は、まず加藤光泰・池田恒興を桂川の南岸伝いに惟任勢陣所の後方へ迂回
させたうえで、全軍突撃を命じる合図の大花火をあげさせた。
 中の手筋・川手・山手に待機していた羽柴勢は。一斉に鉄砲を放ち、喊声とともに敵陣へ殺到し
た。小細工をすてた、秀吉が得意とする山津波のような人海戦術であった。

 惟任勢の各陣所では、指揮官を中心に円陣を組み、最後の働きを見せようと死にもの狂いの反撃
に移った。
 斎藤利三は兜の忍び緒を締めなおし、采配を振りおろした。
「繰り引きにてこなたより押しかけ、斬りまくれ」
 利三に率いられる近江衆五千人は、まっ黒にむらがり寄せてくる羽柴勢めがけ、果敢に斬りこんで
いった。
 もはや持久戦は不可能であった。劣勢の惟任勢は左右に分断され、敵兵の渦の中に取り込まれ
ていた。
 惟任勢は劣勢にもかかわらず、一歩も退かず奮闘し幾度か羽柴勢を潰走させた。
 斎藤勢は、高山右近・加藤作内・中村一氏ら羽柴の諸隊に正面から激突し、先手と後詰が絶えず
交替する繰り引きの戦法で、槍先に火花を散らし、喚き叫んで懸命に渡りあった。
 だが川手から迂回した加藤光泰・池田恒興の部隊が斎藤勢の左側面へ突入し、無二無三に突き
たてると、堅固な内陣が崩れた。
「それ今じゃ、名ある者を討ち取り、功名をあげよ」高山右近が大音声で下知すると、家来たちは馬
首をたてなおす士分を狙い、ひきずり落して首級を取る。
 目立つ馬標をつけた騎馬武者は、功名を競う羽柴勢の好餌となった。
「退くな、退くな。退かば殺さるるぞ。離れずまんまるになれ」
 利三は崩れかける陣形を纏めようと、駈けまわったが、羽柴勢の旗差物が後方に充満し、四方を
包囲されたことが分かると、将兵は大将の制止も聞かず、われがちに逃げはじめた。
「もはやこれまでじゃ。殿の人数と一手になり、最期のひと当てをいたそうず」
 利三は身辺に踏み留まったわずかの将兵を率い、羽柴勢の白刃の下をかいくぐり、光秀の姿をも
とめたが発見できなかった。
 二刻半(5時間)の激闘のうちに、惟任方は伊勢与三郎・諏訪飛騨守・御牧三左衛門尉らの諸将
が戦死し、ついに総崩れとなった。
 光秀は旗本衆をまとめ、秀吉本陣を目指そうとしたが、見る間に家来たちに逃げ散られ、やむなく
勝龍寺城へ退却した。
 惟任勢は戦場から近江・丹波の方角へ逃げ走った。羽柴勢は久我縄手、西岡・桂川・淀・鳥羽へ
落ち延びようとする敵を急追した。
 追ってが兵力に勝っているため、追撃戦は惟任勢に甚大な打撃を与えた。
 戦場での戦死者は惟任勢三千余(他説では三千七百余)人、羽柴勢三千三百余人であったとい
われている。惟任勢は三倍の敵に対して、互角以上に戦ったが壊滅状態になった。
 光秀は溝尾庄兵衛らの近臣とともに勝龍寺城に入ったが、入城できた将兵の数は千に満たなか
った。

 光秀は本丸櫓から城の四方を埋める羽柴勢の篝火・松明の海のようなひろがりを眺めていた。
 三千余人の同勢に円陣をつくらせ、天地をとどろかし最後まで戦っていた斎藤利三は、行方が知
れないままに、はぐれてしまった。
 光秀旗下の猛将として知られた藤田伝五も、全身に疵を負い、弟・子息ほか郎党四百七十人とと
もに討死にを遂げていた、
 光秀を狙う羽柴勢が執拗に追いすがったが、土岐兵太夫・明智兵介・溝尾五右衛門・進士作之
丞・隠岐内膳らが踏み留まり、力戦して敵を支え、ことごとく斬死をした。
 自分のために命を捨ててくれた、大勢の男たちの姿が脳裡に明滅する。光秀にはもはや生への未
練はなかった。


[光秀の最期と本能寺の変の考察]へ続く


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