備後歴史雑学 

関ヶ原合戦シリーズ1[攻防上田城]
「真田昌幸と上田城の戦い」後篇

 秀忠は翌5日総軍を率いて小諸城を進発、上田城の東方約2キロの染屋台地に陣した。
 徳川軍は真田信幸を先鋒として、上田城の背後をおさえている戸石(砥石)城の攻撃に向かわせ
た。
 戸石城は、かつて北信濃の雄村上義清が小県・佐久地方をおさえる拠点としていたが、天文20
年(1551)昌幸の父幸隆によって攻略された。以後、上田築城まで真田氏の居城として用いられ
た。四城(上田城に近い方から米山城・戸石城・本城・桝形城)で構成されている連郭式の堅固な山
城で、幸隆攻略の前年、武田信玄が一ヶ月余攻撃したが、攻略できずに惨敗を喫している。
 戦史に名高い城である。
 第一次上田合戦の際は信幸が守備したが、今度は弟の幸村が城将として守っていた。兄が弟を
攻めるのである。東西に分立したとはいえ、幸村は兄と一戦交えるのは本意ではないと、むしろ信
幸に功をたてさせるべく、早くも城を開け上田城へ引き揚げてしまった。
 これを見て秀忠は、戸石城に信幸を入れ守備させた。

 徳川方の戸石城奪取の余勢から翌6日、両軍の戦闘が上田城頭において繰り広げられた。
 秀忠が率いた軍勢は三万八千余といわれているが「日本戦史ー関ヶ原役」によれば、概略次のよ
うである(人数はすべて概算)
徳川秀忠一万五千、榊原康政三千、本田忠政三千、奥平信昌二千四百、石川康長二千四
百、大久保忠隣千三百五十、酒井家次九百、本田正信三百、森忠政三千八百十、仙石秀久
千五百、真田信幸八百十、日根野備中七百五十、小笠原忠政六百、菅沼忠政六百、諏訪頼
水三百六十、戸田一西百五十、である。
 これに対して、上田籠城軍の動員数は二千五百余と想定されている。
              戸石城↓           ↓矢沢城    染谷台↓ ↓秀忠軍

上田城付近のイラスト:天正11年(1583)真田昌幸によって築城が起工された。千曲川の河
岸段丘上に築かれた上田城は別名松尾城・尼ケ淵城ともいわれ、それ以前は小県郡の土豪
小泉氏の砦があったという。


イラスト左上の図:戸石城は四城が連なった堅固な山城で、図上に真田氏館があった。

 6日の朝、秀忠は上田城外の染谷台に陣を進め城を包囲した。時あたかも実りの秋であったか
ら、徳川軍の牧野康成・酒井家次らは、上田城下の稲を刈らせたり、偵察隊の足軽を狙って発砲し
たりして、城兵をおびき出した。小競り合いのあと、城兵が足並みを乱して逃げ出すと、牧野隊の兵
は勢いに乗じてこれを追撃した。
 だが、これは昌幸の作戦であった。城兵は逃げるとみせては止まり、留まるとみせては逃げ、つい
に城の東方にある科野大宮社のあたりまで牧野隊を誘い込んだ。社の森陰や周辺に待機していた
真田の伏兵が一斉に起こり、牧野隊を要撃した。そこへ本田・大久保隊が援兵を繰り出した。戦況
は一進一退となったが、時が経つにつれて耐えきれなくなった真田軍は、隊伍を乱して城下の街路
へ逃げ込んだ。
 これを徳川軍の主力隊が先を争って神川を渡り、真田勢に襲いかかったので城兵は敗走した。勢
いのついた徳川勢は、部将の制止も聞かず追尾して城壁の近くまで押し寄せた。
 
するとこのとき、上田城の北方虚空蔵山(伊勢崎城)から、百姓・町人を交えた真田の一隊が現れ、
徳川勢を急襲した。と、同時に幸村は部下に命じて神川の上流の堰止めを切った。
 その猛烈な銃声・鬨の声に驚いて徳川勢の足並みが乱れた。そのとき大手門が左右に開かれ、
鉄砲が一斉に火を噴き、その背後から幸村隊が出撃し、真田勢が縦横に突撃した。
 徳川勢は大いに敗れ、、死傷算なき状態に陥った。我先に神川を越えて逃れようとしたが、増水
のため溺死する者もおり、後軍が救おうとしても神川を渡ることができなかった。
 この昌幸・幸村の巧妙なゲリラ戦法の術中にみごとに嵌まった寄せ手は、右往左往の混乱状態に
陥った。

