備後歴史雑学 

[赤穂城]

 赤穂城のはじまりは、南北朝の争乱期の頃である。白旗城の赤松則村は、足利尊氏に属し一躍
播磨守護となり、瀬戸内の制海権を把握するため、赤松一族をして赤穂城の北にある大鷹山に城を
構えさせたという。
 赤松氏は室町開府となると幕府四職の一家になり、赤松満祐の代には一族の岡豊前守の居城に
なったという。しかし、当時の主要交通路は海路であったため、岡氏は今日の赤穂城下に居城を移
した。
 現在の赤穂城のすぐ北の城下町に古城といわれる区画があり、岡豊前守が城を移したのは享徳
年間(1452〜55)といわれれいる。大鷹山城は戦国末期まで存続した。
 おそらく赤松氏にとって、制海権の必要性と当地方の塩田確保の目的のために、赤穂古城と呼ば
れた新城を築いたものと思われる。

 天正年間(1573〜92)にいたると赤松氏にかわり、当城は岡山の宇喜多氏が領することにな
る。宇喜多秀家は津浪法印を城主にして、刈屋城と呼ばれる城を築いたともいわれるが、はたして
当時の城が古城にあたるところか、今の本丸の地にあたるのかは不明な点が多い。
(赤穂城の別名は加里屋城といい古城があった地名でもある)

 関ヶ原合戦後赤穂の地は、姫路城に入った池田輝政の領するところとなり、輝政は備前地方およ
び海路の重要性から、重臣垂水平左衛門を赤穂城代として、現在の本丸・二の丸付近にあらたに
築城の工事をして、陣屋造りの城を築いたといわれる。
 この時代の赤穂城の史料は無いそうだが、[赤穂郡志]は、石垣・櫓・門などを構えた「掻上げの
城」と記している。
 垂水氏は池田家の「浦手奉行」の地位にあり、赤穂城が海賊城(水軍)であったことを物語ってい
るが、池田氏は備前下津井に水軍の本拠地として下津井城を築城、垂水氏は赤穂から下津井城に
移った。
 池田輝政は三男河内守忠雄を赤穂城主にして赤穂藩が成立。のち忠雄は淡路に移り、さらには
備前岡山藩主となる。
 赤穂は輝政の五男右京大夫政綱が三万五千石をもって封じられた。政綱の代に赤穂城は、大坂
の陣にそなえて強固に改築されたといわれ、ほぼ現在の中郭部の輪郭が出来上がった。
 政綱の後は、弟の右将監輝興が封じられたが、正保2年(1645)3月に発狂し、妻子を殺害する
事件が起きた(正室の黒田長政の娘を殺害した)。赤穂池田家は公収され、断絶となった。

 「浅野氏時代」
 池田氏にかわり、赤穂城に入城したのが常陸笠間城主であった浅野内匠頭長直であった。長直
は赤穂郡・加西郡・佐用郡五万三千石をもって入国した。
 赤穂浅野家初代の長直は、慶長15年(1610)下野国真岡藩主(のちに常陸国笠間藩主)である浅
野長重(浅野長政三男)の長男として生まれた。(広島藩主浅野長晟の甥)
 母は三河吉田藩主松平家清の娘で、幼名は又一郎。正室は丹羽長重の娘。子に長友、大石良重
室、養子に長賢、長恒。
 浅野長直は、池田家断絶の城受け取りに赤穂城に入り、そのまま幕府より赤穂移封をいい渡され
た。

 池田氏時代の赤穂城では、浅野家五万三千石の居城としてはいささか狭く、また本家安芸広島
浅野家と近い関係上、幕府は備前・播磨西部の制海権確保のため、新城の構築を許可した。
 工事の指揮は、長直の重臣の一人近藤三郎正純であった。正純は甲州流軍学を集大成した小幡
景憲の弟子にあたり、当代一流の兵法者であった。
 当時の兵法(軍学)は、大きく戦法・陣法・城取りに大別され、築城に必要な縄張りに重きがおか
れていた。正純は築城には最適任者であった。
 着工は慶安元年(1648)6月である。この年の11月から測量を行った。このとき使用した測量計
器がいまも花岳寺に残されていて、また花岳寺には赤穂城設計にともなう数々の模型も伝えられて
いる。その中に計画だけで終わった赤穂城天守五層の模型もある。
 翌慶安2年から石垣の普請がはじまるが、この年の8月に山鹿素行が浅野長直の招きに応じて赤
穂を訪れた。
 素行は近藤正純とともに小幡景憲の弟子で、正純の弟弟子にあたるが当時、すでに山鹿流兵法
をうち立て、一家をなしていた。このとき素行32歳、正純51歳といわれる。
 素行は二の丸虎口の縄張りを指揮したといわれる。城は13年を費やして寛文元年(1661)に一
応の完成を見たといわれている。天守台は本丸東南に孤立して石垣で築かれたが、天守は建てら
れなかった。

 赤穂浅野氏は長直の長男長友が二代藩主となり、寛文12年(1672)10月、国許赤穂に初めて入り
藩政を執り始めるが、延宝3年(1675)正月26日、33歳の若さでこの世を去った。藩主たることわず
かに四年であった。
 三代藩主内匠頭長矩は、寛文7年(1667)時の赤穂藩主浅野長直の子の長友の長男として生ま
れた。母は譜代大名の内藤忠政(志摩鳥羽藩主)の娘・波知(正室)。
 まさに赤穂浅野家の嫡男たる出生である。幼名の又一郎がそれを物語っている(これは祖父長
直、父長友と同じ幼名である)。
 世にいう江戸城刃傷事件で、長矩は元禄14年(1701)3月14日に切腹。ここに三代56年間の
赤穂浅野氏は断絶となった。


