備後歴史雑学 

関ヶ原合戦シリーズ1
「真田昌幸と上田城の戦い」前篇

「日本国二つに分けて爰を詮度とおびただしく戦い」(太田牛一)

 徳川秀忠軍三万八千を遅参せしめた真田昌幸の智謀

 真田氏は信州の古い豪族である滋野氏からから出た海野氏から起こった。海野は今の上田市付
近の総称で、戦国時代に海野城といったのは上田城のことである。
 室町末期に海野信濃守棟綱の子(孫ともいう)の幸隆が小県郡の真田の地に住んで、はじめて真
田を称したと「真田家系図」にある。
 初代弾正忠幸隆のころから地方豪族として台頭しはじめた。しかし当時の東信濃地方は、実力者
村上義清と隣国甲斐の武田氏の頭角の場であり、小豪族たちは風になびく葦のようなもので、幸隆
も早速その渦中にまきこまれ天文10年(1541)、戦いに敗れ西上州に落ちのびた。幸隆29歳の
時であった。
 その後、幸隆は旧領を回復するため、武田信玄に臣従して奇智奇略を駆使して戦功を重ね、「鬼
弾正」の異名をとり、ついに武田二十四将に数えられる重臣となっている。
 幸隆は主君信玄の亡くなった翌天正2年(1574)に没し、そのあとは三男の昌幸が継いだ。

 昌幸は、後年豊臣秀吉からは「表裏比興」の者と評されているが、父と同様武勇と策謀に優れた
人物であった。
 天正8年(1580)昌幸は武田氏の命を受けて、沼田城を攻略してこれを己の所領に加えた。この
沼田城は真田氏の第二の本城というべき重要な拠点になる。
 順調だった昌幸の前に暗雲が萌したのは、天正10年織田信長が甲斐に侵攻し、武田氏はあえな
く滅亡してしまったのである。
 真田氏はその当時、小県郡と上州沼田の領地六万五千石を死守していた。上信国境は東西の要
衝の地として北条・上杉・徳川ら列強のかっこうの標的となった。
 この時、苦渋のすえに昌幸が選んだ道は、甲斐を占領した信長に服従することだった。滞在中の
諏訪で昌幸を引見した信長は、気前よく旧領を安堵した。ところがその信長は僅か二ヶ月あまりの
ち、本能寺の変で斃れてしまった。

 支配権が宙に浮いた上州・信州へは、小田原の北条氏直が攻め込んできた。弱小の真田氏とし
ては、これに従わざるをえない。
 ついで越後の上杉景勝が信州に侵入すると、昌幸は景勝にも恭順の意を示した。
 さらに9月には徳川家康が本格的な甲信経略の軍を動かしたので、昌幸はまた節を変じ、家康に
款を通じなければならなかった。
 つまり昌幸は、一年の間に織田・北条・上杉・徳川と四度も主君を替えたわけである。昌幸も、骨
身に沁みて悲哀感を覚えたことであろう。だが、ことはまだそれですまなかった。
 ほどなく徳川と北条が同盟を結んだ折、北条側の意向を汲んだ徳川氏が天正13年、沼田領を北
条氏に引き渡すよう昌幸に命じてきたのである。・・・・・理不尽すぎる。
 この命令には、さすがの昌幸も憤怒の情を抑えきれなかった。

 「上田城の戦い」
 家康の横車に我慢できなかった昌幸は、上杉景勝と裏で結び豊臣秀吉にも支援を乞うと、上田城
に立て籠もり叛旗をひるがえした。この時、昌幸は次男幸村(信繁)を景勝のもとに人質に差し出し
ている。
 これに対して家康は昌幸の離反を放置せず、大軍を遣わして上田城を攻めさせた。
  上田城↓    戸石城↓  ↓矢沢城   

