備後歴史雑学 

[足守陣屋]

 足守陣屋は、岡山城から北西に約20Km離れた同市足守に所在する足守藩二万五千石の陣屋
跡である。高松城の北に位置している。
 豊臣秀吉の正室北政所の実兄で小早川秀秋の実父でもある木下(杉原)家定は、慶長5年(160
0)の関ヶ原合戦のときには姫路城主であったが、北政所の意向により西軍・東軍のどちらにも付か
なかった。
 このことを徳川家康に評価され、取りつぶされずに慶長6年、播州姫路から備中足守に移されて、
姫路と同じ石高二万五千石を与えられた。
 木下家定は天文12年(1543)生まれで、義弟(秀吉)に仕えて従五位下肥後守に叙任、播磨姫
路二万五千石を領し、大阪城留守居役をつとめていた。
 家定には六人の男子があり、全員秀吉に仕えている。長男勝俊と次男利房は実は秀吉の側室松
の丸殿(京極高次の姉)の連れ子であり、表面上家定の子とされたらしい。

 慶長13年(1608)家定死去の後、勝俊と利房に遺領の相続が命じられた。しかし二人の間で調
整がつかず、高台院の指示で長男勝俊にのみ領地を独占させた。これが家康の逆鱗にふれ、所領
は没収され一時廃藩となった。
 勝俊は歌人として有名である。また茶道も千利休の弟子であり武将というよりも文化人といった感
じが強く、晩年は風雅の道に徹した。

 慶長15年浅野幸長の弟長晟が二万四千石で入封した。ところが長晟は、慶長18年に宗家の和
歌山城を継ぐことになり、足守藩は再び廃止された。
 慶長19年、家定の次男利房が大阪の陣で戦功をたてた。翌元和元年(1615)、恩賞として父家
定の遺領二万五千石を与えられ、木下足守藩が再興される。この家系が明治維新まで続いた。
 入封した利房は、賀陽郡の大井村庄屋鳥羽太郎左衛門を代官下役に任じ、領内の徴税にあたら
せた。

 寛永14年(1637)利房の子利当が家督を相続する。利当は槍術にすぐれ、心流を編み出してい
る。
 寛文2年(1662)三代目利貞が相続。利当・利貞二代の間に、足守藩の職制と陣屋が整備され
た。
 延宝7年(1679)四代公定(きんさだ)が襲封。以後50年間にわたって治世を担当するが、延宝
や享保の大飢饉、たび重なる公役負担、三度の江戸屋敷火災等で藩財政は窮迫する。
 貞享元年(1684)藩財政不如意につき厳倹約令を布達した。また享保3年(1718)には、家老
の知行五百石のうち百石を向こう十年借りあげている。享保13年には、領民に割り当てた年貢追
加令を不当として庄屋たちが、岡山藩へ訴える事態が発生し、郡奉行三人が罷免された。
 以降、利潔・利忠・利彪・利徽(としよし)・利徳・利愛(としちか)・利恭と木下氏は続く。藩の財政
難も慢性化していて、各藩主それぞれ苦労し、再建の努力も効力を奏さぬまま明治維新を迎えた。

 今、NHKの土曜時代劇の主人公・緒方洪庵は、文化7年(1810)足守藩士佐伯瀬左衛門の子と
して生まれた。
 瀬左衛門が大坂蔵屋敷留守居役となったときに一緒に大坂に上り、蘭学者として本格的な修行を
はじめた。種痘法を広めた蘭学医としてその名を残し、大阪で「適塾」を開き、福沢諭吉らを育てた
教育者としても知られています。
また、最後の藩主利玄(としはる・りげん)は白樺派の歌人として有名である。

 
 藩祖木下家定の居城(陣屋)ははっきりとしないが、陣屋の縄張りは宮路山の南東山麓を占地し、
山寄りに藩主の居館の御屋敷を構え、その正面に会所、南に御蔵屋敷を置き、それらを武家屋敷
が取り囲んでいた。
 武家屋敷の外に南北に細長く町屋を配置し、その外を足守川が外堀状に取り囲んで流れている。
 陣屋町の構成は、重臣の屋敷が御屋敷の近くをかため、町屋をはさんで足守川沿いに軽輩屋敷
を配しており、江戸時代の城下町を小型化した形態である。
 江戸時代後期に、御屋敷の北東に庭園の近水園(おみずえん)が整備されている。
 現在、足守の町並みは陣屋町の景観を残しており、石垣と掘割が完全に遺存し、近水園に建つ
吟風閣は往時の姿のままである。


御屋敷跡正面


正面の案内板


正面右の石垣と掘割


近水園入口


近水園の中に建つ吟風閣


緒方洪庵生家の跡

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