 かくして5日から始まった徳川軍の上田城攻撃は、第一次上田合戦と同様、真田軍が敵を城壁の
そばまでおびき寄せて、城中から弓・鉄砲で狙撃し、敵がひるむやいなや出撃し、横あるいは背後
の伏兵が槍を繰り出して混乱に陥れ、再び勝利を収めた。
 徳川軍は大軍を投入したものの、日時を浪費するのみでついに上田城を攻め陥すことはできなか
った。
 この背景には、昌幸が家老・部将・物頭らを残らず呼び寄せ、
「馬上の者の儀は申すに及ばず、歩行の者また侍・足軽・中間・小者・百姓・町人にいたるまで、こ
の度の働きについては、敵の首一つに知行百石与うべし。偽りあるべがらずと申し渡すに付、侍は
申すに及ばず、足軽・小者・在々所々の者までも勇むこと限りなし」と、申し渡した。
 昌幸・幸村の用兵の妙によるところ大であった。

 秀忠を補佐して指揮にあたっていた本田正信は、諸隊の軍令違反を厳しく責め、大久保忠隣の旗
奉行杉浦文勝・牧野康成の旗奉行熱掃部(にえかもん)らに死を命じた。杉浦は自刃したが、熱は
主人の黙認を得て逃亡した。このため牧野康成は秀忠の軍からはずされ、のち領地を没収された。
 この忠隣は皮肉にも天正13年に上田城を攻めて失敗した忠世(大久保彦左衛門忠教の兄)の子
で、のち正信のために失脚する。正信は大久保一族にとっては、仇敵に等しい人物である。
 そこで彦左衛門は「三河物語」の中で、大いに正信をののしり、将軍は22歳で若かったので全て
正信が取りしきり、真田にたぶらかされて四・五日を空費してしまったと述べている。
 正信の子正純が失脚する遠因の一つは、このような味方の怨みを買う行為が重なったようであ
る。

 そうこうしているうちに、上方の状況が急を告げてきたとみえ、9月8日付の森忠政宛て書状に秀
忠は、
「内府公より、急ぎ西上するよう申し越されたので、小諸に兵を引こうと思う」と伝えている。
 また配下の部将からも、
「上田ごとき小城に時日を移さんは益なきに似たり。上方の敵こそ最務なれ」と諫言され、秀忠はつ
いに上田城攻略をあきらめ、森忠政・仙石久秀・石川康長・日根野高吉ら信濃に所領を有する諸将
を上田城のおさえとして留め、9月11日(8日説もあり)小諸城を発って関ヶ原をめざした。
 小諸を南下した秀忠軍は、武石・和田の真田領を避け、すぐに中山道に入らず、大門峠への役行
者越えをして諏訪へ出、中山道へ入った。そして難路にさんざん悩まされた末、ようやく9月16日に
なって、木曾福島の山村良勝の館に入ることができた。
 しかしその前日、関ヶ原合戦は東軍の大勝利で終わっており、秀忠は家康より先に出発しておき
ながら、この一大決戦に間に合わなかった。やがて大津城に到着した秀忠に、家康は怒って面会さ
えも許さなかったと伝えられている。

 結局、上田城は堅守のままで関ヶ原合戦は終わってしまった。昌幸は二度まで上田城で徳川軍を
破ったわけだが、光成らの西軍は大敗したので、上田城もついに降伏せざるを得なかった。
 昌幸・幸村は信之の命乞いにより死一等を減ぜられ、紀州高野山に流された。信之は侍臣を送
り、生活費を届けてよく面倒をみた。
 昌幸は慶長16年(1611)高野山麓九度山で亡くなった。
 幸村は豊臣秀頼に招かれて大坂城に入り、冬の陣・夏の陣に大活躍し「真田日本一の兵」と敵将
からも讃えられた。
 信之は元和8年上田から松代に移封され、万治元年(1658)93歳の天寿を全うして亡くなる。
 真田一族は戦国の荒波のなかで、精一杯に生き、武名を残すとともに、十万石の大名として明治
維新まで、その家を存続させたのである。


 最後までお読み戴き、誠にありがとうございました。

 参考図書
決戦関ヶ原 学研、戦国の籠城戦 歴史読本 関ヶ原 歴史と旅、武将総覧 秋田書店、他

 余談:はるか前に上田城を訪城した時は桜の散る季節でした。ほとんどの城郭には桜があります
が、上田城も桜の名所できれいでした。また売店(露店だったかも)で食した味噌田楽が美味でし
た。私の好きな歴史人物の筆頭が真田幸村ですので、大坂冬・夏の陣で改めてご紹介する予定で
す。

関ヶ原合戦シリーズ2「直江兼続と長谷堂城の戦い」前篇へ続く


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