 浅野氏のあとは、下野鳥山から永井伊賀守直敬が入城した。石高は三万三千石で、元禄14年9
月に入部した。しかし直敬は在城期間わずか5年で転封となった。

 永井氏にかわり城主となったのが森和泉守長直である。この森氏は、森長可・蘭丸の直系にあた
る美作津山城の森氏の分家である。
 長直は、備中西荏原陣屋で二万石を領していて、同じ石高をもって宝永4年(1707)4月に赤穂
へ入部した。
 森氏はその後、赤穂藩主として老巧化した建物などに修理を加え、明治維新まで十一代の長きに
わたって城主を務め、越後守忠儀の代に廃藩を迎えた。
 城は、明治5年(1872)の廃城令により、建物の破却を命じられた。


 「赤穂城の概略」

 本丸
 日本城郭資料館所蔵の明治初年の絵図によると、本丸総曲輪間数は三百十一間。塁の総長は
五町十一間一尺八寸と記されている。面積は一千九百余坪である。
 東側には今も天守台が巨石の石積みをもって現存している。絵図には東西八間、南北九間、高さ
三丈一尺五寸と記され、計画では五層の天守が上がるはずであったが、外様大名浅野氏の徳川家
に対する遠慮と、すでに「武家諸法度」が出されていた関係上、ついに天守は上げられなかった。
 花岳寺にある五層天守の模型から、江戸城天守や寛永再築大坂城天守と同じ層塔式五層天守
で、望楼高欄が最上階に載る型を計画していたことが推察される。
 本丸中央部には藩主の本丸御殿が構えられた。櫓は東北に二層の東北隅櫓が一基上げられ、
今も櫓台が残っている。
 本丸塁壁はたいへん複雑な構造である。西北部と南の隅では出桝形という横矢掛りがあり、西側
の中央では鋭角に折れ歪が施され、さらに東塁壁では、三角形に突出している横矢掛りが二か所
もある。
 この塁壁の屈曲こそ、赤穂城が天下の名城として謳われている点である。甲州流・山鹿流兵法で
いう横矢掛りの技法も見事に取り入れられていて、籠城堅固で、しかも敵に対する攻撃の自由性が
よく生かされた縄張となっている。
 本丸塁壁上の塀にあった狭間は、「弓・鉄砲狭間二百七十二、大筒狭間八、塵落三」と記してい
る。
 虎口である城門は三か所あり、本丸大手門にあたる本丸一の門(櫓門)は高麗門とともに平成6
年に復元されている。
 東側には木橋を架けて厩口門があり、南側の海手には刎橋門があり、つりあげ式の橋門であっ
た。

 二の丸
 二の丸は、二の丸前曲輪と二の丸後曲輪に分かれ、後曲輪は海手曲輪とも呼ばれていた。曲輪
塁壁の総長は十一町二十一間で、ここにあげられた塀の狭間は「弓・鉄砲狭間千五十、大筒狭間
三十五、塵落八」であった。
 縄張図を見てもわかるが、ことに東側塁壁が幾重にも屏風状に屈曲し、「屏風折」という横矢掛り
をもっている。
 また北側には明らかに稜堡式築城を取り入れた鋭角の三角状の突出が見られ、この東側が当城
の弱点であったことがわかる。同時にこの東側が熊見川河口で、湊であり防御の要であったことを
物語っている。
 前曲輪には二の丸大手門(小桝形門)が北側にひらかれ、西側には西中の門がひらかれていた。
 前曲輪の櫓は、北方稜堡上に二層隅櫓、東に平櫓、大手西隣に到着櫓を兼ねた平櫓が上げられ
ていた。
 今日二の丸大手口の箇所に山鹿素行の像と、塩業博物館(の建物だったか?)がある。
 後曲輪は本丸を南方よりすっぽり包む形で縄張りされていたが、現在は公園等で遺構は残ってい
ない。
 かつては馬場・武具蔵・火薬庫・果樹園・御薬苑などがあり、前曲輪との仕切りには、仕切り門が
東西二か所あった。
 いちばん南側には水手門がひらかれ、ここに軍船が着いた。水手門は当城の搦手門に相当し、
門を警固するかたちで、西に二層の南沖櫓と、東に二層の隅櫓の東沖櫓が配されていた。

 三の丸
 三の丸は重臣家中の屋敷が構えられていた。面積も一番大きく、塁壁延長は九町三十三間で、
塁上の塀の狭間は「弓・鉄砲狭間三百三十二、大筒狭間三十一、塵落八」と記されている。
 三の丸の特色は、櫓と門である虎口が一対にかたちづくられている点である。赤穂城正面の虎口
である三の丸大手門は、現在復元されている二層の北の隅櫓と一対となっており、西大手口にあた
る塩屋門と二層の西の隅櫓(水門櫓)、清水門と二層の東南隅櫓及び二の丸東北隅櫓、干潟門と
二層の西南櫓が、それぞれが一対をなしている。
 また、清水門はかつての船入りに位置した虎口でもあった。この前面には、木橋を隔てて米蔵の
一曲輪が形成されていた。現在はその面影さえないが、赤穂城の海の大手というべき虎口であっ
た。

 なお今日、大手門を入るとすぐに旧大石邸長屋門が残る。大石氏一千五百石取りの家老屋敷に
ふさわしい遺構であるが、大石神社がかつての屋敷内であるという。


                              赤穂城大手門↑


赤穂城の画像へ続く


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