           丸子城↑   鳥居↑↑↑大久保・平岩隊        ↑千曲川
 天正13年(1585)8月末、上田城へ攻め寄せた徳川勢の主力は鳥居元忠・平岩親吉・大久保忠
世・柴田重政らの率いる諸隊、それに諏訪頼忠・保科正直・依田康国・屋代秀政・下条頼安・知久
頼氏らの信濃勢、岡部長盛・三枝昌頼ら武田遺臣あわせて約七千余である。
 昌幸は上田城に籠り、信幸を戸石城に、重臣矢沢を矢沢の砦に入れ、城下町には柵を諸所に食
い違いに結んで待ち構えた。
 徳川勢は上田城を一もみに押し崩そうと城下三方の口から城の総構えの中まで押し寄せた。
[上田軍記]によると、昌幸は櫓に上がり甲冑も着けず碁を打っていた。神川に出ていた真田の一
隊は、敵と接触しながら引き揚げ横曲輪から城中に入った。徳川勢は城下の柵にかまわず城に迫
った。昌幸は「時分はよし」と立ち上がり、下知を下した。伏兵に合図して城下に火を放たせ、前後
から鉄砲の銃弾を注ぎ、徳川勢が混乱するところを大手から昌幸自ら兵を率いて打って出た。
 信幸も戸石城を出て城の近くに待機していたが、敗走する徳川勢に横槍を入れた。
 徳川勢でわりに善戦したのは大久保隊だけであった。これは、徳川勢の中に大久保彦左衛門(2
6歳)がいて、彼が晩年にまとめた[三河物語]のなかに、この戦のことを詳しく記述している。しかし
彦左衛門の身びいきがだいぶあるらしいが、大久保隊が最後まで踏み留まって戦ったらしい。

 敗戦の翌日閏8月3日、徳川勢は後退し千曲川を超えて八重原の大地に押し上がった。ここから
南約10キロに真田の属城丸子(まりこ)城がある。先ず、丸子城を血祭りに上げて士気を高めよう
と、徳川勢は隙をうかがった。
 徳川勢と丸子城救援の真田勢は20日丸子川原で戦ったが、徳川勢はついに丸子城を落とすこと
ができなかった。
 9月下旬、徳川勢は真田領から兵を引いて佐久・諏訪方面を固め、再攻の機をうかがっていたが、
11月に入ると徳川方の諸将は、家康の命でにわかに兵をまとめて引き揚げてしまった。

 昌幸は事情を知らなかったから驚いた。11月17日、昌幸は上杉景勝の重臣直江兼続に次ぎの
ように報じている。
「報告によると、甲州および信州佐久・諏訪へ徳川から派遣されていた平岩・芝田・大久保を三人と
も遠州へ呼び返したそうです。どんな相談をしたのかわかりません。甲州辺へ諜者を派遣し、様子
がわかり次第報告します」
 徳川氏には、実は重大な不祥事が起こっていた。譜代重臣の筆頭石川数正が11月13日、岡崎
を出奔して豊臣秀吉の許へ走ってしまったのである。
 ともかく、昌幸は一孤城に拠って徳川の大軍を撃退した。

 この大勝利によって、真田の武名は一段と高まった。しかし、それでも真田氏の地位はなお有力
豪族というにとどまり、一流大名に伍するには距離がありすぎた。
 昌幸は秀吉に属するについて、上杉のところにいた幸村をあらためて大坂へ人質に差し出さねば
ならなかった。だが、それ以上に昌幸の気持ちを萎えさせたのは、豊臣政権が全国統一政体として
明確な姿をあらわし、戦国の世が遠ざかりつつある状況だった。このままでは、ついに真田は大名
の末端につらなった程度で終わってしまうことだった。

 そんな失意の昌幸の前にまったくおあつらえ向きといった感じで生じたのが、秀吉没後、家康主導
のもとでの会津攻め、そして関ヶ原の戦いだったのである。
 慶長5年6月、上田在城の昌幸・幸村のもとに、家康から会津上杉景勝征討の動員令が届けられ
た。昌幸の胸中は、上杉氏とは天正13年の第一次上田合戦の家名存亡の重大事に、絶大な援助
を受けた親交の間柄であったから、大変困惑したのであるが、野望達成のために全力を傾けようと
いう決意に満たされていた。
 真田父子は徳川秀忠に随行した。

