備後歴史雑学 

[三原城]
種別:海城 別名:浮城・玉壺城

 「小早川家系図」によると、三原城の築城は永禄10年(1567)とされ、それまでの三原要害を沼
田川河口の大島・小島を基盤として石垣でつなぎ、整備・拡張されて三原城に発展していく。
 小早川氏の祖は、源頼朝の家臣土肥実平(どひさねひら)である。その子遠平のときに小早川氏
を称している。
 遠平は平家追討の功があり、安芸国沼田地方の地頭職を命じられた。その孫の時代に二家に分
かれ、本家は沼田荘・分家は竹原荘を領した。

 隆景は毛利元就の三男で、竹原小早川家の跡が絶えたとき、毛利元就は天文13年(1544)、竹
原小早川家へ隆景を入れ、ついで先の尼子攻めで沼田本家の当主小早川正平が討死し、その子
繁平が失明という不幸を機に、元就は小早川氏の老臣を抱き込み、正平の娘と結婚させて天文19
年沼田小早川家を相続させたのである。こうして隆景は安芸・東南部の大勢力小早川氏の当主とな
った。
 隆景は小早川氏の本拠高山城に入り、天文21年(1552)沼田川をはさんだ対岸の副塁を整備・
拡張した新高山城に移り、ここを本拠とした。
 小早川氏一族は、早くから瀬戸内海に発展しており、内陸部の新高山城よりも河口に設けられて
いた三原要害が重視されるようになる。
 永禄10年新高山城を廃し、三原に築城することにした。新高山城の旧材を運び、一日三千人の
人夫を動員して三年後に完成している。
 本丸には、石垣四十尺の上に三層の天守を置いたとある(元和元年(1615)の一国一城令後に
鞆城天主を三原城に移築したことを指しているものと思われる)。周囲に海水を取り入れた内堀を巡
らし、二の丸・三の丸を配置した。三十二の櫓と十四の城門があり、満潮時にはあたかも海に浮か
んでいるように見えたので、浮城と呼ばれている。

 城が完成した元亀元年(1570)4月、隆景はこれを祝って城中で祝宴を催した。宴に招かれた一
人に、本郷城主古志清左衛門豊長がいる。身の丈六尺三寸、大力にして驍勇無双といわれた武将
であった。
 父祖は出雲出身だが早くから毛利氏の幕下となり、出雲尼子攻めや伊予宇和島攻めにも加わっ
た。ある戦いで味方が危うくなるとみるや、槍をとって大音声をあげ、瞬時に敵数人を突き倒したとい
う武勇の持主である。
 この古志豊長が、敵に内通していると隆景に讒言する者がいた。讒言を信じた隆景は、家臣に豊
長を殺害するように命じた。
 家臣は酒宴たけなわの頃、酔ってその場に寝てしまった豊長の首を、据物斬りのように打ち落とし
た。胴を離れた首は血を噴きあげながら宴席に音をたてて転がった。かっと目を見開いたままであ
る。首のない胴体は、刀を抜いて立ち上がり数歩歩んでから倒れた。
 豊長の家臣たちも、ことごとく城中で惨殺された。ただ一人井上大炊介という者が脱出して本郷城
へこの兇変を知らせた。本郷城には十五歳になる豊長の嫡子がいたが、ただちに三原城へ単身乗
り込んで隆景に対面した。
 丁重に父の亡骸をもらい受け、城下の寺に葬った。そして父の墓前で念仏を唱えているところを、
討手に斬り殺されてしまった。
 新城の祝宴は無残な謀殺で血に染められた。城下の人々は、小早川氏の繁栄も永くはあるまいと
噂したという。

 城が完成すると隆景は三原城にいることが多くなり「三原の隆景」といわれ、毛利氏の外交担当者
として地の利を生かして活躍することとなる。こうして山陽道と瀬戸内海を扼する三原城は、毛利氏
にとって重要な拠点となり輝元も再三ここに本営を置いた。
 小早川隆景の初陣は天文14年(1545)〜16年の神辺合戦で、この間鞆城に本陣を置いてい
た。(神辺城・鞆城のページを参照してください)
 以後、厳島の合戦・尼子攻め・伊予攻め・大友宗麟との戦い・宇喜多軍ならびに三村軍と、隆景は
毛利軍の山陽道総司令官として転戦を重ねた。
 織田軍と毛利軍の戦闘は天正4年(1576)の大坂石山合戦からはじまり、同10年の備中高松城
の講和までつづいた。このあと隆景は三原城に帰還し、ふたたび堀普請を中心とした城の修築を行
った。
 この堀は二の丸東側の船入りを兼ねた堀と考えられ、海城としての利点を生かして、城と港を直
結させたものである。
 さらに三原の地を水陸交通の要所とすることをねらい、山陽道の整備も実施し、あわせて城下整
備も行っている。

 こののち隆景は秀吉の命により、四国・九州と領国を与えられたが、あくまで三原城を本拠として
重臣に留守居をさせている。
 最後の城普請は、隆景が三原城に引退した文禄4年(1595)から翌慶長元年にかけて行われ、
「仏通禅寺住持記」によると、新高山城の石垣の石を昼夜兼行で運ばせており、天主台の石垣の手
法はこの時期のものといわれていて本格的な城の修築を実施し、現在見られる城と城下町の基礎
を築きあげた。
 慶長2年隆景が死去すると、三原は毛利氏直轄地となった。


 「三原城の構造」

 三原城は山が海に迫っている関係で、海中の島を利用して構築された城である。三角州地帯であ
るため、島を削平して平坦面を構築し削平した土で周辺を埋めたて、城域の確保を行った。堀には
海水が入り干満により水位が変化した。城全体は海に向ってひろがる台形をなしている。
 本丸は城の中央にあり、北端に天主台を設けたが天主はつくられず櫓と多聞があった。本丸は天
主台から南にひろがった形をなし、本丸本門は南に面していた。
 二の丸は本丸の南一帯と天主台の東の鍛冶曲輪で、本丸の東面・南面を囲み、東南に突出部を
もち船入り櫓があった。二の丸と西大手曲輪(西築出)との間の西小曲輪も、のち二の丸に編入さ
れた。西小曲輪の西に方形の西大手曲輪があり、その北に堀を隔てて西大手門があり、その西に
は西の浜があった。
 三の丸は鍛冶曲輪の東に三角形状のかたちをしており、南にはL字形に外堀を囲んだ船着場が
あった。その東に東大手曲輪(東築出)があり、それを北・東・南側から取り囲むように東の浜があ
り、東大手門は北側に配置されていた。
 本丸・二の丸・三の丸の北側には通り丁堀があり、東大手門から堀端にかけて通り丁が東西に通
じ、天主台の西北対岸で南に折れ、さらに西に折れて西大手門に至った。これが山陽道で、通り丁
に面して町奉行所が置かれ、武家屋敷が配置されていた。
 慶長年間の文献によると、侍屋敷凡七十軒・町数三町程・家数千二百二十程となっている。

 本丸北側の先端部に一段高く天主台が設けられたが、天主は築かれていない。天主台は東北西
三方を石垣で囲まれていたが、南側は土塁となっていた。当初は天主閣が置かれる計画であった
が、途中で計画変更されたようである。絵図等の資料によると、天主台には三基の二重櫓が建てら
れ、それぞれ多聞櫓で連結されている。
 三原城の最も特徴的な部分は、海に面した石垣の出入りが激しいところである。小早川水軍の機
能を発揮できるような水軍城の特徴のある城郭である。
 海に面した櫓が多く十基をかぞえる。慶長年間の記録では、櫓総数三十二基・城門数十四と伝え
ている。

 三原城には秀吉や家康も訪れている。秀吉は天正15年(1587)島津攻めの時、九州におむむく
途中三原城で二泊し、文禄元年(1592)にも肥前名護屋への途次三原へ寄り、同年9月東上のと
きも三原に宿泊している。
 家康は肥前名護屋への途中、三原にきて宗光寺に宿泊することになったが、城より高いところに
泊るのは隆景に対して失礼だとして、宗光寺参道脇にあった一株院に宿泊したといわれている。
 三原城での最大の祝儀は、文禄3年(1594)11月13日に行なわれた隆景の養子秀秋(秀俊)と
毛利輝元の養女との婚儀である。双方の支度は華麗を極め目をみはるほどであった。このとき婚
礼・舟遊び・鷹狩り・能楽などが行なわれ、多くの見物人が集まっている。

 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの後、福島正則が安芸・備後四十九万石を領し広島城へ入城し
た。正則は三原城主として養子正之を置き、一族を宗光寺の住職とした。正則はさっそく居城広島
城と三原城ほか支城(鞆・神辺・東城・三次)の大改修を行った。
 この時正則は広島城の西側に十二基の二重櫓を新設している。三原城の海岸に面した十基の二
重櫓も、その共通性から正則によって築かれたと考えられる。
 元和元年(1615)の一国一城令後も三原城は存続を認められた。同5年福島氏が転封(改易)さ
れ、替わって浅野氏が芸備の領主となる。
 三原城へは浅野家筆頭家老の浅野忠吉が城主となり、以後明治維新まで浅野氏が代々城主を
務めている。

 江戸時代の三原城のおもな修築は、万治2年(1659)〜3年の船入りの堀さらい。寛文3年(16
63)の本丸館の建て替え。延宝8年(1680)の西大手門外側の火除地拡大。宝永4年(1707)の
地震による石垣修理などで、このほか洪水・台風などによる被害の修復などがあった。
 全体としては隆景築城当時の規模と大差なく明治に至っている。しかし明治維新によって三原城
も解体されることになった。さらに明治27年(1894)三原城本丸跡に山陽本線三原駅が設置さ
れ、城跡は南北に分断された。現在では新幹線三原駅が出来、本丸の天守台と堀、船入りの石垣
が一部残るのみである。


三原城復元イラスト(南やや東より見た図)


天主台西側にある案内板と天主台


天主台石垣西面を南より見る(後方に見える山が桜山城跡、隆景の時代には甲の丸の出丸が
置かれていたともいう)


天主台東側にある案内板


三原城の前に隆景が本拠としていた新高山城跡と沼田川:南より望む


新高山城の案内板

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