 「真田父子犬伏の別れ」
 昌幸が西軍挙兵を告げる石田光成らの密書を受け取ったのは、7月21日に下野国犬伏に陣して
いるときのことだった。密書は当然ながら西軍に味方することを強く求めていた。
 昌幸は光成の挙兵を予期していなかった。密書のもたらした内容には大谷吉継・宇田頼忠が光成
に与したという真田一族にとって重大な情報が含まれていた。吉継は幸村の妻(安岐姫)の父、頼
忠の子の頼次の妻は昌幸の娘である。さらに頼忠の娘が石田光成に嫁いでいて、また昌幸の後妻
も頼忠の娘で、光成の妻とは姉妹であった。
 昌幸はこの事態にどう対処すべきか。三成が事前に相談してくれなかったことを怒ったが、事は急
である。
 昌幸は別の場所にいた長男信幸を急ぎ呼び出し、次男幸村と民家の離れに入り、人払いをして密
議をこらした。三人は激論をかわした。
 おだやかな話し合いではなく、めいめい信ずるところを主張して激論したが、昌幸の腹はすでに固
まっていた。
 長男信幸は、真田家の人質として天正17年(1589)24歳のとき、家康の下に出仕して忠勤を励
んでおり、本田忠勝の娘小松姫をめあわせられていた。
 一方弟の幸村は秀吉の下に出仕して、大谷吉継の娘を妻にしていた。
 この密議で長男信幸は昌幸や幸村と逆に東軍に属することが決した。昌幸の指示にもとずく予定
の行動であったと思われる。
 その計算は関ヶ原の戦後、真田の家が信幸改め信之に継がれて存続したから、立派に役立った
といえる。

 信幸はただちに手兵を率いて、小山の秀忠の本陣へ駆けつけて異心のないことを誓った。家康は
24日に小山へ着き、即日信幸に書状を与え、ついで27日には父の所領の小県郡を信幸にあてが
う旨の安堵状を与えた。
 家康の上杉討伐軍に加わっていた諸大名のほとんどがそのまま家康に味方して関ヶ原へ向かっ
たなかで、昌幸・幸村父子だけが反家康を宣言したについては巷間さまざまいわれているが、いず
れにしても、勝ったほうが助命に尽力することくらいは暗黙の了解があったかもしれない。
 犬伏宿で信幸と決別した昌幸・幸村父子は早々に陣払いし、上田城に引き返し籠城に備えた。
 途中、信幸の居城沼田城に立ち寄ったが、留守を守る信幸の妻である本田忠勝の娘小松殿に怪
しまれ、入城を拒まれている。


 家康は江戸へ引き返し、先発隊を出発させた。自らは8月末まで一ヶ月あまり江戸城に滞在した。
 秀忠もしばらく宇都宮に在陣したが、8月24日秀忠軍三万八千は宇都宮を出発して東山道を西
上の途についた。
 昌幸・幸村父子三千余の兵が籠る上田城は、中山道からはずれていたため秀忠は素通りすること
もできた。しかし若い秀忠は十倍の大軍をもってすれば簡単に陥とせるとみた。この機会にかつて
の上田城敗戦の雪辱を期そうというこころづもりもあったかもしれない。
 9月2日秀忠は佐久郡小諸城に入った。家康も1日に江戸城を出発して東海道を西上。
 中山道は小諸を通らない。昌幸を攻めるためにわざと寄り道をしたのである。

 秀忠はまず調略によって昌幸を降伏させようと、従軍中の信幸と本田忠政(忠勝の長子)の両名を
軍使として、昌幸との和睦工作を命じた。
 9月3日、信幸と忠政は昌幸と会見し、上田城の明け渡しを説得した。昌幸は二人を饗応のうえ、
「わが方は、まだ大坂方に味方すると決めたわけではない。内府公の会津征討は謂われなきことに
思うので、上田に引き籠ったまでである。したがって秀忠公に敵対する考えはない。勧めに従い、明
日にも城を明け渡したい」と答えた。二人は喜んでこの旨を秀忠に復命した。
 ところが昌幸は、ひそかに兵糧を上田城に入れ、柵作りなど堅固に籠城の準備を急いでいた。
 秀忠は約束の4日になっても何の知らせもないので、不審に思い使者を立てて開城を催促した。
 昌幸は「太閤様のご恩忘れ難く、当城に籠りたるうえは、城を枕に討死にし、名を後世に留めたく
存ずる。願わくば路次のついでに、当城をひと攻め、攻めていただきたい」と、先日とはうって変わっ
て一戦覚悟の挑発的な返事であった。
 秀忠は昌幸の引き延ばし作戦に乗せられたことを激怒し、翌5日上田城攻めにふみきった。
 秀忠はすでに、昌幸の深謀に嵌まっていたのだった。


            [攻防上田城]へ続く


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